武田信玄と上杉謙信の川中島の戦い

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する真田三代記「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の祖父・真田幸隆編「武田信玄と上杉謙信の川中島の戦い」です。

このページは「真田幸隆(真田信繁)が戸石城を乗っ取るのあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村の生涯のあらすじとネタバレも目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■川中島の戦いの背景
川中島とは、信濃国(長野県)北部を流れる犀川と千曲川の間にある三角地帯である。川中島は物流・経済の要所で、海の無い信濃国(長野県)にとって重要な場所の1つであった。

武田信玄と上杉謙信は、この川中島を巡り、天文22年(1553年)から11年間の間に5度に渡り激突し、この戦いを「川中島の戦い」という。

この「川中島の戦い」を勃発する経緯を理解するためには、上野国(群馬県)の状況から解説する必要がある。

■上野国(群馬県)の状況
室町時代の末期、関東管領・上杉憲政が上野国(群馬県)を支配していた。

関東管領とは、室町幕府が関東を支配するたために設置した鎌倉府の役職で、関東公家を補佐する立場でだったが、関東管領は実務を取り仕切っていたため、次第と関東の諸大名に影響力を持つようになり、やがて、関東公方と対立した。

その結果、関東公方と関東管領の立場が逆転し、関東管領・上杉家は関東の諸大名を管轄するようになった。

ところが、関東管領・上杉家と関東公方が対立した結果、関東の諸大名は疲弊し、鎌倉幕府の御家人・伊勢氏の伊豆国(静岡県の伊豆半島)侵攻を許してしまった。

やがて、伊勢氏は相模国(神奈川県)を統一すると、小田原城を居城とした。そして、伊勢氏は名門「北条」を名乗るようになり、関東管領・上杉家と対立するようになり、相模国(神奈川県)へと侵攻する。

(注釈:伊勢氏は名門「北条氏」と関係が無く、勝手に北条氏を名乗っているだけなので、名門「北条氏」と区別して、「伊勢北条氏」や「後北条氏」と呼ぶことがある。)

■上杉謙信が関東管領に就任
上野国(群馬県)の関東管領・上杉憲政は、長野業正(箕輪城の城主)などの有能な豪族に支えられていたが、相模国(神奈川県)を支配する北条氏康の侵攻を受けて劣勢に立たされるようになる。

そして、関東管領・上杉憲政は天文21年(1552年)、配下の豪族が離反して居城・平井城が北条氏康の脅威にさらされるようになると、居城・平井城を捨て、家来筋にあたる越後(新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、越後(新潟県)へと逃れた。

一説によると、このとき、関東管領・上杉憲政は、嫡男・龍若丸を置き去りにして逃げたため、嫡男・龍若丸は北条氏康に捕らえられて処刑されたという。

一方、越後(新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)は、越後の守護代・長尾家の出身で、関東管領・上杉憲政の家臣筋にあたり、家柄は低く、前年の天文20年(1551年)に、ようやく自国を統一したばかりで、未だに国内は安定していなかった。

しかし、義に厚い長尾景虎(上杉謙信)は自分を頼って越後へと逃れてきた関東管領・上杉憲政を保護し、関東管領・上杉憲政の申し入れを受け入れ、上野国(群馬県)へ侵攻して北条氏康を撃退した。

こうして、上野国(群馬県)の豪族は、上杉謙信派と北条氏康派に分かれて対立することになる。

さて、上杉憲政を庇護する長尾景虎(上杉謙信)は、上杉憲政のために関東管領館を建設し、関東管領・上杉憲政を関東管領館に住まわせた。この関東管領館が「御館(おたて)」と呼ばれるようになる。

こうして、長尾景虎(上杉謙信)は、関東管領・上杉憲政から上杉家と関東管領を継承することになったが、まだ大規模な軍事遠征を行える程の力は無かった。

一方、隣国の信濃国(長野県)では、甲斐国(山梨県)の武田信玄が信濃国(長野県)へと侵攻しており、武田信玄が信濃北部・埴科郡の豪族・村上義清と対立していた。

豪族・村上義清は信濃4群を支配し、武田信玄を2度に渡り撃退した強豪であったが、武田信玄の家臣・真田幸隆(真田幸村の祖父)が天文20年(1551年)5月に村上義清の戸石城(砥石城)を乗っ取ると、一気に形勢が逆転し、武田信玄は勢いに乗じて信濃東部の佐久郡と小県郡を平定した。

天文22年(1553年)、武田信玄が豪族・村上義清と雌雄を決するため、信濃北部へと侵攻すると、信濃北部の豪族が続々と武田信玄に寝返ったので、村上義清は居城・葛尾城を捨てて越後(新潟県)の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、援軍を要請した。

