天皇の料理番-秋山徳蔵と築地精養軒
TBSのドラマ「天皇の料理番」のモデルとなる秋山徳蔵の生涯を描く「実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレ」の実話編「天皇の料理番-秋山徳蔵と築地精養軒のあらすじとネタバレです。
このページは「秋山徳蔵の生涯-華族会館時代のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレの目次は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。
■天皇の料理番-築地精養軒時代
華族会館を飛び出した秋山徳蔵は、翌年の明治38年(1905年)12月からホテル「築地精養軒」で働き始めた。
築地精養軒は、北村重威が明治政府の支援を受けて明治5年(1872年)に築地で創業したホテルである(一説によると、築地精養軒は明治3年に創業した)。
北村重威は明治政府の要人・岩倉具視の側近で、岩倉使節団に加わることを望んだが、岩倉使節団には50歳以下という条件があったため、52歳の北村重威は岩倉使節団に加われなかった。
このころ、東京に本格的な西洋料理を作る店は無く、横浜から西洋料理を取り寄せていた。
岩倉具視は岩倉使節団に加われなかった北村重威に京都府知事の座を約束したが、北村重威は東京に外国人を接待する本格的な施設がないことを危惧していたので、京都府知事の座を断り、東京にレストランを開業した。それが、明治5年(1872年)に開業した築地精養軒である。
しかし、明治5年(1872年)、築地精養軒は開業当日に発生した銀座の大火によって焼失してしまう。
そこで、岩倉具視は、明治政府から海軍用地(現在の銀座5丁目)200坪の払い下げを受け、明治6年(1873年)に「築地精養軒」を再開した。
当時の銀座5丁目は焼け野原だったので、岩倉具視は広大な土地を北村重威に払い下げようとしたが、北村重威がそれを断り、200坪だけを払い下げて貰った。後に銀座の地価が高騰したので、北村重威の子孫は「あの時に、もっと払い下げて貰っていれば」と後悔したと伝わる。
営業再開後、築地精養軒は明治政府の後押しも有り、東京を代表する西洋料理店へと成長した。明治政府によって近代化が推し進められており、海軍でも洋食が推奨された。海軍の兵隊は争って築地精養軒へと通い、築地精養軒で使った金額を自慢し合っていた程の人気ぶりでった。
■天皇の料理番-秋山徳蔵と西尾益吉
秋山徳蔵が働いていたとき、築地精養軒の料理長は4代目料理長の西尾益吉であった。
西尾益吉は、築地精養軒の初代料理長カール・ヘスに学び、築地精養軒の費用で本場フランスへと渡り、フランス料理の最高峰「ホテル・リッツ」で、「フランス料理の王様」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエにフランス料理を学んだ料理人で、日本一の西洋料理人であった。
オーギュスト・エスコフィエは、フランス料理を体系づけ、派手さよりも味を重視し、コース料理を取り入れるなどして近代フランス料理の基礎を築いたフランス料理の大家である。
(注釈:西尾益吉の生涯のあらすじとネタバレは「実話・西尾益吉の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)
さて、江戸時代は仏教思想の影響で4本足の動物を食べる事を禁じていた。肉を食べる習慣はあったが、「薬食い」と言って、「滋養強壮の薬」という名目で、他人の目をはばかりながら食べた。
明治5年(1872年)1月24日に明治天皇が始めて肉を食べ、肉食の禁止が解かれたが、肉食に対する嫌悪は根強く、その肉を料理する西洋料理人の身分も低かったので、西洋料理人になるような人間は三流の四流の人間が多かった。
日本の西洋料理人は、外国から呼び寄せたコックに西洋料理を学んだが、明治初期の日本は治安が悪かったので、本場フランスから一流コックが来るようなことは無く、日本に来ていた外国人のコックは香港辺りに居た三流コックだったので、日本の西洋料理のレベルは三流以下だった。
このため、本場フランスで西洋料理を学んだ西尾益吉は、日本一の西洋料理人と言われ、西尾益吉は築地精養軒を日本一のレストランへと発展させていた。
築地精養軒の黄金期は4代目料理長・西尾益吉と5代目料理長・鈴本敏雄の時で、秋山徳蔵は黄金期に築地精養軒へと入社したのである。
秋山徳蔵は、西尾益吉が献立をフランス語でスラスラと書く様子に影響を受け、本場フランスで西洋料理を学ぼうと思うようになる。
■秋山徳蔵がノートを盗む
