吉川広家と関ヶ原の戦い-宰相殿の空弁当(宰相の空弁当)

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「吉川広家と関ヶ原の戦い-宰相殿の空弁当(宰相の空弁当)のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田長政と関ヶ原の戦い-小早川秀秋の裏切り」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■宰相殿の空弁当(宰相の空弁当)
吉川広家は、吉川元春の3男として生まれた。父の吉川元春は、毛利元就の次男で、弟・小早川隆景と共に毛利家を支え、「毛利の両川」として称された毛利一族の名将である。

豊臣秀吉の時代、吉川広家の父・吉川元春が天正14年11月15日に死に、嫡男・吉川元長が家督を相続したが、吉川元長は嫡子の無いまま天正15年6月15日に死んだ。

しかし、吉川元長には跡取りが居なかったので、吉川家はお家お取りつぶし(無嗣断絶)の危機に直面した(注釈:家督を相続する子供が居ない場合は、改易され、お家お取潰しとなる)。

このとき、吉川家の相次ぐ家督相続の執り成しに奔走したのが、黒田如水(黒田官兵衛)であった。

黒田如水(黒田官兵衛)の取りなしによって吉川広家は、兄・吉川元長の養子となって家督を相続する事ができ、吉川広家はお家断絶は免れ、出雲(島根県)3郡など計14万石の大名となった。

また、慶長4年(1599年)7月、吉川広家は京都・伏見城で浅野長政と喧嘩したため、お家お取りつぶしの危機を迎えた事があったが、黒田長政の取りなしによって、お家取潰しを免れた。

このため、吉川広家は黒田如水(黒田官兵衛)や黒田長政に大変感謝しており、黒田親子と親しくしていた。

さて、父・吉川元春が豊臣秀吉が嫌いだったためか、子の吉川広家も豊臣秀吉が大嫌いだった。このため、吉川広家は、豊臣秀吉と親しい安国寺恵瓊と対立しており、吉川広家は毛利家の問題児であった。

吉川広家は石田三成も大嫌いだったため、慶長5年(1600年)に石田三成が大阪城で挙兵したとき、西軍への参加要請を拒否し、当主・毛利輝元を東軍・徳川家康に属するように説得しようとした。しかし、毛利輝元は安国寺恵瓊らの口車に乗り、大阪へ向けて出兵した後だった。

吉川広家も大阪へ行き、毛利輝元を東軍へ属させるため、安国寺恵瓊と弁戦を繰り広げたが、毛利輝元は吉川広家に同心せず、西軍の総大将に就任してしまう。

そこで、吉川広家は単独でも徳川家康に属そうと思い、家臣の服部治兵衛と藤岡市蔵に書状を持たせて関東へ派遣し、黒田長政に「徳川家康へ味方したいが、一族がことごとく石田三成に与している。毛利輝元にも散々と意見したが駄目だった。私は一族を離れても、徳川家康に味方するので徳川家康に取りなして欲しい」と頼んだ。

一方、会津討伐(上杉討伐)に向かった東軍は、小山評定で西軍を討つことを決定すると、西軍との対決で拠点となる清洲城(愛知県清須市)を目指して西進していた。

そして、黒田長政が小山から駿府まで進軍してきたところで、吉川広家の家臣・藤岡市蔵の使者が訪れた。

黒田長政は家臣・小川喜助に命じ、藤岡市蔵の使者を徳川家康の元へと連れて行くと、徳川家康は大いに喜び、使者に金貨を与えた。

しかし、その後、西軍が東軍の安濃津城(三重県津市)を攻めたさい、吉川広家は西軍の主力部隊として活躍したため、徳川家康から疑われるようになってしまう。

さて、西軍の拠点となる大垣城(岐阜県大垣市郭町)に入った西軍・石田三成は、大阪城に居る西軍総大将・毛利輝元に出陣を要請したが、毛利輝元は大阪城から動かず、養子の毛利秀元に一族の吉川広家を添えて派遣するに留まった。

慶長5年(1600年)9月7日、毛利秀元が南宮山の山頂に布陣し、吉川広家は南宮山の北側に布陣した。そして、南宮山の東に安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親が布陣した。南宮山の勢力は総勢2万7000の大軍であった。

毛利秀元が南宮山に布陣するとき、長束正家が先手に名乗りを上げたが、吉川広家が執拗に先手を求めたので、長束正家は吉川広家に先手を譲ったという。

先手には相応の権利が認められており、先手より先に戦を始めることは御法度で、抜け駆けした者は、手柄を上げても、厳しく罰せられた。先手を勝ち取った吉川広家は、軍法を定めて、厳しく抜け駆けを禁止した。

なお、南宮山は非常に険しい山で、守るには適していたが、攻めるには適していなかった。このため、西軍は、毛利秀元が南宮山に布陣したことを不思議がっていた。

慶長5年(1600年)9月14日(関ヶ原の戦い前日)、徳川家康が東軍の拠点・赤坂に着陣すると、吉川広家は東軍に使者を送り、内応(不参戦)の交渉を行い、井伊直政から「毛利家の領土を安堵する」という確約を得た。

