関ヶ原の戦いの開戦-井伊直政の抜け駆けと福島正則
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「関ヶ原の戦いの開戦-井伊直政の抜け駆けと福島正則のあらすじとネタバレ」です。
このページは「石田三成が関ヶ原へ転陣-島津義弘の夜襲のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■徳川家康が関ヶ原へ転陣
慶長5年9月14日(関ヶ原の戦い前日)の夜は雨が降っていた。西軍・石田三成は風雨のなか、慶長5年9月14日午後10時に大垣城を出て、暗闇に紛れて関ヶ原へと転陣した。
東軍・徳川家康が西軍・石田三成の転陣を知ったのは、石田三成が転陣を終えた後の慶長5年(1600年)9月15日午後2時頃であった。
西軍が関ヶ原に転陣した事を知った徳川家康は直ぐに群議を開いて転陣を命じると、東軍の先発隊は山中道を通って風雨の中を押し進み、慶長5年9月15日天明に関ヶ原に着陣した。
徳川家康も慶長5年9月15日辰の上刻(午前7時半ごろ)に関ヶ原に到着し、街道の南にある小高き山(桃配山)に本陣を敷き、諸将はその前に広がる平地に布陣し、関ヶ原に布陣する西軍・石田三成と対峙した。
このとき、東軍・徳川家康の背後(東)には、南宮山に布陣する毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親ら西軍2万7000の軍勢が布陣しており、東軍は西軍に挟まれていた。
西軍・石田三成の布陣は「鶴翼の陣」の呼ばれ、東軍を包囲するように布陣していたため、陣形は西軍の方が圧倒的に有利であった。
しかし、徳川家康の背後に布陣する西軍・吉川広家は徳川家康に「不参戦」を約束し、西軍右翼の小早川秀秋も東軍への寝返りを約束していたので、実質の状況は5分5分であった。
■関ヶ原の戦い開戦-井伊直政の抜け駆け
慶長5年9月15日(関ヶ原の合戦当日)、黒田長政は小早川秀秋に差し向けた使者・南畝源次と恵良盛重が戻ってこないので、心配していると、ようやく、使者・南畝源次と恵良盛重が帰陣した。
黒田長政は、小早川秀秋が寝返りを約束した徳川家康に返書を届けると、徳川家康は大いに喜び、「小早川秀秋が忠節を尽くすという返書が来た。今日の合戦は必ず勝つ。関ヶ原の表の敵を追い払い、直ぐに上方へ攻め入る」と陣中に合戦の触を出した。
ところが、慶長5年9月15日(関ヶ原の合戦当日)の朝は、昨夜からの雨の影響で霧が立ちこめており、15間(27メートル)先も見えぬほど視界が悪いため、両軍は霧の中で対峙したまま動かなかった。
そのようななか、東軍・井伊直政は部隊の指揮を木俣守勝に任せると、松平忠吉の陣営を訪れ、松平忠吉を同行を求めた。
そして、東軍・井伊直政と松平忠吉の2人は、300程の軍勢で、東軍・福島正則の陣営を通って、先頭に出ようとした。
しかし、東軍・福島正則は徳川家康から先手を命じられていたので、福島正則の家臣・可児吉長は、「今日の先手は福島正則である。誰であれ、通すわけにはいかない」と言い、井伊直政の通行を拒否した。
すると、東軍・井伊直政は「徳川家康のご子息・松平忠吉様が初陣なので、敵陣を見学しに行くだけだ。抜け駆けするためではない」と説明した(注釈:抜け駆けは、軍法違反で厳しく罰せられた)。
福島正則の家臣・可児吉長が「ならば、手勢のみで行かれよ」と要求したので、東軍・井伊直政と松平忠吉は仕方なく要求を受け入れ、50騎ほどの手勢を率いて福島正則の陣営をすり抜け、陣の先頭へ出た。
慶長5年9月15日の辰の刻(午前8時ごろ)になり、霧が少し晴れてきたところ、福島正則の陣営をすり抜けて先鋒へ出た東軍・井伊直政が、突如として西軍・宇喜多秀家に向かって発砲した。
すると、先手を任されていた東軍・福島正則は、突然の発砲に驚き、慌てて西軍・宇喜多秀家の陣営に突撃した。こうして、関ヶ原の戦いが始まったのである。
なお、抜け駆けは軍法違反で厳しく罰せられたが、関ヶ原の戦いで抜け駆けした井伊直政は罰せられなかった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政と関ヶ原の戦い-小早川秀秋の裏切りのあらすじとネタバレ」へ続く。