西尾益吉の生涯

ドラマ・原作小説「天皇の料理番」の主人公となる秋山徳蔵の生涯をあらすじとネタバレで描く「天皇の料理番・秋山徳蔵のあらすじとネタバレ」の登場人物編「西尾益吉の生涯のあらすじとネタバレ」です。

天皇の料理番・秋山徳蔵のあらすじとネタバレの目次は「天皇の料理番・秋山徳蔵のあらすじとネタバレ」です。

■西尾益吉の生涯
西尾益吉の詳しい経歴は不明で、東京・銀座の「清新軒」などを経て東京・築地の「精養軒(築地精養軒)」に入社し、築地精養軒の初代料理長カール・ヘスの元で修行した。

築地精養軒は、岩倉具視の側近・北村重威が明治5年に開業したホテルである。年齢制限ににより、岩倉使節団に参加できなかった北村重威は、首都・東京に外国人を接待する本格的なホテルやレストランが無かことを危惧していたので、岩倉具視の支援を受けて、東京・築地でホテル「精養軒」を開業した。

精養軒は開業当日に発生した「銀座の大火」によって焼失したが、北村重威は岩倉具視の支援を受け、明治6年に築地で「精養軒」を再建した。

初代料理長カール・ヘスは、スイス人ながらフランスパンの名人で、後に日本のフランスパン普及に貢献した料理人である。

築地精養軒に入社した西尾益吉は、初代料理長カール・ヘスに学び、築地精養軒の費用で本場フランスへと渡り、フランスの名門「オテル・リッツ」でオーギュスト・エスコフィエからフランス料理を学んだ。

日本に西洋料理が始めて入ったのは、江戸時代に長崎の出島で、船員が出島に西洋料理を持ち込んだとされる。その後、江戸幕府が開港した5港の外国人居留地で、西洋料理が普及した。

明治時代の初期、日本人は外国人居留地で外国人から西洋料理を学ぶのが一般的であった。日本における料理人の地位は低く、渡航費用も高額であったことから、本場フランスで料理を学ぼうとする料理人は居らず、一説によると、西尾益吉が本場フランスで西洋料理を学んだ初めての日本人とされる。

しかも、西尾益吉の師匠オーギュスト・エスコフィエは、フランス料理を体系づけ、近代フランス料理を確立したフランス料理の大家で、「フランス料理の王様」「フランス料理の皇帝」などと呼ばれる名人であった。

船員によって日本へもたらされたフランス料理は古いフランス料理で、西尾益吉によってオーギュスト・エスコフィエの近代フランス料理が日本にもたらされることになる。

帰国後、西尾益吉は築地精養軒の4代目料理長に就任し、築地精養軒を日本一のホテルへと発展させ、築地精養軒の全盛期を迎えた。

西尾益吉は築地精養軒の4代目料理長のとき、後に「天皇の料理番」と呼ばれる秋山徳蔵を弟子に持つ。弟子の秋山徳蔵は西尾益吉がメニューをフランス語でスラスラと書く様子に憧れ、後にフランスへと渡り、西尾益吉と同じように、オーギュスト・エスコフィエに師事している。

さて、築地精養軒を日本一に導いた4代目料理長・西尾益吉は、料理人としては異例の出世をとげ、築地精養軒の取締役兼支配人へと出世する。

このころ、精養軒の社長・北村重威は、「東京に外国人を接待する本格的な西洋料理店が無いのは恥だ」という初心を忘れ、精養軒を多店舗展開して業績を拡大する一方で、膨大な支出や鉱山の購入など散漫経営を始めていた。

料理一筋の西尾益吉は精養軒の散漫経営が許せず、社長・北村重威ら経営陣の追放を画策するが、追放に失敗し、築地精養軒を去った。

その後、西尾益吉は大正時代の中頃に東京・本郷3丁目で西洋料理店「燕楽軒」を開業した。西尾益吉の腕はもちろんのこと、燕楽軒の前に中央公論社があったことから、燕楽軒は芥川龍之介などの文壇に愛され、大正時代を代表する西洋料理店となった。

大正時代の女流作家・宇野千代が作家デビューする前に、一時期、西洋料理店「燕楽軒」でウエイトレスのアルバイトをしていたことでも有名である。

[注釈:宇野千代は、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」に登場した宇田川満代(山田真歩)のモデルになった人物とも言われる作家です。]

西尾益吉の死亡時期は不明で、西洋料理店「燕楽軒」は焼失し、再建されることは無く、西尾益吉も西洋料理店「燕楽軒」も歴史から姿を消した。

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