精神外科の歴史-ロボトミー手術の復活と現在

ダニエル・キイスの小説「アルジャーノンに花束を」のあらすじと結末ネタバレ読書感想文の番外編「アルジャーノンに花束を-実話とモデルのロボトミー手術の後編」です。

このページは「アルジャーノンに花束を-実話とモデルのロボトミー手術」からの続きです。

■前編のあらすじ
1936年(昭和11年)にポルトガルの神経科医アントニオ・エガス・モニスが精神病の外科手術として前頭葉白質切截術(ロイコトミー手術)を考案した。

同年、アメリカのジョージ・ワシントン大学の神経学者ウォルター・フリーマンが前頭葉白質切截術(ロイコトミー手術)に改良を加え、前頭葉切除術(ロボトミー手術)へと進化さた。

ロボトミー(精神外科)は「魂への手術」と賞賛された。1939年(昭和14年)から第2次世界大戦が始まると、戦争の影響で精神障害者が増加したこともあり、ロボトミーは精神病の画期的な手術としてアメリカ全都へと広まり、全世界へと広まった。

■アイスピックによるボトミーの誕生のネタバレ
1945年(昭和20年)は第2次世界大戦が終結した年である。この年、アメリカのロボトミー手術の第1人者ウォルター・フリーマンは、キッチンにあったアイスピックを見て閃き、アイスピックを使ったロボットミー手術を考案する。

アイスピックによるロボットミー手術とは、目の上部から眼窩下にアイスピックを入れて金槌で叩いて穴を開け、アイスピックで前頭葉を切断する手術法で、「経眼窩ロボトミー」「アイスピック式ロボトミー」と呼ばれる。

これまでのロボトミー手術は、高度な脳外科の技術を必要としたため、ウォルター・フリーマンと神経外科医ジェームズ・ワッツは必ず2人1組で手術をしており、ウォルター・フリーマンが1人で手術することは無かった。

(注釈:小説「アルジャーノンに花束を」で、ニーマー教授とストラウス博士が共同で研究しているのは、こうした経緯がモデルになっているのだろう。)

しかし、ウォルター・フリーマンが考案したアイスピック式ロボットミー手術は、手術室のような設備が必要なく、高度な脳外科の技術を必要しなかったので、精神科医が精神病院で手術が簡単に行える術式だった。

このため、協力者の神経外科医ジェームズ・ワッツは、アイスピックを使うことに反対し、ウォルター・フリーマンとの協力関係を打ち切り、ウォルター・フリーマンから離れた。

こうして1人なったウォルター・フリーマンは、各地の精神病院を巡り、アイスピックによるロボットミー手術を披露し、アイスピックによるロボットミー手術の普及に取り組んだ。

その結果、1940年代後半にロボットミー手術は全盛期を迎え、ロボットミー手術の考案者アントニオ・エガス・モニスは、1949年に「ある種の精神病に対する前額部大脳神経切断の治癒的価値の発見」という名目でノーベル生理学・医学賞に選ばれた。

ロボトミー手術がノーベル生理学・医学賞に選ばれたこともあり、日本のロボトミー手術は1950年代に最盛期を迎えた。

また、ロボトミー手術はヨーロッパにも普及しており、1952年(昭和27年)にはローマ法王が「最後の手段」という条件付きでロボトミー手術を容認する声明を出した。

■実話でアルジャーノン-ロボットミー手術の衰退
アイスピックによるロボットミー手術を開発したウォルター・フリーマンは、1人で各地の精神病院を巡り、アイスピックによるロボットミー手術を披露した。

しかし、どこでも手軽に行える手術方法が仇となった。ウォルター・フリーマンは、デモンストレーションをする興行師のようだと批判されるようになったのである。

ロボットミー手術で死亡した患者も居ることから、ウォルター・フリーマンへの批判は強まった。そして、ナチス・ドイツの人体実験と比較されるようになり、ロボットミー(精神外科)に対する批判が強まっていく。

こうしたなか、1952年代に向精神薬「クロルプロマジン(ソラジン)」が開発され、精神疾患に対する向精神薬での治療が始まった。

こうして、1950年代に向精神薬(化学的ロボトミー)と精神外科(ロボトミー手術)の主導権争いが始る。

向精神薬の治療には科学的な根拠が無く、ウォルター・フリーマンは向精神薬を「化学的ロボトミー」と批判したが、電気ショック療法やロボトミーは非人道的な治療法として廃れていき、精神病の治療は向精神薬が主流になっていった。

