鍋島直茂と立花宗茂(立花左近)-江上・八院の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「鍋島直茂と立花宗茂(立花左近)-江上・八院の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「鍋島直茂と黒田如水(黒田官兵衛)-久留米城の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■鍋島直茂と立花宗茂(立花左近)の戦い
筑後・柳川城(福岡県柳川市本城町)の城主・立花宗茂(立花左近)は、関ヶ原の戦いのとき、家老・立花三河守(薦野増時)の反対を押し切り、豊臣秀頼に忠義を尽くすため、手勢を率いて大阪へ上り、西軍・石田三成に属して戦った。

しかし、立花宗茂(立花左近)は、東軍の京極高次が籠もる大津城(滋賀県大津市浜大津)を攻めていた時に関ヶ原の戦いが決着したため、関ヶ原の戦いの本戦には参加できなかった。

関ヶ原の合戦で西軍が敗走した後、立花宗茂(立花左近)・毛利秀元・島津義弘などの残存勢力が大阪城に集結し、立花宗茂(立花左近)らは豊臣秀頼を擁立して徳川家康と決戦する事を主張した。

西軍は関ヶ原の合戦で負けたとは言え、大勢の勢力が残っており、豊臣秀頼を擁立して戦えば、東軍に属している豊臣秀吉の恩顧武将が西軍に寝返る可能性があり、勝算はあったのである。

しかし、西軍の総大将・毛利輝元は同心せず、自分の安全が保証されると、黒田長政らの開城要求に応じて大阪城を開城してしまう。

これに激怒した立花宗茂(立花左近)は、家臣・薦野半兵衛を使者として徳川家康の元に派遣し、謝罪して許しを請うとともに、島津義弘らと一緒に大阪から海路で本国へと戻り、立花宗茂(立花左近)は慶長5年(1600年)10月上旬に柳川城へ到着した。

一方、佐賀城(佐賀県佐賀市)の城主・鍋島直茂は徳川家康に誼を通じていたが、兵を率いて大阪に登っていた息子・鍋島勝茂が西軍・石田三成に属して京都・伏見城攻め等に加わり、西軍の主力部隊として活躍していた。

鍋島直茂は関ヶ原の決戦の直前に息子・鍋島勝茂を西軍から東軍に転身させたものの、西軍に属した罪を償い、徳川家康に許しを請うて本領安堵を得るため、西軍・小早川秀包の筑後・久留米城を攻めた。

しかし、久留米城は黒田如水(黒田官兵衛)に降伏したので、黒田如水から停戦を命じられた。

そこで、黒田如水(黒田官兵衛)は「柳川城を攻めて武功を上げれば、徳川家康に執りなしてあげよう」と言ってくれたので、鍋島直茂は息子・鍋島勝茂と共に3万の軍勢を率いて柳川城を攻めるため、慶長5年(1600年)10月15日に五反田に布陣した。

他方、黒田如水(黒田官兵衛)も久留米城を出て、柳川城を目指し、水田(福岡県筑後市)に布陣した。黒田如水は、柳川城を攻める鍋島直茂の目付役(監視役)である。

柳川城の立花宗茂(立花左近)は鍋島来襲を聞くと、家老・立花三河守(薦野増時)は「徳川家康に謝罪の使者を送っているが、領土に攻め入られて戦わないのは恥である」と言い、立花宗茂(立花左近)を城に残して、打って出た。

そして、立花宗茂(立花左近)の家臣・小野和泉や立花右衝門が八院という場所まで兵を進め、福岡県久留米市城島町江上の周辺でで鍋島直茂の軍勢と激しく戦った(江上・八院の戦い)。

小野和泉・立花右衝門は少数ながら敵を大勢殺して健闘したが、鍋島直茂は大軍なので、終いには押し負け、柳川城へ戻って籠城した。

そこへ、肥後(熊本県)を平定した熊本城の城主・加藤清正が、手勢を率いて南方より駆けつける。

すると、黒田如水(黒田官兵衛)は鍋島直茂に使者を派遣して、「既に勝敗は決した。鍋島直茂の活躍は徳川家康に報告するので、戦を止めて後命を待たれよ」と命じると、鍋島直茂は黒田如水の指示に従い、戦いを止めた。

さて、立花宗茂(立花左近)の家老・立花三河守(薦野増時)は東軍へ付くことを主張していたが、立花宗茂(立花左近)は家老・立花三河守(薦野増時)の反対を押し切り、豊臣秀吉に忠義を尽くすために西軍・石田三成に与していた。