慶長5年(1600年)9月14日(関ヶ原の戦い前日)の夜、西軍・石田三成は密かに大垣城を出て、関ヶ原に転陣するが、南宮山の毛利秀元ら総勢2万7000は転陣せず、そのまま南宮山に残った。

その後、東軍・徳川家康は石田三成の転陣に気づき、赤坂から関ヶ原へと転陣し、徳川家康は桃配山に本陣を敷いた。徳川家康が本陣を置いた桃配山は、南宮山から連なる小山で、桃配山は南宮山の西にある。

このため、徳川家康は関ヶ原に布陣する石田三成と南宮山に布陣する毛利秀元に挟み撃ちにされる布陣と成り、徳川家康は背後の南宮山に布陣する毛利秀元らの押さえとして、池田輝政4500・浅野幸長6500を配置した。

慶長5年9月15日(関ヶ原の戦い当日)は、先日の雨の影響で霧が立ちこめており、視界が非常に悪かったため、両軍は動けなかった。

慶長5年9月15日(関ヶ原の戦い当日)午前8時、霧が少し晴れてくると、東軍・井伊直政が抜け駆けして西軍・宇喜多秀家に発砲した。東軍の先手・福島正則は井伊直政の抜け駆けに驚いて、西軍・宇喜多秀家に突撃し、戦いの火ぶたが切って落とされた。

しかし、南宮山に布陣する吉川広家と毛利秀元の家臣・福原広俊の2人は、徳川家康に人質を差出し、黒田長政と東軍への寝返り(不参戦)の最終確認を行っている途中であった。

そのようななか、南宮山方面では、西軍・長束正家の手勢が東軍・池田輝政の手勢と銃撃戦を行い、小競り合いを行いを始めていた。小部隊同士の小競り合いで、本格的な手高いには発展していなかった。

そのようななか、南宮山の東側に布陣していた西軍・長束正家と安国寺恵瓊は、先手を務める吉川広家に出陣を要請するが、吉川広家は「霧が深くて道も見えない。もう少し霧が晴れれば攻める」と答えて出陣を拒否した。

(注釈:関ヶ原の戦い当日は、前日に雨が降っていた影響で、霧が深かった。霧が少し晴れてきた午前8時頃に関ヶ原の戦いが始まった。)

慶長5年9月15日(関ヶ原の戦い当日)午前11時、当初は東軍が優勢であったが、西軍は要所に陣取っていたため、次第に東軍を押し返し、西軍が優勢となった。

これを観た西軍・石田三成が合図の狼煙を上げる。この狼煙を合図に、西軍は一斉攻撃を仕掛ける手はずとなっていた。

狼煙を見た毛利秀元は、南宮山を下りて東軍・徳川家康を攻めようとしたが、前方に布陣する吉川広家が出陣に反対して動かないため、南宮山を下りることが出来なかった。

南宮山の東側に布陣する西軍・長宗我部盛親が毛利秀元に出陣を催促したが、毛利秀元は吉川広家が動かないため、南宮山から下りることが出来なかった。

そこで、困った毛利秀元は、西軍・長宗我部盛親に「今、士卒に弁当を食べさせている」と答えて、その場をしのいだ。

この時のエピソードから、「宰相殿の空弁当(宰相の空弁当)」と言う言葉が生まれた(注釈:毛利秀元は宰相という役職に付いていたため、毛利宰相秀元と呼ばれていた)。

その後、東軍・黒田長政が、西軍・島左近を側面から攻撃すると、島左近は負傷し、島左近の軍勢が崩れ始めた。

松尾山に布陣していた西軍・小早川秀秋は、島左近の軍勢が崩れ始めたのを見て、東軍に寝返ると、関ヶ原の戦いは勝負が決したので、南宮山の東側に布陣していた西軍の長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊は戦場を離脱した。

こうして、吉川広家は南宮山に布陣していた毛利勢2万7000を関ヶ原の戦いに参加させない事により、東軍の勝利に大きく貢献した。

ただ、吉川広家は、交渉の途中で関ヶ原の戦いが始まってしまったため、黒田長政や井伊直政らから「毛利の領土を安堵する」という約束を取り付けていたが、徳川家康から直接の約束は得ていなかった。

このため、関ヶ原の合戦の後、徳川家康は難癖を付けて本領安堵の約束を反故にし、毛利輝元の領土を没収して、周防・長門の2ヶ国を吉川広家に与えた。

しかし、吉川広家は徳川家康に毛利輝元の罪をひたすら謝罪し、「周防・長門の2ヶ国を毛利輝元に与えて欲しい」と懇願したため、徳川家康は吉川広家の願いを聞き入れ、毛利輝元に周防・長門の2ヶ国を与えた。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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