築地精養軒と北村重威の生涯

TBSドラマ「天皇の料理番」のモデルとなる秋山徳蔵の生涯を描いた「実話・天皇の料理番のあらすじとネタバレ」の番外編「天皇の料理番-築地精養軒と北村重威の生涯」です。

■築地精養軒と北村重威の生涯
北村重威(きたむら・しげたか)は、江戸時代の文政2年(1819年)頃に京都で生まれた。

北村重威は、京都府下京区新開町にある仏光寺(佛光寺)の寺侍(寺に仕える侍)をしていたが、幕末に勤王運動で奔走している時に、京都で蟄居していた岩倉具視の目に留まり、岩倉具視の家臣となった。

そして、北村重威は明治維新後に、岩倉具視に従って東京へと出て、岩倉具視は外務卿(外務大臣)に就任し、明治政府の要人となった。

その後、明治政府は日米の不平等条約を改正するため、外務卿(外務大臣)の岩倉具視を初めとする岩倉使節団を欧米へ派遣する。

このとき、北村重威は岩倉使節団への参加を希望したが、岩倉使節団には50歳までという年齢制限があったため、52歳(数えで53歳)の北村重威は岩倉使節団に参加する事が出来なかった。

ところで、西洋料理というのは、江戸時代に日本に入ってきた。江戸幕府は鎖国をしていたがオランダと貿易しており、オランダの船員によって西洋料理が長崎の出島にもたらされたのである。

そして、江戸幕府が外圧を受けて横浜・神戸・長崎・新潟・函館の5港を開港すると、5港にともなう外国人居留地に西洋料理が広まった。

明治時代の初め、東京が日本の首都になったが、東京には開港が無かった影響で、東京には外国人を接待できるような施設が江戸ホテル(築地ホテル)しか無く、西洋料理も横浜から取り寄せなければならなかった。

北村重威はこの状況を非常に憂えていたので、岩倉使節団に参加できなかった北村重威は、岩倉具視から京都府知事の座を約束されたが、京都府知事を辞退し、東京に外国人を接待する施設を作ることにした。

そして、北村重威は明治政府から築地の一角を払い下げてもらい、明治5年にホテル兼レストラン「精養軒ホテル」を開業した(注釈:精養軒ホテルは明治3年に開業したという資料もある)。

ところが、明治5年に「銀座の大火」が発生し、精養軒ホテルはオープン初日に焼け落ち、江戸ホテル(築地ホテル)も焼失してしまった。

北村重威はバラック小屋で西洋料理の店を営業していたらしく、その後、明治政府の支援を受け、明治6年に築地で再びホテル兼レストラン「精養軒(築地精養軒)」を開設する。

このとき、銀座周辺は焼け野原だったので、岩倉具視は銀座の一角を北村重威に払い下げようとしたが、北村重威は「そんなには必要ない」と断り、采女町(現在の銀座5丁目)の海軍用地200坪だけでを払い下げてもらった。

その後、銀座の地価が高騰したので、北村重威の子孫は「あの時に断らなければ」と悔やんだと伝わる。

明治9年、明治政府は上野山内の一部を公園と定めると、岩倉具視は北村重威に上野公園に精養軒(上野精養軒)の開業を要請する。

北村重威はテル兼レストラン「精養軒(築地精養軒)」を再開したばかりだったので、岩倉具視の要請を辞退したが、岩倉具視の強い要請により、上野公園に「上野精養軒」を開設した。

築地精養軒はホテル業務が主で、レストラン業務は従であったが、上野精養軒はレストラン業務が主となる。

精養軒の社長・北村重威が岩倉具視の側近だったこともあり、精養軒は政府や海軍の御用達となり、繁栄した。

精養軒の料理は高額だったが、日本の海軍は兵士に西洋のマナーを習得することを推奨したので、海軍の兵士は精養軒に通い、精養軒で使った金額の多さを自慢し合ったという。

こうして、精養軒は東京で一番の西洋料理店となり、晩餐会の料理を受け持つことになるが、アメリカン人の少女クララ・ホイットニーは「うちで作る料理は、精養軒よりも美味しいと、みんな断言する。精養軒の食事はイギリス風・フランス風・日本風の混合で、栄養的でもないし値段も張る」と書き残しているので、精養軒の味は三流だったようである。

しかし、明治時代の後期になると、本場フランスに留学してフランス料理の王様オーギュスト・エスコフィエからフランス料理を学んだ西尾益吉が築地精養軒の4代目料理長に就任し、名実ともに築地精養軒を日本一の西洋料理店へと導いた。

こうして、築地精養軒は明治時代後半から大正時代にかけ、4代目料理長・西尾益吉と5代目料理長・鈴本敏雄の時に黄金期を迎えた。

そして、築地精養軒は後に「天皇の料理番」となる秋山徳蔵や同じく「天皇の料理番」となる中島伝次郎など、数々の料理人を排出し、天皇家御用達の西洋料理店の中でも一番の西洋料理店となり、西洋料理の歴史にその名を刻んだ。

ところが、精養軒を創業した北村重威や経営陣は金儲けに走ったらしい。金儲けを考える北村重威や株主など経営陣と、築地精養軒は4代目料理長・西尾益吉が対立し、築地精養軒は4代目料理長・西尾益吉を追放してしまう。

そして、築地精養軒を去った4代目料理長・西尾益吉の後を継いだのが、5代目料理長・鈴本敏雄である。

5代目料理長・鈴本敏雄はフランスへの留学経験は無いが、天皇の料理番・秋山徳蔵も絶賛する程の上前で、秋山徳蔵はフランス料理の命とも言えるデミグラスソースを5代目料理長・鈴本敏雄に発注する程の名人であった。

ところが、5代目料理長・鈴本敏雄のとき、築地精養軒の料理人らが経営陣と対立して革命を起こして革命に成功したが、5代目料理長・鈴本敏雄は革命を良しとせず、築地精養軒を退社した。

一方、精養軒の社長・北村重威が死んだ年は不明だが、一説によると、1906年(明治39年)に死去したらしい。

その後、大正12年(1923年)に関東大震災が発生し、築地精養軒は倒壊したが、築地精養軒は再建されることはなく、西洋料理の歴史からその名を消した。

精養軒は上野精養軒を本店として存続し、平成の現在も上野精養軒は存続しているが、西洋料理業界で精養軒の名前を聞くことはほとんど無いという。

秋山徳蔵の生涯を描いた「実話・天皇の料理番」のあらすじとネタバレの目次は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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