細川ガラシャの辞世の句と意味と解説

NHK大河ドラマに登場する明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠/明智玉)の生涯を紹介する「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレの番外編「細川ガラシャの辞世の句と辞世の句の意味と解説」です。

■細川ガラシャの辞世の句
細川ガラシャ(明智珠/明智玉)の辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」です。

■細川ガラシャの辞世の句の意味
細川ガラシャ(明智玉)の辞世の句の意味は「花は散る季節を知っているからこそ、花として美しい。私もそうありたい」という意味である。

■細川ガラシャの生涯のあらすじ
細川ガラシャの辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の意味を理解するには、細川ガラシャの生涯を理解する必要があるので、細川らガラシャの生涯を簡単に紹介する。

細川ガラシャ(明智玉)は永禄6年(1563年)に明智光秀の娘として生まれ、16歳の時に織田信長の薦めによって細川忠興と結婚した。

しかし、父・明智光秀が本能寺の変を起こして主君・織田信長を討ったため、細川ガラシャは20歳のとき、一夜にして謀反人の娘となり、細川忠興は細川ガラシャに離縁を言い渡し、山奥に幽閉した。

細川ガラシャは2年間の幽閉生活の後、豊臣秀吉の配慮によって幽閉を解かれ、細川忠興と復縁した。

ところが、細川ガラシャは絶世の美女であったため、幽閉と解かれた後も、夫・細川忠興の異常な愛情により、屋敷の奥に閉じ込められ、幽閉と同様の生活を続けた。

また、細川ガラシャの幽閉中に、夫・細川忠興の側室が子供を産んだ事も、細川ガラシャにとって大きな悩みであった。

細川ガラシャは、舅・細川藤孝(夫・細川忠興の父親)と共に禅宗を信仰していたが、数々の苦悩に直面し、禅宗では救われない事を悟り、鬱病を発症した。

そのようななか、細川ガラシャは、夫・細川忠興からキリシタン大名・高山右近の話を聞き、密かにキリスト教に興味を持っようになり、夫・細川忠興が九州征伐に出陣している間に、密かに屋敷を抜けだし、教会を訪れた。

2度と教会に来られないことを悟っていた細川ガラシャは、洗礼を熱望したが、細川ガラシャが身分を明かさなかったため、教会側は細川ガラシャのことを「豊臣秀吉の側室」と疑ったため、洗礼を与えなかった。

結局、監視役に細川ガラシャの外出が気づかれてしまい、細川ガラシャは監視役に連れ戻され、洗礼を受けることが出来なかった。

その後、細川屋敷で幽閉同様の生活を送る細川ガラシャは、ことある毎に侍女を教会へ派遣してキリスト教の教えについての疑問を解消し、キリスト教への信仰を深めると共に、侍女に洗礼を受けさせていた。

細川ガラシャは計17人の侍女らに洗礼を受けさせたが、細川ガラシャ自身は監視に見張られて細川屋敷で監禁同様の生活を送っているため、教会を訪れて洗礼を受けることが出来なかった。

そのようななか、豊臣秀吉が九州征伐の直後にバテレン追放令を発令し、キリシタン大名・高山右近は棄教を拒否したため改易された。

それを知った細川ガラシャは、「豊臣秀吉が帰国して、キリスト教への迫害が強くなるようであれば、キリシタンの侍女らと共にキリシタンだと告白し、十字架の死を迎える」と言い、殉教(信仰のために死ぬ事)を決意を宣教師に誓った。

宣教師はバテレン追放令に従って長崎へ移ることを決めており、細川ガラシャが洗礼を受ける最期の機会であった。

京都に潜伏していた宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(パードレ・オルガンティーノ)は、細川ガラシャの決意を知ると、細川ガラシャに洗礼を与えることを決断したが、細川ガラシャには監視がついており、細川ガラシャは細川邸を抜け出て教会を訪れることは出来なかった。

そこで、宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、既に洗礼を受けていた細川ガラシャの侍女頭・清原マリア(清原いと)に洗礼の方法を教え、細川邸で細川ガラシャに代理洗礼を与えさせたのである。

