ロボトミー手術を受けたローズ・マリー・ケネディの生涯

ロボトミー手術(精神外科手術)の後遺症の被害者として有名なローズ・マリー・ケネディの生涯をあらすじとネタバレで紹介する実話「ローズ・マリー・ケネディの生涯」です。

■ローズ・マリー・ケネディの生涯
ローズ・マリー・ケネディは、1918年に父ジョセフ・P・ケネディの第3子(9人兄弟の長女)として生まれた。ローズ・マリー・ケネディは、後のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディの妹である。

ローズ・マリー・ケネディは知的障害児だったので、家庭教師を2人付けていたが、18歳になっても基礎的な学問は小学4年生程度のままで、IQ(知能指数)も60~70程度と報告された。

母親は出産の時に産科医が遅れたため、ローズ・マリー・ケネディの脳に十分な酸素が行き届かなかったため、精神障害になったと心配した。

父ジョセフ・P・ケネディは子供たちに高い期待を寄せており、ローズ・マリー・ケネディは思春期になると、父親のプレッシャーがストレスとなり、20歳を過ぎた頃から、気分の変化が激しく、暴力的になり、家族を困らせるようになった。

このため、政治家の父ジョセフ・P・ケネディは、ローズ・マリー・ケネディの存在が政治生命に傷を付けると考え、ローズ・マリー・ケネディを修道院へと入れた。

しかし、ローズ・マリー・ケネディは夜な夜な修道院を抜け出すため、父ジョセフ・P・ケネディはローズ・マリー・ケネディの男性トラブルを懸念するようになる。

このころ、アメリカでは、精神病の画期的な治療方法として、ロボトミー手術(精神外科手術)が大流行していた。

ロボトミー手術とは、頭蓋骨に穴を開けて、長いメスを挿入し、脳の一部(前頭葉)を切り取るという脳外科手術で、1936年(昭和11年)にポルトガルの神経科医アントニオ・エガス・モニスが考案した手術である。

その手術方法を、アメリカの脳外科医ジェームズ・ワッツと神経外科医ウォルター・フリーマンが改良し、この2人がアメリカのロボトミー(精神外科)の第1人者であった。

そこで、父ジョセフ・P・ケネディは、ロボトミー手術で有名な脳外科医ジェームズ・ワッツに相談し、精神外科手術「ロボトミー手術」の提案を受ける。

父ジョセフ・P・ケネディは、ローズ本人の同意の無いまま、母親(妻)にも手術のことを教えず、手術同意書に署名し、ウォルター・フリーマンがローズ・マリー・ケネディを手術することになった。

1941年(昭和16年)、ウォルター・フリーマンは心理テストを行い、ローズ・マリー・ケネディを「精神障害」と診断すると、ローズ・マリー・ケネディにロボットミー手術を行った。

ウォルター・フリーマンは、ローズ・マリー・ケネディの頭蓋骨の両側に穴を開け、バターナイフのようなメスを挿入し、脳の前頭葉を切っていく。

このとき、ローズ・マリー・ケネディは意識があり、ジェームズ・ワッツが簡単な質問をし、ローズ・マリー・ケネディは質問に答えた。

そして、手術をしているウォルター・フリーマンは、ローズ・マリー・ケネディの答え方を観察して、前頭葉を切り取る範囲を判断しながら、ロボトミー手術を行った。

しかし、ロボトミー手術は失敗した。23歳のローズ・マリー・ケネディは、ロボトミー手術の失敗によって以前よりもIQ(知能指数)が低下して2歳程度の知能指数になり、普通に歩くことも、普通にしゃべることも出来なくなってしまったのである。

父ジョセフ・P・ケネディは、廃人となったローズ・マリー・ケネディをカトリック系の養護学校に入れ、ローズ・マリー・ケネディが知的障害者だった事も、手術を受けたことも秘匿した。

その後、ジョン・F・ケネディは父ジョセフ・P・ケネディの意志を継いで、1960年の大統領選挙でリチャード・ニクソンを破り、1961年(昭和36年)1月に第35代アメリカ大統領に就任する。

ケネディ家はローズ・マリー・ケネディが精神障害者だったことも、ロボトミー手術を受けたことも秘密にしていたが、ジョン・F・ケネディが大統領に就任したことを切っ掛けに、妹ローズ・マリー・ケネディがロボットミー手術によって廃人となった事が明らかになる。

そして、医師が日記の分析や聞き取り調査した結果、妹ローズ・マリー・ケネディのIQ(知能指数)は75以上で、精神障害でも知的障害でもなかったと判明し、ケネディ大統領は大きな批判を浴びた。

ジョン・F・ケネディ大統領は批判をかわすため、精神障害者に対する福祉に力を入れ、1963年(昭和38年)に精神病患者に対する福祉政策「精神病及び精神薄弱に関する大統領教書」(通称「ケネディ教書」)を発表した。

このケネディ教書によって、精神障害者を大型施設に隔離していた政策から、精神障害者の脱入院化・脱施設化が始まったが、1963年(昭和38年)11月にジョン・F・ケネディ大統領は暗殺されたため、脱入院化・脱施設化は後退した。

皮肉にも、ジョン・F・ケネディ大統領に当たった3発目の銃弾はケネディ大統領の頭を貫いており、ケネディ大統領は脳みそを破壊されて死んだ(これは都市伝説マニアの間で「ケネディの呪い」と呼ばれている)。

一方、ケネディ大統領の妹ユーニス・ケネディ・シュライバーは、姉ローズ・マリー・ケネディの影響を受け、精神障害者に対する福祉に尽力し、1963年(昭和38年)に精神障害者のスポーツ大会「スペシャルオリンピックス」を開催し、スペシャルオリンピックスは現在も続いている。

(注釈:スペシャルオリンピックスは精神障害者のスポーツ大会で、身体障害者のスーツ大会「パラリンピック」とは別の大会です。)

他方、23歳の時にロボットミー手術を受け、その後遺症で廃人となったローズ・マリー・ケネディは、ケネディー家から離れて障害者用の養護施設で暮らした。

家政婦などの証言によると、母親と妹ユーニス・ケネディ・シュライバーは、ローズ・マリー・ケネディの見舞いに訪れていたが、父ジョセフ・P・ケネディは一度も見舞いに行くことは無かったという。

そして、ローズ・マリー・ケネディは、人生の大半を障害者用の養護施設で過ごし、ロボットミー手術から63年後の2005年(平成17年)1月に86歳で自然死した。

彼女の恥は、知的障害として生まれた事では無く、家族から自分の存在を秘密にされたことだった。

なお、1936年にポルトガルの神経科医アントニオ・エガス・モニスが考案したロボトミー手術は、世界中に広まった。

1950年代に向精神薬が開発されると、精神障害者に対する治療は薬物治療が主流となったが、ロボトミー手術も1970年代中盤まで行われ、アメリカでは5万人、日本では3万人から12万人の精神障害者がロボトミー手術を受けた。

ロボトミー手術は人格を喪失するという重大な副作用・後遺症があり、大勢の廃人を産み、「悪魔の手術」と呼ばれ、ナチス・ドイツの人体実験と比較されて大きな批判が起きたが、現在ではロボトミーの評価が見直され、一部の国では現在でもロボトミー手術が行われている。

ロボトミー(精神外科)が誕生した歴史や背景に関しては、「アルジャーノンに花束を-実話とモデルのロボトミー手術のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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