天皇の料理番-秋山徳蔵の生涯
TBSのドラマ「天皇の料理番」のモデルとなる秋山徳蔵の生涯を描く「実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレ」の実話編「秋山徳蔵の生涯のあらすじとネタバレ」です。
実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレの目次は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。
■天皇の料理番-あらすじとネタバレ
日本は江戸時代に鎖国政策をとり、国際社会に参加していなかった。不平等条約を改正しようとする明治政府は、日本を文明国として国際社会に参加するため、日本のヨーロッパ化を進めた(欧化主義)。
明治政府による欧化主義の象徴が、外国の要人を接待するために開いた「鹿鳴館(ろくめいかん)」であった。
しかし、条約改正の内容など判明すると、日本政府の欧化主義政策は批判を浴び、欧化主義を推し進めていた外務大臣・井上馨は失脚し、欧化主義の象徴である鹿鳴館(ろくめいかん)は明治20年(1887年)に幕を閉じ、鹿鳴館は華族会館に払い下げられ、貴族の社交場となった。
■天皇の料理番-秋山徳蔵が生まれる
後に「天皇の料理番」となる秋山徳蔵(あきやま-とくぞう)が生まれたのは、鹿鳴館(ろくめいかん)が閉鎖された翌年の明治21年(1888年)の事であった。
秋山徳蔵(旧姓は高森徳蔵)は明治21年(1888年)8月30日に、福井県南条郡武生町で、料理屋(比較的裕福な庄屋でもあった)の次男として生まれた。
(注釈:秋山徳蔵の本姓は高森で、秋山は養子先の姓ですが、複雑になるため、「秋山徳蔵」で表記を統一します。)
■天皇の料理番-秋山徳蔵が小坊主になる
秋山徳蔵は、10歳の時に友達が坊主になったことをに憧れ、寺に入って坊主になったが、秋山徳蔵は乱暴者でイタズラ好きだったので、賽銭を盗んでは何かを買ってたべたり、お供え物を盗んで食べたたりしていた。
しかし、本堂の裏に開祖以来の住職の墓があり、この墓はラッキョウを逆さにした形をしていたので、秋山徳蔵は墓を倒したいという衝動に駆られ、開祖以来の住職の墓を次々と倒したため、寺を1年で破門となる。
■天皇の料理番-乞食の金玉
ある日、乞食が野糞をしていたのを見て、秋山徳蔵は乞食の睾丸を突きたいという衝動に駆られ、竹の棒で乞食の睾丸を突くと、乞食は驚いて野ぐその上に尻餅をついた。
秋山徳蔵は驚いて自宅に逃げ込んだが、怒った乞食が追いかけてきて、父親に「これじゃ、仕事に出られない」などと抗議したため、秋山徳蔵は流石に恐ろしくなり、1週間ほど、親戚の家に泊まった。
■天皇の料理番-奉公する
明治30年ごろ、秋山徳蔵は福井県南条郡武生町橘にある「八屋」で奉公する。
■天皇の料理番-家出
秋山徳蔵は高等1年生(小学5年生)のとき、大阪の祖母から大阪の話を聞いて、米相場に興味を持ち、米屋になるために大阪へ出たが、1ヶ月ほどで父親に連れ戻された。
■天皇の料理番-西洋料理との出逢い
秋山徳蔵はしばらく大人しくして学校に通っていたが、家業の料理に興味を持つようになった。料理の手伝いなどはしないが、怒られても、怒られても、魚をぶった切るなどのイタズラをするようになった。
そして、秋山徳蔵の実家は鯖江36連隊の将校集会所の仕出し料理を請け負っていたので、秋山徳蔵は丁稚に付いて、ときどき、鯖江36連隊に行っていた。
ある年の陸軍記念日、秋山徳蔵は鯖江36連隊の食堂を覗いてみると、色とりどりの料理やお菓子が並んでいた。料理を作っている兵隊に尋ねると、これは西洋料理だと教えてくれた。
(注釈:通説によると、秋山徳蔵はヒレカツを食べたのが西洋料理との出逢いと言われているので、このとき、秋山徳蔵はヒレカツを食べたのだろう。)
秋山徳蔵は、こんな凄い料理を作っているのだから偉い兵隊さんなのだろうと思い、兵隊の後ろについていくと、兵隊は忙しいのに嫌な顔一つせず、相手をしてくれた。
秋山徳蔵は兵隊のことが好きになり、何かと口実をつけて鯖江36連隊の厨房へ通うと、兵隊は東京・人形町の西洋料理店で働いていた時を話してくれたので、秋山徳蔵は兵隊の話を聞いて西洋料理の料理人を志すようになった。
実話・天皇の料理人の実話編「秋山徳蔵の生涯-華族会館のあらすじとネタバレ」へ続く。
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コメント欄
秋山徳蔵はある意味金銭的には非常に恵まれていたと思います、だって結局フランスの渡航費用を工面してくれたのは親に財力があったからだと思います、それと彼の仁徳もあったのですが彼を取り巻く人々にも恵まれていたと思います。秋山徳蔵は最高の料理人になる夢を最後まで諦め切れずに一直線に突き進んだということだからこそ誰もがそれを認めて天皇の料理人になれたのと確信しました。
「本当の裏に開祖以来の住職の墓があり」とありますが、これは「本堂の裏に」ではありませんか。
■ドラマ好きさんへ
ご指摘ありがとうございます。誤字を修正しました。