後藤又兵衛の計略-黒田長政が黒田三左衛門に激怒
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「後藤又兵衛の計略-黒田長政が黒田三左衛門に激怒のあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田長政と岐阜城の戦い-関ヶ原の戦い前哨戦」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■黒田長政と合渡川(木曽川)の戦い
大垣城(岐阜県大垣市郭町)に入った西軍・石田三成は、岐阜城からの援軍要請を受けると、小西行長・島津義弘と共に2万の軍勢を率いて岐阜城の援軍に向い、合渡川(木曽川)の西に布陣したが、岐阜城はわずか1日で落城してしまう。
一方、大垣城からの援軍の備えを任されていた東軍・黒田長政は、持ち場を放棄して岐阜城攻めに加わろうとして、岐阜城へ行ったが、既に岐阜城の城主・織田秀信は降伏していた。
そこで、東軍・黒田長政は、大垣城から西軍が出たという知らせを受けると、東軍の諸将と合流して岐阜城から合渡川(木曽川)の東側に駆けつけたが、合渡川(木曽川)は東日本でも有数の大河で、このとき、秋水が湧いて白波が洋々と立っており、渡る事が出来なかった。
すると、東軍の田中吉政は「この川に浅瀬が無いということはない」と言い、側近に「住民に金子を多く渡して、浅瀬を訪ねて来い」と命じた。
側近は10町(1km)ほど川上にある加賀島村の住人に浅瀬を尋ねようとしたが、住民は戦禍を恐れて逃げており、誰も居なかったため、側近は加賀島村の端雲寺に入り、僧に金を与えて浅瀬の場所を聞き出した。
田中吉政は側近から浅瀬の報告を受けると、川上へと兵を進め、加賀島村の川上にある浅瀬から合渡川(木曽川)を渡った。
しかし、黒田長政は、遠回りになる川上の浅瀬を好まず、田中吉政とは反対に川下へと兵を進めて敵陣に近づき、湊という場所まで進んだ。
この付近の合渡川(木曽川)は水が濁っており、水深も深かったが、川上の浅瀬を見に行った兵が戻ってきて「田中吉政らは、もう浅瀬を渡ろうとしています」と報告すると、黒田長政は「このままでは先手を奪われる」と言い、合渡川(木曽川)に飛び込んだ。
すると、黒田長政の家臣も黒田長政に負けじと合渡川(木曽川)へ飛び込み、黒田長政の後に続いて合渡川(木曽川)を渡り始めた。
■後藤又兵衛の計略
合渡川(木曽川)を渡っていた黒田長政の家臣・後藤又兵衛(後藤基次)は、対岸で東軍が待ち構えているのを見て、このまま黒田長政が直進すれば、東軍の的にされると心配し、斜めに進んで敵の居ない所から対岸に上陸するべきだと考えた。
しかし、黒田長政に「真っ直ぐ進めば敵が居ます。斜めに進んで敵を避けて上陸しましょう」と言っても、黒田長政は勇敢(猪武者)なので、好んで敵の多い場所に突き進む事は目に見えていた。
そこで、後藤又兵衛は一計を案じ、黒田長政に「この先に居るのは雑兵です。強敵は、向こうの方角に居ます」と言って、敵の居ない方角を指さした。
すると、後藤又兵衛の狙い通り、勇敢な黒田長政は後藤又兵衛が指さした方を目指して進んでいき、敵の少ないところから対岸に上陸した。
(注釈:後藤又兵衛の生涯のあらすじとネタバレは「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯」をご覧下さい。)
このとき、黒田長政よりも少し川下から合渡川(木曽川)を渡った黒田長政の家臣・黒田三左衛門が大声で「合渡川(木曽川)の先手は黒田甲斐守(黒田長政)なり」と再三にわたり叫んだ。
また、黒田長政よりも少し川上から合渡川(木曽川)を渡った黒田長政の家臣・後藤又兵衛も、大声で「黒田甲斐守(黒田長政)の家臣・後藤又兵衛が今日の先手なり」と名乗りを上げた。
東軍は対岸から鉄砲を雨のように撃ったが、黒田長政の手勢は怯むこと無く、続々と合渡川(木曽川)を押し渡り、敵軍を目がけて突っ込んだ。
川上の浅瀬から合渡川(木曽川)を渡った東軍・田中吉政は、遠回りをしたため、先手を黒田長政に奪われてしまった。田中吉政は黒田長政に先手を奪われたことを悔しがり、黒田長政に続いて敵陣へと切り込んだ。
東軍2万の軍勢に対して、黒田長政の手勢は1000人程度だったが、黒田長政は一気に敵を崩すため、石田三成の旗を目がけて突っ込んだ。
そして、黒田長政は先頭に立って戦い、自らの手で、石田三成の家臣・渡辺新之介を討ち取った。