しかし、完全に電気ショック療法やロボトミーが無くなった訳では無く、電気ショック療法は言うことを聞かない患者に対する懲罰として続けられ、ロボトミー手術は暴れる精神障害者を大人しくさせる目的で続けられた。

■精神障害者に対する人権のあらすじ
1950年代後半になると、北欧でノーマライゼーションという概念が提唱される。ノーマライゼーションとは、障害者と健常者が共存する社会作りを目指す思想である。

また、時を同じくして、精神病院で行われている非人道的な治療方法を批判する「反精神医学」という運動が起こる。

このようななか、1961年にジョン・F・ケネディが、35代目アメリカ大統領に就任する。

ジョン・F・ケネディ大統領の妹ローズ・マリー・ケネディは、1941年(昭和16年)にロボトミー手術を受けたが、手術に失敗して廃人となっていた。

ケネディ家は廃人となったローズ・マリー・ケネディの存在を秘密にしたが、ジョン・F・ケネディが大統領になったことを切っ掛けに、妹ローズ・マリー・ケネディの存在が明るみに出て、ジョン・F・ケネディが大統領は大きな批判を受ける。

ジョン・F・ケネディ大統領は、この批判をかわすために、精神障害者施設を支援し、1963年(昭和38年)に精神病患者に対する福祉政策「精神病及び精神薄弱に関する大統領教書」(通称「ケネディ教書」)を発表した。

このケネディ教書によって、精神障害者を障害者コロニーに隔離していた隔離政策から、脱施設化・脱入院化へと方針転換されることになるが、ジョン・F・ケネディ大統領が1963年(昭和38年)11月に暗殺されたため、脱施設化・脱入院化政策は大きく後退した。

一方、ジョン・F・ケネディ大統領の妹ユーニス・ケネディ・シュライバーは、知的障害者の姉ローズ・マリー・ケネディの影響を受けて精神障害者の福祉に力を入れ、1968年(昭和43年)から知的障害者のスポーツ大会「スペシャルオリンピックス」を開催した。

(注釈:パラリンピックは身体障害者の大会で、スペシャルオリンピックスは精神障害者の大会です。)

また、1960年代になると、ロボットミー手術の被害者側から、考案者アントニオ・エガス・モニスが受賞したノーベル生理学・医学賞の取り消しを求める運動が起こる(ただし、現在もノーベル生理学・医学賞は取り消されていない)。

アメリカのロボトミーの父であるウォルター・フリーマンも1960年代の中盤になると、ロボトミー手術を止めた。

しかし、日本では依然としてロボトミー手術が行われ、大勢のロボトミー被害者を生んでいた。

1964年(昭和39年)、日本では桜ヶ丘保養所(桜ヶ丘記念病院)の医師が、本人の同意を得ず、入院中のスポーツライター桜庭章司に対してロボトミー手術を行う。

1968年(昭和43年)から、日本で学生運動が活発になる。当時の学生は火炎瓶や投石で権力を批判しており、人体実験やロボトミー手術をしていた医学界も学生運動の批判の対象となった。

1970年代に入ると、日本でも精神科医の非人道的な治療を批判する反精神医学という運動が起きたため、1975年(昭和50年)に日本精神神経学会が精神外科(ロボトミー)を否決した。こうして、日本のロボトミー手術は自主規制された。

1975年には精神病院で行われている非人道的な治療を告発する映画「カッコーの巣の上で」(主演はジャック・ニコルソン)がアメリカで上映され、翌年の1976年に第48回アカデミー賞の作品賞・監督賞・主演男優賞・主演女優賞・脚色賞の主要5部門を独占した。

映画「カッコーの巣の上で」は1976年に日本でも上映され、大きな反響を呼んだ。

(映画「カッコーの巣の上で」のあらすじとネタバレは「カッコーの巣の上で-あらすじと結末ネタバレ」をご覧ください。)

1979年(昭和54年)9月、騙されてロボトミーを行われた桜庭章司が、ロボトミー手術によって独創性や主観性を失ってスポーツライターを続けられなくなったことを恨みに思い、執刀医を殺害するため、執刀医の自宅に押し入った。

しかし、執刀医が帰宅しなかったため、桜庭章司は執刀医の母と妻を殺害して逃走したが、逮捕され、無期懲役の判決を受けた(ロボトミー殺人事件)。

■ロボトミー(精神外科)の影響
作家ダニエル・キイスは1959年に精神障害者が手術によって天才となる中編小説「アルジャーノンに花束を」を発表し、1966年に長編小説「アルジャーノンに花束を」を発表した。