秋山徳蔵は築地精養軒で働いていたと言っても、料理の作り方を教えてくれるわけでも無く、自分が与えられた部分の仕事をこなすだけだった。
フランス料理を学ぶことにおいて、献立が重要になるのだが、献立を聞いても教えてくれず、先輩にタバコなどを渡して、聞き出すしか方法は無かった。
さて、料理長・西尾益吉は若い頃から勤勉家で、古今東西の西洋料理の献立をノートに書き留めており、西尾益吉は献立ノートを命よりも大事にし、引き出しの奥に閉まっていた。
秋山徳蔵は、料理長・西尾益吉が大事にしていた献立ノートを見たかったが、頼んでも見せてくれないだろうと思った。
そこで、秋山徳蔵は、料理長・西尾益吉が大事にして誰にも見せない献立ノートを盗むことにした。
ある日の夜、秋山徳蔵は誰も居ない厨房を通って、料理長室へ行き、窓を割って料理長室に忍び込み、料理長・西尾益吉が大切にしている献立ノートを盗むと、料理長室を出て自分の部屋に戻った。
秋山徳蔵は献立ノートを書き写して、元に戻しておくつもりだったが、献立ノートを書き写すと、疲れて眠ってしまった。
その後、秋山徳蔵が目を覚ますと、既に出勤時間になっていた。秋山徳蔵は困ったが、腹を決めて出勤すると、料理長・西尾益吉が命よりも大切にしている献立ノートが無くなったということで、築地精養軒は大騒ぎになっていた。
秋山徳蔵は勤務態度が真面目だったため、疑われることは無かったので、このまま献立ノートを燃やしてしまえば、完全犯罪が成立すると考えた。
しかし、秋山徳蔵には、西尾益吉がフランスに渡って一生懸命に集めた料理の献立ノートを燃やすことが出来ず、数日間悩んだ末、料理長・西尾益吉に献立ノートを返すことにした。
秋山徳蔵が「お借りしていたノートです」と言って献立ノートを返すと、料理長・西尾益吉は「お前だったのか。無断で持ち出すのは、借りるとは言わん。泥棒だ」と怒った。
そして、西尾益吉が「ノートと一緒に引き出しに入っていた3000円(現在の30万円相当)には気づかなかったのか?」と尋ねると、秋山徳蔵は「気づきました」と答えた。
西尾益吉が「なぜ、取らなかったのだ?」と尋ねると、秋山徳蔵は「お金が目当てではありませんし。奥様に内緒のお金に違いないと思ったので、無くなると料理長がお困りになると思いまして」と答えた。
西尾益吉が「余計な事を言うな。どうして、ノートを盗んだ」と尋ねると、秋山徳蔵は「シェフがお集めになった献立の中身が知りたかったのです。直ぐにお返しするつもりでしたが、寝込んでしまって。既に大騒ぎになっていたので、お返しすることが出来ませんでした。いっそ、燃やそうか、川に捨ててしまおうか、とも思いましたが、シェフの長年の苦労の積み重ねだと思うと、出来ませんでした。そんな事をすれば、私は極悪人の烙印を押され、一生、良心の呵責に苦しむと思いました」と答えた。
西尾益吉が「お前の言うことは少しおかしい。お前はノートを焼き捨てれば、罪を誰にも知られず、のうのうと生きていくことができたが、こうして告白したことによって罪人の烙印を押され肩身の狭い思いをしなければならない」と指摘すると、秋山徳蔵は「そうですが、私は心に押される烙印の方を押されます」と答えた。
すると、料理長・西尾益吉は「3000円を取らなかった事に感謝する。私はお前が言う通り、ノートを貸したことにする」と言い、許してくれたので、クビは免れた。
こうして、西尾益吉の元で多くを学んだ秋山徳蔵は、築地精養軒を退職して、三田東洋軒の4代目料理長に就任することになる。
(注釈:Wikipediaには、秋山徳蔵が築地精養軒の料理長に就任していたと書いていますが、詳細は不明です。秋山徳蔵が築地精養軒の料理長に就任したという資料は見つかりませんでした。)
■三田東洋軒の料理長に就任
秋山徳蔵は築地精養軒での修行を経て、明治40年(1907年)、三田東洋軒の4代目料理長に就任する。秋山徳蔵は19歳のことであった。
三田東洋軒は、牛屋(すき焼き屋)「今福牛肉店」を経営していた伊藤耕之進が明治22年に東京・三田四国町で西洋料理店「今福」として開業し、明治30年に「東洋軒」と改名した。三田四国町にあることから、三田東洋軒と呼ばれた。
三田東洋軒は、町の西洋料理店の草分け的な存在で、宮内庁御用達を務め、数多くの料理人を輩出した名店である。
秋山徳蔵が三田東洋軒に在籍していた時のエピソードは伝わっていないので、詳しい事は分らないが、秋山徳蔵が三田東洋軒を経て、明治42年(1909年)にヨーロッパへと旅立つ事になる。
実話・天皇の料理人の実話編「天皇の料理番-秋山徳蔵のフランス修行のあらすじとネタバレ」へ続く。
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