黒田如水の筑前御討入-博多が福岡に対立する理由

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水の筑前御討入-博多が福岡に対立する理由のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田如水(黒田官兵衛)は中国の英雄・張良のごとし」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田如水の筑前御討入
慶長5年(1600年)10月15日に行われた論功行賞で、黒田長政が徳川家康から筑前(福岡県)52万5000石を賜ると、黒田長政・黒田如水(黒田官兵衛)は豊前を出て、筑前へと入った。

しかし、黒田長政・黒田如水(黒田官兵衛)は直ぐには筑前・名島城に入らず、博多の豪商・神屋宗湛の屋敷に1ヶ月ほど滞在して、博多の様子をうかがった。

さて、中国大陸に近い博多は古来より、日本一の貿易都市として栄えてきたが、戦国時代に入ると、度重なる戦火の影響で消失した。

しかし、九州征伐後に豊臣秀吉が博多の町割り(太閤町割り)を命じて町を整備し、博多を復興させた。この太閤町割りを担当したのが、石田三成や黒田如水(黒田官兵衛)であった。

このとき、博多三傑の1人に数えられる博多の豪商・神屋宗湛は、博多町割り(太閤町割り)に尽力して、豊臣秀吉や石田三成に誼を通じた。

朝鮮出兵を計画していた豊臣秀吉は、博多の豪商・神屋宗湛を重用したので、博多は朝鮮出兵の特需で莫大な利益を博多にもたらした。

こうして、博多は太閤町割り(豊臣秀吉や石田三成)のおかげで復興できたほか、朝鮮出兵などの特需で儲けたので、博多は西軍を支持していた。

このため、東軍の手先だった黒田長政・黒田如水(黒田官兵衛)の入国に反対し、博多商人と黒田家は対立していたのである。

このため、通常の入国であれば、「筑前入国」「筑前入部」と呼ぶのだが、黒田家の筑前入国は武装して入国するほど緊迫していたため、「筑前御討入(ちくぜんおうちいり)」と呼ばれる。

ただ、黒田如水(黒田官兵衛)も博多の町割り(太閤町割り)を担当しており、博多の有力な豪商・神屋宗湛と茶道仲間だったので親しかった。

そこで、黒田如水(黒田官兵衛)は筑前に入国するさい、博多の豪商・神屋宗湛の屋敷に1ヶ月ほど留まり、家臣もその周辺に滞在した。

そこで、博多の豪商・神屋宗湛や博多の有力者・徳永宗也に博多の商人らを説得してもらい、筑前御討入と呼ばれた黒田長政・黒田如水(黒田官兵衛)の筑前入国は、何事もなく無事に終わった。

それでも、黒田長政・黒田如水(黒田官兵衛)の筑前へ入国したとき、博多の一部の商人は、黒田長政・黒田如水らが通っても、平服せず、緊迫した状況は続いていたと伝わる。

■福崎を福岡に改名
慶長5年(1600年)12月、筑前に入った黒田如水(黒田官兵衛)は、博多に入ると、博多の豪商・神屋宗湛の屋敷に留まり、家臣もその周辺に滞在した。そして、黒田如水(黒田官兵衛)と黒田長政は協議して家臣への恩賞や禄を決めた。

慶長5年(1600年)12月8日、黒田如水(黒田官兵衛)は異母弟・黒田修理(黒田利則)を名代として小早川秀秋の居城・名島城へ派遣し、小早川秀秋から名島城を受け取った。

慶長5年(1600年)12日11日、黒田如水(黒田官兵衛)・黒田長政は入場の義を行い、名島城へ入場した。

名島城は、戦後時代に立花鑑載が枝城の1つとして建設した城で、豊臣秀吉による九州征伐の後、筑前など30万石を拝領した小早川隆景が大改修して居城とした城である。名島城は、博多湾に突き出た半島に築かれ、三方を海に囲まれた海城であった。

小早川隆景は毛利一族なので、有事の際に中国地方の毛利家から援軍を迎えるため、戦略的な見地から、三方を海に囲まれた名島城を居城とした。

しかし、名島城は城下町が発展する余地が無く、太平の世には不向きな城であった。

そこで、黒田如水(黒田官兵衛)は、名島城を居城とせず、太平の世に合った新たな城を築くことにした。

博多は南蛮貿易によって栄えていたので、黒田如水(黒田官兵衛)は博多の近くに居城を築くため、博多周辺の「住吉」「箱崎」「荒津」「福崎」の4カ所を候補として検分した結果、要害と経済発展を考え、名島城から南西へ2里離れた場所にある「筑前国那珂郡警固村福崎」に城を築くこ事に決め、福崎を「福岡」と改称した。

福崎を「福岡」と名付けたのは、将軍・足利義稙の怒りを買って追放となった曾祖父・黒田高政が祖父・黒田重隆を連れて備前の福岡村(岡山県瀬戸内市長船町福岡)へと移り住み、父・黒田職隆も備前の福岡村で生まれており、備前の福岡村が黒田家の第2の故郷だからである。