また、1962年に作家ケン・キージーが、ロボトミー(精神外科)をテーマにした小説「カッコーの巣の上で」を発表し、1975年にはジャックニコルソンの主演で映画「カッコーの巣の上で」が上映され、大きな反響を生んだ。

■ロボトミーの日本への影響
ロボトミーは、第2次世界大戦で精神障害者が急増したこともあり、アメリカで推定5万人、日本でも推定3万人(多い説では12万人)がロボトミー手術を受け、大勢の被害者が産んだ。

人口比率から考えると、日本の精神外科(ロボトミー)はかなり盛んだったようである。

1970年代に手塚治虫の漫画「ブラックジャック」がロボトミー手術を扱ったが、大きな批判を受けたため、ロボトミー手術が登場するブラックジャックの作品「植物人間」「快楽の座」「ある監督の記録」などが差し替えや発売禁止となった。

■現在のロボトミー手術の評価と復活
ロボトミー手術は、ドイツ・ナチス政権下の人体実験と比較され、「悪魔の手術」と評価されているが、現在では脳研究や外科技術が進歩したことから、ロボトミーを再評価される動きがあり、評価が変わりつつある。

ある調査によると、ロボトミー手術を受けた精神障害者の69%が精神病が改善し、25%は変化が無く、2%が悪化し、4%が死亡した。

1930年代後半から「人格を喪失する」などの副作用・後遺症が報告されおり、大勢の被害者を生んだが、正しく行われたロボトミー手術に関しては相当の効果があったとされる。

本来、ロボトミー手術は重度の精神病に対して行われる手術だが、軽度や適用外の精神病に対してもロボトミー手術を行ったため、被害が拡大したとされる。日本で被害が拡大したのも、同様の原因である。

ロボトミーが大勢の被害者を生んだ原因は2つの説がある。1つ目は次々とロボトミーの適用対象を拡大し、本来はロボトミーの必要ない患者にまでロボトミーを行った、という説である。たとえば、人体実験や暴れる患者を大人しくさせる目的など、看護側の都合でロボトミーが行われていた。

2つ目は、ウォルター・フリーマンが術式を改良して脳外科の技術の無い精神科医でもロボトミー手術を行えるようにしたため、被害が拡大したという説である。神経外科医が行ったロボトミーに関しては、それなりの成果が出ているらしい。

説によると、非人道的な治療を行っていた医師への批判が、1960年当時の体制批判の影響で増幅され、ロボトミー(精神外科)批判へとつながったものであり、ロボトミー(精神外科)そのものの評価ではないという。

さて、ロボトミー容認派の意見は、「全ての治療に効果の無かった重篤な精神障害者の最終手段としてロボトミー手術を残すべきである」というのが主流である。

ロボトミー手術は副作用や後遺症として人格が破壊される点については、「既に重度の精神障害により壊れた人格を比較することは難しい。また、人格が壊れる程度は手術の範囲で調整できる」と指摘されている。

一方、ロボトミー反対派の意見は、「精神外科(ロボトミー)に一定の効果を認めるが、重大な副作用・後遺症を見過ごすことは出来ない」「副作用に可逆性が無い(脳を手術すると元に戻せない)」というのが代表的である。

日本では1975年(昭和50年)に日本精神神経学会が「副作用に可逆性が無い」という趣旨で精神外科(ロボトミー)を否決したため、日本のロボトミー手術は自主規制された。

しかし、厚生労働省はロボトミー手術を禁止しておらず、ロボトミー手術は健康保険の適用となっている。

また、医師側が敗訴したロボトミー手術に関する裁判でも、裁判所は「精神障害者に対する最後の手術」という趣旨で、ロボトミー手術の違法性は指摘しておらず、現在でもロボトミーは合法である。

さて、現在は、脳の研究や脳外科の技術が進んだこともあり、2000年頃から精神外科(ロボトミー)が再評価されるようになってきた。

(注釈:ロボトミーを再評価し始めたのは神経外科で、精神科医がロボトミー手術をするのではなく、外科技術のある神経外科がロボトミー手術を行うという流れのようです。)

そして、現在、イギリスなど数カ国では、「全ての治療に効果が無かった」などの一定の条件を満たした重度の精神障害者に対してロボトミー(精神外科)手術が行われている。

日本では、1960年代から1970年代かけて起きた学生運動や反精神医学運動の影響で、精神外科(ロボトミー)への批判が増幅され、精神外科(ロボトミー)が忌避されていることもあり、精神外科(ロボトミー)に対する客観的な評価は行われていない。

ロボトミー手術を受けたローズ・マリー・ケネディの生涯のあらすじとネタバレ」へ続く。

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