黒田如水(黒田官兵衛)は中国の英雄・張良のごとし

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)は漢の英雄・張良のごとしのあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田如水と黒田長政-そのとき、左手は何をしていた-あらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田如水(黒田官兵衛)の引き際
黒田如水(黒田官兵衛)は九州を平定してるとき、藤堂高虎・井伊直政を通じて徳川家康に「黒田長政は別家を立て、備前・備中・備後(共に岡山県)を賜りたい」「私は切り取った国を賜りたい」と希望を伝えており、黒田如水は「領地は切り取り次第」「豊前一国を与える」という確約を得ていた。

しかし、関ヶ原の合戦後の論功行賞において、黒田長政は筑前(福岡県)52万5000石を拝領するに留まった。

また、肥後・熊本城の加藤清正は小西行長の領土だった27万石を拝領して肥後1国52万石となったにもかかわらず、徳川家康は黒田如水(黒田官兵衛)には一切の恩賞を与えなかった。

仲介役だった井伊直政は責任を感じて、徳川家康に「なぜ、黒田如水(黒田官兵衛)には恩賞を与えないのですか?」と恩賞を求めると、徳川家康は「黒田如水の働きは底が知れないから、黒田長政にだけ恩賞を与えれば良い」と答えたという。

黒田如水(黒田官兵衛)は死ぬ前に「私は豊臣秀吉にも忌まわしがられ、徳川家康にも恐れられ、ひとかどの大名には成れなかった」と嘆いたと伝わる。

さて、筑前入国後の慶長5年(1600年)12月晦日、黒田如水(黒田官兵衛)は徳川家康の招きによって大阪へ上り、徳川家康と対面する。

徳川家康は黒田如水(黒田官兵衛)に膝を突き合わせて九州ので戦況を問うと、黒田如水(黒田官兵衛)は詳しく戦況を報告した。

これを聞いた徳川家康は、「黒田如水(黒田官兵衛)の功績は前代未聞。天下統一が出来たのは黒田親子のおかげである。貴殿には、上方の場所に希望する領土を与えよう。また、朝廷に要請して官位を与えよう。今より、天下政道の指南役を頼む」と告げた。

しかし、黒田如水(黒田官兵衛)は「年老いて病気も多くなり、精力も衰えました。愚息の長政が大国を賜りましたので、長政の養いを受けて余生を暮らしたいと思います。今更、功名は欲しいとは思いません」と答えて恩賞も官位も辞退した。

すると、徳川家康は「今の人間が昔の偉人(漢の張良)の様な行いをするとは素晴らしい事だ」と感心し、黒田如水の辞退を認めた。

その昔、中国に項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)という2人の英雄が居た。項羽と劉邦は協力して秦の始皇帝を倒したが、その後、覇権を争って対立した。

劉邦は酒好きで傲慢な人物だったが、人望が厚いため、張良(ちょうりょう)・韓信(かんしん)・蕭何(しょうか)という3人の英傑を得て、項羽を打ち破り、中国を統一して皇帝に即位し、漢王朝を建国した。

中国統一後、韓信は大国を賜り、斉王となったが、張良は大国と王の座を辞退して、劉邦と出会った留(地名)という小さな村をもらい隠居した。

その後、劉邦は力を持つようになった家臣を疑うようになり、家臣の粛正を始た。斉王に任じられて巨大な軍事力を持つようになった韓信は、劉邦から疑われるようになり、謀反を企てたため、劉邦に処刑されてしまった。

しかし、張良は、小さな村をもらい隠居し、晩年は仙人になる修行を始めると言って俗世間との交わりを絶ったため、劉邦の粛清を逃れたのである。

軍師・張良の活躍は日本にも伝わっており、日本でも人気が高かった。

このため、諸人は黒田如水(黒田官兵衛)が恩賞も官位も辞退したと聞くと、黒田如水(黒田官兵衛)を賞賛した。また、徳川秀忠も黒田如水(黒田官兵衛)を「まさに漢の張良のごとし」と褒め称えた。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水と黒田長政の筑前御討入-福岡と改名して博多が激怒あらすじとネタバレ」へ続く。

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