軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の遺言-最終回と結末
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の遺言-最終回と結末のあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田長政と細川忠興の対立の理由-年貢持ち逃げ事件のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■福岡城を建設
小早川秀秋が居城とした筑前・名島城は、博多湾に突き出た半島に築かれており、三方を海に囲まれた海城であった。
小早川秀秋が海上の名島城を居城としたのは、戦争になった時に中国地方の毛利家から援軍を迎える為であった。
しかし、筑前・名島城は城下町が発展する余地が無く、太平の世には不向きな城だったので、筑前に入国した黒田如水(黒田官兵衛)は貿易都市「博多」の近くにある「筑前国那珂郡警固村福崎」を「福岡」と改称し、福岡に新城「福岡城」を築くことにした。
そして、福岡城は(福岡県福岡市中央区)の普請は慶長6年(1601年)に始まり、福岡城が完成するのは黒田如水(黒田官兵衛)の死後の慶長13年(1608年)であった。
■黒田如水(黒田官兵衛)の隠居生活
黒田如水(黒田官兵衛)は、既に隠居しているため、政治のことは黒田長政に任せて、太宰府に滞在していたが、黒田長政が福岡城の西にある鳥飼村に屋敷を建てたので、黒田如水(黒田官兵衛)は太宰府を出て屋敷に移り住んだ。
慶長8年(1603年)、福岡城がほぼ完成すると、黒田如水(黒田官兵衛)は福岡城三の丸に質素な館を建て、移り住んだ。
黒田如水(黒田官兵衛)は、邸宅に美麗を望まず、飲食も淡泊で、使用人は十数人であった。正室・櫛橋光も侍女5~6人しか持たず、黒田如水(黒田官兵衛)は筑前52万石の老主であったが、極めて質素な生活を送っていた。
黒田如水(黒田官兵衛)は児童を愛する人だったので、児童の集団と城下を徘徊したり、児童に邸宅への出入りを自由に許し、遊戯させた。
また、黒田如水(黒田官兵衛)は城下を散歩するとき、必ず士民の家に立ち寄り、家族と談話する事を楽しみとした。
■黒田如水(黒田官兵衛)の遺言
さて、黒田如水(黒田官兵衛)は慶長8年(1603年)8月に京都へ上り、伏見の熊笹邸に入る。その後、有馬温泉で療養するなどしたが、慶長9年(1604年)2月に病気が悪化し、死期を悟ると黒田長政と家老・栗山善助(栗山四郎右衛門)を呼び寄せた。
そして、黒田如水(黒田官兵衛)は愛用した合子の兜(銀白檀塗合子形兜)を家老・栗山善助(栗山四郎右衛門)に授け、「本来なら黒田長政に与えるのが筋だが、思うところがあって栗山善助に合子の兜を与える。今より、合子の兜を私だと思え。栗山善助は黒田長政を我が子だと思い、指導せよ。黒田長政は栗山善助を私が若返った者だと思い、栗山善助に従え」と命じた。
黒田長政らが泣きながら承諾すると、黒田如水は「先君が死んだら、追腹を切る者もいるが、死んでまで先君と地獄極楽を駆け巡る必要はあるまい。ワシは1人でも良い家臣を残したいので、追腹を禁じる」と言い、家臣の切腹を禁じた。
銀白檀塗合子形兜は、黒田如水(黒田官兵衛)と正室・櫛橋光が結婚刷る前に、櫛橋家が黒田如水に送った物だとされており、黒田如水を象徴する兜である。
しかし、黒田如水(黒田官兵衛)は家老・栗山善助(栗山四郎右衛門)に合子兜を与えたため、本物の銀白檀塗合子形兜は他藩に流出し、現在は岩手県盛岡市にある「もりおか歴史文化館」が保存している。
(注釈:銀白檀塗合子形兜が他藩に流出した経緯は、「栗山善助(栗山利安)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)
■黒田如水の草履
ある日、黒田如水(黒田官兵衛)は黒田長政を呼び寄せ、黒田長政に草履の片方と下駄の片方と面桶(弁当箱)を贈った。
黒田長政がこの3点を贈られた意味を考えていると、黒田如水(黒田官兵衛)は「汝は考えすぎだ。戦場は生死の境なので、考えすぎれば勝機を逸する。時には、草履と下駄をちぐはぐに履いて出ても駆け出す決断が必要だ。また、何事にも兵糧が必要なので、日頃から倹約して兵糧を蓄え、有事に備えるべし。これを見て、そのことを忘れないように」と告げた。
■黒田如水の乱心
このころより、黒田如水(黒田官兵衛)は家臣を罵倒するようになった。これまでの黒田如水とは態度が全く違うため、家臣は「黒田如水が乱心したのではないか」と心配し、黒田長政に相談した。
心配した黒田長政は、黒田如水(黒田官兵衛)の元を訪れ、「少し心をお鎮めください」と諭したところ、黒田如水は「ワシが家臣を罵倒するのは乱心ではない。ワシが嫌われれば、家臣は『早く黒田長政の時代になって欲しい』と願うだろう」と答えた。
■黒田如水の死亡予告
ある日、黒田如水(黒田官兵衛)は黒田長政を呼ぶと、「ワシは20日の辰の刻(午前8時)に死ぬだろう。ワシが死んでも葬儀に金をかけてはいけない。仏事・供養に専念してもいけない。私の志は、ただ国を治め民を案ずる事だけなので、これをもって我が供養とするべし」と告げた。
そして、黒田如水(黒田官兵衛)は短冊に辞世の句「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」を書き、黒田長政に渡した。
こうして、黒田如(黒田官兵衛)水は慶長9年(1604年)3月20日辰の刻(午前8時)に黒田長政や家臣の栗山善助らを集めると、再び辞世の句「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」を詠み、予告通りに息を引き取った。
黒田如水(黒田官兵衛)が死んだのは、慶長9年(1604年)3月20日辰の刻(午前8時)、黒田如水が59歳、黒田長政が37歳の事であった。なお、黒田如水(黒田官兵衛)の死因を梅毒とする説もあるが、死因に関する記録は残っていない。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの番外編「呪われた黒田長政の過去!城井鎮房と黒田家の滅亡のあらすじとネタバレ」へ続く。
コメント欄
■嘉永秀恒さんへ
ご指摘ありがとうございます。年号に間違いがありましたので、訂正しました。