こうして、細川ガラシャは侍女頭・清原マリア(清原いと)から洗礼を受け、「ガラシャ」という洗礼名を得た。

さて、豊臣秀吉に忠実な夫・細川忠興は九州征伐から帰国後、キリシタンの侍女を些細な事で処刑したほか、キリシタンの家臣をあぶり出そうとした。

さらに、夫・細川忠興は妻・細川ガラシャがキリスト教に入信したことを知って激怒し、絶世の美女といわれる侍女頭ルイザに側室になる事を強要した。

細川ガラシャは侍女頭ルイザを逃がし、夫・細川忠興と離婚することを宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(パードレ・オルガンティーノ)に相談した。

しかし、キリスト教は原則として離婚を認めていないため、宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノの説得により、細川ガラシャは離婚を断念した。

1596年(文禄5年)、スペイン船「サン=フェリペ号」が土佐湾沖に座礁したサン=フェリペ号事件を切っ掛けに、豊臣秀吉はキリシタン26人を長崎で処刑した。このキリシタンの弾圧を「日本26聖人の殉教」を呼ぶ。

(注釈:「日本26聖人の殉教」のあらすじとネタバレは「実話・細川ガラシャと日本26聖人の殉教のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

細川ガラシャは、この「日本26聖人の殉教」を知ると、キリシタンの侍女とともに殉教する時の衣装を準備して、宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノが迫害される事があれば、細川ガラシャは侍女と共に殉死する事を誓った。

豊臣秀吉の死後、徳川家康が婚姻政策によって勢力を強めると、豊臣秀吉の側近だった石田三成が会津の大名・上杉景勝と語らいて、徳川家康を挟み撃ちにする計画を立てた。

徳川家康は「上杉景勝に謀反の兆しあり」という報告を受けると、会津討伐(上杉討伐)を発動し、諸大名を率いて会津討伐(上杉討伐)に出陣する。

慶長5年(1600年)7月、石田三成は徳川家康の勢力が近畿から居なくなった隙を突き大阪で挙兵し、徳川方に属する大名を味方に取り込むため、大名の妻子を人質に取ることにしたのである。

夫・細川忠興は徳川家康に属して会津討伐(上杉討伐)に出陣するさい、正室・細川ガラシャに「もしもの時は、1人で自害せよ」と命じていた。

しかし、キリスト教は自殺を大罪として、自殺を禁じているため、細川ガラシャは夫・細川忠興の命令と信仰とで悩み、宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノに相談した。

すると、宣教師オルガンティノは、「どうしても避けられない自害(死)であれば、それは自殺には当たらない」という趣旨の答えを出したらしい。

その答えを聞いた細川ガラシャは、心穏やかに自害の時を待った。

そして、慶長5年(1600年)7月17日夜、石田三成の兵が細川屋敷を取り囲むと、細川ガラシャは奥の間で、家臣・小笠原秀清(小笠原少斎)に介錯させ、自害したのである。

細川ガラシャは家臣・小笠原秀清(小笠原少斎)に首を打たせたとも、胸を突かせたとも伝わる。

家臣・小笠原秀清(小笠原少斎)は、細川ガラシャを介錯すると、細川ガラシャに着物を掛け、その上から火薬をばらまいて屋敷に火を放ち、別室で他の家臣と共に自害した。

こうして、細川ガラシャは38歳で生涯を閉じた。細川ガラシャの辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」であった。

(注釈:細川ガラシャが自害した当日のあらすじとネタバレは「実話・細川ガラシャの自害のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

■細川ガラシャの辞世の句の解説
細川ガラシャは、キリシタン大名・高山右近の改易や日本26聖人の殉教によって、殉教(信仰のために死ぬ事)を強く望むようになった。

しかし、夫・細川忠興から自害を命じられた細川ガラシャは、キリスト教が自殺を禁じていたため、夫の命令と信仰に悩んだ。

細川ガラシャは宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノに相談し、グネッキ・ソルディ・オルガンティーノの答えによって自害と自殺の問題を解決して、心穏やかに自害した。

信仰のために死ぬ事を望んでいた細川ガラシャが、夫・細川忠興の命令で細川家のために死ぬ事になり、死期を悟った細川ガラシャの心境を表したのが、辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」である。

なお、細川ガラシャは殉教(信仰のために死ぬ事)を強く望んでいたが、最期は細川家のために死んだため、キリスト教の聖人や殉教者には認定されたなかった。

細川ガラシャの生涯については、「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。

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