黒田如水(黒田官兵衛)は関ヶ原の合戦のとき、藤堂高虎・井伊直政を通じて徳川家康に「黒田長政は別家を立て、備前・備中・備後(共に岡山県)を賜りたい」「私は切り取った国を賜りたい」と希望と伝えていたが、希望が叶わなかったため、せめて地名だけでもと思い、備前の福岡村から、「福崎」を「福岡」と改めたと伝わる。

(注釈:備前の福岡村も交通の要所で、経済としていた栄えていた。)

なお、黒田如水(黒田官兵衛)は博多も「福岡」と改名しようとしたのか、博多は商人の自治都市で、博多商人が「福岡」改名に激怒したため、博多の名称は残した。

このため、黒田如水は那珂川の西を武家町「福岡」とし、那珂川の東を商人町「博多」と定め、武家と商人で住み分けた。

(注釈:古来より、貿易で栄えてきた博多は、商人の自治都市で、莫大な資金力を持っていたため、武家が強制的に統治するような事はなかったようである。)

■博多商人・大賀宗九の台頭
黒田如水(黒田官兵衛)・黒田長政が豊前の中津から筑前へと移ったとき、豊前の商人や農民も大勢、黒田如水に付いて筑前に移った。このとき、中津出身の商人・大賀宗九も筑前の博多へと移った。

大賀家は大友家の家臣だったが、大友家の没落後に商人に転身した家柄で、筑前に移った大賀宗九は福岡城の城下町の開発に貢献し、黒田家とのつながりを深めた。

博多の有力な豪商である神屋宗湛と嶋井宗室の2人は、豊臣秀吉や石田三成とつながりが深い商人だったので、黒田長政は中津出身の商人・大賀宗九を福岡藩・黒田家の御用商人として、幕府公認の貿易商に任じた。

このため、博多の有力な豪商だった神屋宗湛と嶋井宗室は没落していき、大賀宗九が博多で筆頭の豪商となった(この3人を「博多の三傑」と呼ぶ)。

また、博多は古来より日本一の貿易都市として栄えたが、江戸時代に入ると、鎖国の影響で、長崎が貿易都市として栄えるようになった。貿易で発展してきた博多の商人は、密貿易を行って捕まり、博多は急速に衰えていった。

■博多と福岡の対立
明治時代に入ると、廃藩置県により、福岡藩・黒田家は福岡県となり、福岡区と博多区が出来た。

その後、明治22年に市制が導入されることになり、市制の導入によって「福岡市」が誕生した。

しかし、博多は古来よりある由緒正しい地名なので、博多出身の議員が博多の地名を守るため、市議会に「地名変更の義」を提出すると、「福岡市」と「博多市」を巡って対立が起こった。

当時は福岡よりも博多の方が人口も多かったので、博多出身の議員が17人に対して、福岡出身の議員は13人しか居らず、下馬評では「博多市」の方が優位であった。

しかし、福岡藩・黒田家の旧藩士は、300年間続いた黒田家由来の福岡の地名を無くしていけないと頑張り、市議会の投票結果を13対13へと持ち込んだ。

これは、黒田家・福岡藩の旧藩士が、博多出身の議員4人を寝返らせたとも、福岡出身の議員4人を脅したり、監禁したりして投票させなかったとも伝わる。

いずれにせよ、投票の結果は13対13となり、最終的に福岡藩・黒田家の藩士だった議長の不破国雄が「福岡市」に投票したため、「福岡市」と決定した。

このとき、博多の不満を静めるため、明治22年に開通した電車の駅名を「博多駅」として、博多の地名を残した。

さて、博多と福岡の対立を招いた黒田如水(黒田官兵衛)・黒田長政は、年貢持ち逃げ事件が原因で、隣国・豊前の大名・細川忠興と対立し、犬猿の仲となるのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「細川忠興が黒田長政に激怒-黒田長政の豊前の年貢持ち逃げ事件あらすじとネタバレ」へ続く。

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コメント欄

文中の「このため、黒田如水は那珂川の東を武家町「福岡」とし、那珂川の西を商人町「博多」と定め、武家と商人で住み分けた。」は、反対です。
那珂川の東が博多で、西が福岡です。

  • 投稿者-
  • ふくだ

■ふくださんへ
ご指摘ありがとうございます。西と東が間違っていたので訂正しました。

  • 投稿者-
  • 管理人

「武家と商人で住み分けた」とありますが、太閤町割りで区割りされた博多の町に新たにやってきた武士の居住エリアがなかっただけで、寒村だった福崎に福岡城下を築いた結果、家臣の武士の多くは福岡城下に居住したのであって、福岡城下には博多の「六町筋」を参考にした六町筋を築き町人商人を住まわせていますし、逆に那珂川を渡った博多やその周辺郡部(現在の博多駅周辺など)に武士(多くは下級)が居住しています。つまり、「住み分けた」のではなく、町割りされた時期の違いで結果的にそうなったに過ぎません。

  • 投稿者-
  • おーちゃん