そこで、黒田如水(黒田官兵衛)は加藤清正と協議して、黒田家の家臣・時枝平太夫を立花三河守(薦野増時)の陣営へ派遣して、酒を送って戦の疲れを労い、密書を使って立花三河守(薦野増時)を加藤清正の陣営に呼び寄せた。

そして、黒田如水(黒田官兵衛)と加藤清正は、立花三河守(薦野増時)に対面し、「立花宗茂(立花左近)が西軍に属したのは、頼まれたからであり、徳川家康に遺恨があるわけではない。我々は島津家を撃つために薩摩へ攻め入るので、貴殿も徳川家康に降参して城を明け渡し、我らと共に薩摩へと攻め入り、徳川家康に志を示されよ。徳川家康への取り次ぎは我らに任せよ。もし、同心せずに徳川家康に敵対するのであれば、立花家は滅亡すると心得よ。この旨を立花宗茂(立花左近)に伝えたまえ」と告げた。

立花三河守(薦野増時)が柳川城へ帰って立花宗茂(立花左近)に報告すると、立花宗茂(立花左近)は「我は若きときより弓矢を取って佳名を失ったことはない。しかし、毛利方に属して我が家の滅亡、ここに極まりぬ。徳川家康への降伏は恥辱ではない。既に家臣・薦野半兵衛を徳川家康に派遣して、謝罪を申し入れているが、薦野半兵衛が戻ってきていないので戦に及んだだけである。黒田如水(黒田官兵衛)が申すことはもっともなので、城を明け渡すべし」と同意した。

注釈:薦野は「こもの」と読み、薦野半兵衛は立花三河守(薦野増時)の弟です。

その後、立花宗茂(立花左近)は黒田如水(黒田官兵衛)・加藤清正に対面し、柳川城を明け渡す。加藤清正が柳川城を受け取り、城番として加藤清正の家臣・加藤善作を置き、筑後の平定をなした。

さて、筑後(福岡県)の南には肥後(熊本県)があり、肥後の北部は加藤清正の領土で、肥後の南部は小西行長の領土であったが、既に加藤清正は肥後南部へと攻め入り、小西行長の宇土城・八代城を攻め落としていた。

また、九州での形勢を見て、肥後・人吉城の城主・相良頼房も東軍に降り、日向(宮城県)の延岡城の城主・秋月種長と、日向(宮城県)の高鍋城の城主・高橋元種も東軍に降ったので、九州に残る西軍は薩摩(鹿児島県)の島津義弘であった。

かくして、筑後・柳川城の城主・立花宗茂(立花左近)が降伏して筑後が平定すると、黒田如水(黒田官兵衛)・加藤清正・鍋島直茂は立花宗茂(立花左近)を先陣とし、肥後(熊本県)を通過して薩摩(鹿児島県)の島津義弘へと兵を進めたのであった。

■島津龍伯(島津義久)の降伏
さて、黒田如水(黒田官兵衛)らが肥後(熊本県)と薩摩(鹿児島県)の境にある水股(熊本県水俣市)まで進むと、島津義弘の兄・島津龍伯(島津義久)からの使者が立花宗茂(立花左近)の陣営へ来た。

島津龍伯(島津義久)が「弟・島津義弘が大阪方に投じて徳川家康に敵対したことは、私の与り知らないことである。ただ今、徳川家康に謝罪し、井伊直政に恩赦の斡旋を頼んでいるところでなので、薩摩へ攻めるのを先延ばしして欲しい」と頼んだ。

これを聞いた黒田如水(黒田官兵衛)は「ならば、上方からの沙汰を待ち、その沙汰に従おう」と言い、薩摩討伐を延期し、水俣城の強固にして、上方からの沙汰を待った。

その後、徳川家康は島津龍伯(島津義久)を許し、黒田如水(黒田官兵衛)は慶長5年(1600年)11月12日に徳川家康からの停戦命令を受け、薩摩討伐を中止して豊前・中津城へと帰った。

こうして、九州は悉く徳川家康に降伏し、黒田如水(黒田官兵衛)の「九州の関ヶ原の戦い」は終結したのであった。

黒田如水(黒田官兵衛)が九州を平定したのは慶長5年(1600年)11月、黒田如水(黒田官兵衛)が55歳、黒田長政が33歳のことであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水と黒田長政-そのとき、左手は何をしていた-あらすじとネタバレ」へ続く。

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