さらに、黒田長政が、石田三成の軍事奉行・林半介と槍を合わせて戦っていると、黒田長政の家臣・小河五郎が駆けつけてきた。そして、小河五郎が林半介を討ち取った。
小河五郎は15歳と若かったが、その働きは優れており、黒田長政は小河五郎の働きを見て感心した。
■黒田三左衛門の「毛付の功名」
さて、黒田長政の家臣・黒田三左衛門(黒田一成)は、合渡川(木曽川)を渡る前に、対岸に居る敵の中に朱の枝釣の指物をして青の大馬に乗った武者を見つけた。
黒田三左衛門(黒田一成)は、この武者を見て「優れた大将に違いない」と思い、諸将の前で黒田長政に「私は今日、あの朱の指物をした武者を討ち取る」と宣言した。
(注釈:敵将の鎧や指物を目印にして、討ち取る目標にする事を「毛付(けつけ)」という。)
これを聞いた黒田長政は「おこがましいことを言うな。軍の勝負は時の仕合によるものぞ。もし、あの武者に馳会わなければ、今の言葉は嘘になる」と言って、黒田三左衛門(黒田一成)に激怒した。
黒田長政は黒田三左衛門(黒田一成)に激怒したものの、徳川家康から大河を渡りやすいように背の高い良馬2頭を拝領していたので、拝領した2頭うち1頭を黒田長政が自ら乗り、もう1頭の良馬を黒田三左衛門(黒田一成)に与えた。
さて、黒田三左衛門(黒田一成)は優秀な馬に乗っていたので、心強く、合渡川(木曽川)を一直線に渡って、対岸に上がり、対岸に居る西軍を散々に討った。
このとき、黒田三左衛門(黒田一成)は、合渡川(木曽川)を渡る前に「あの武者を討ち取る」と宣言した朱の枝釣の指物をした武者を見かけたので、呼び止めて戦った。
黒田三左衛門(黒田一成)は槍で敵武者を突いたが、槍の先が折れて鎧を通らなかったた。そこで、黒田三左衛門は、武器を捨てて敵将に組み付きいて馬から落とし、見事に首を討ち取った。そして、戦の後、朱の枝釣の指物を添えて首を首実検にかけた。
生け捕りになった敵兵が証言するに、黒田三左衛門が討ち取った武者は、石田三成の足軽頭・村山利介(村山理助)という武者であった。
すると、諸将は「河を渡る前に毛付をして武者を討ち取ると宣言したときは、広言のように思っていたが、言葉を違えずに武者を討ち取り、比類無き手柄を立てた」と黒田三左衛門(黒田一成)に感心した。
この時の誉れ高き黒田三左衛門(黒田一成)の功名は「毛付の功名」として現在に伝わる。
(注釈:黒田三左衛門の生涯のあらすじとネタバレは「黒田三左衛門(黒田一成)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)
■黒田長政が西軍を撃退する
さて、東軍は続々と合渡川(木曽川)を渡り、黒田長政に続いて西軍へと突撃した。最前線で戦っていた黒田長政は、背後から東軍が来ていることを知ると、勇気を得てさらに西軍へと切り込んだ。
一方、西軍の石田三成は2万の大軍を有してたが、黒田長政・田中吉政・藤堂高虎の猛攻を受けて浮き足立っていた。
西軍の石田三成・小西行長・島津義弘は「敵は少数だ。陣を堅く守って破られるな」と命じて兵を立て直そうとしたが、後陣が逃げ出すと、前陣も持ちこたえられなくなり、敗走を余儀なくされた。こうして、西軍は総崩れとなり、大垣城へと逃げ帰った。
しかし、東軍の黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らは、深追いはせず、大垣城から北西に30町(32km)離れた場所にある赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)という場所の虚空蔵山の近辺に布陣した。
翌日の慶長5年(1600年)8月24日には、岐阜城を攻め落とした福島正則らが赤坂に到着した。
ここで、諸将は話し合い、赤坂の南にある岡山という小山に徳川家康の本陣を敷くことを決め、諸将は岡山の四方に布陣する。黒田長政は花岡山という場所に布陣した。
東軍は、西軍の本拠・大垣城から北西に30町(32km)という近場に布陣したが、江戸に居る徳川家康は東軍の諸将に戦を禁じたので、東軍は守りを固めて徳川家康の到着を待った。
そのようななか、豊前・中津城(大分県中津市)に居る父・黒田如水(黒田官兵衛)の家臣・山中市内が、黒田長政の元に現れたのであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政が黒田如水(黒田官兵衛)の家臣・山中市内に激怒するあらすじとネタバレ」へ続く。