その後、豪族・村上義清は長尾景虎(上杉謙信)の援軍を得て武田信玄の先鋒を打ち破り、信州国小県郡を奪い返したが、再度、武田信玄の侵攻を受けると、信州国小県郡を捨てて越後国(新潟県)へと亡命して長尾景虎(上杉謙信)を頼った。

こうして、村上義清の要請を受けた越後の長尾景虎(上杉謙信)は、信濃北部へと侵攻して武田信玄と対立し、信濃北部の要所「川中島」の覇権を巡って、11年間に5度に渡り対決することになる。世に言う「川中島の戦い」の始まりである。

さて、永禄2年(1559年)、長尾景虎(上杉謙信)は第3次川中島の戦いの戦後処理を終えると、2度目の上洛を果たして室町幕府の将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領へ就任する許可を得ると共に、相応の身分を許された。

さらに、長尾景虎(上杉謙信)は信濃侵攻についても室町幕府の公認を受け、信濃侵攻についても大義名分を得た。

こうして、長尾景虎(上杉謙信)は関東侵攻と信濃侵攻の両方に大義名分を得たので、関東のみならず、信濃(長野県)にも大きな影響を及ぼし、武田信玄に属した信濃の豪族も長尾景虎(上杉謙信)に誼を通じ始めた。

このとき、真田幸隆(真田幸綱)も使者を立てて長尾景虎(上杉謙信)に太刀を送ったが、武田信玄は真田幸隆(真田幸綱)に全幅の信頼を置いており、真田幸隆(真田幸綱)が長尾景虎(上杉謙信)に太刀を送ったのは越後の偵察が目的だったとされている。

■甲相駿三国同盟と織田信長の野望
さて、相模国(神奈川県)の北条氏康は、駿河国(静岡県中部)の今川義元と対立していたが、甲斐(山梨県)の武田信玄の仲介によって和睦し、武田信玄・北条氏康・今川義元の3氏は天文23年(1554年)に三国同盟「甲相駿三国同盟」を結んだ。

永禄3年(1560年)5月、駿河国(静岡県中部)の大名・今川義元は、甲相駿三国同盟を背景に、尾張(愛知県西部)へと侵攻したが、尾張の織田信長の襲撃を受け、今川義元は桶狭間で戦死した(桶狭間の戦い)。

この桶狭間の戦いによって織田信長が台頭し、織田信長の野望が幕を開ける。そして、駿河国(静岡県中部)の今川家は、桶狭間の大敗で衰退し、滅亡へと突き進むことになる。

■第4次・川中島の戦いが始まる経緯
永禄2年(1559年)に2度目の上洛を果たし、関東侵攻・信州侵攻の大義名分を得た長尾景虎(上杉謙信)は、永禄3年(1560年)8月に関東管領・上杉憲政を奉じて上野国(群馬県)へと侵攻した。

すると、北関東の豪族は続々と長尾景虎(上杉謙信)に下り、長尾景虎(上杉謙信)は、瞬く間に北関東を回復する。

劣勢に立たされた相模国(神奈川県)の北条氏(伊勢北条氏)は、甲相駿三国同盟を頼りに居城・小田原城(神奈川県小田原市)に籠城すると、長尾景虎(上杉謙信)は一気に攻め入り、永禄4年(1560年)3月に北関東連合軍10万で小田原城を包囲した。

ところが、小田原城の北条氏から助けを求められた甲斐(山梨県)の武田信玄は、小田原城へは向かわず、長尾景虎(上杉謙信)の本国・越後(新潟県)へと侵攻したのである。

いにしえの中国に囲魏救趙(魏を囲んで趙を救う)という計あり。魏軍に包囲された趙は、同盟国の斉に助けを求めた。すると、斉の軍師・孫ピン(孫子の兵法を書いた孫武の子孫)は斉へは向かわず、魏へと侵攻した。驚いた魏軍は趙の包囲を解いて自国へ戻ったが、待ち構えていた斉の軍師・孫ピンに撃破され、大敗した。これが囲魏救趙の計である。

北条氏から助けを求められた武田信玄は、囲魏救趙の計を使い、越後(新潟県)へと侵攻し、包囲されていた小田原城の北条氏を助けようとしたのである。

長尾景虎(上杉謙信)は小田原城を包囲中であったが、武田信玄に本国・越後(新潟県)脅かされたので、本国・越後の事が気になり、居ても立っても居られなくなった。

そこで、長尾景虎(上杉謙信)は小田原城を包囲中の永禄4年(1561年)閏3月に、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行い、関東管領に就任するとともに、上杉憲政の養子となり、上杉政虎(後の上杉謙信)へと改名すると、北条征伐を断念して越後へと引き上げた。

(注釈:長尾景虎はこうして上杉姓を名乗るようになったが、上杉謙信を名乗るようになるのは、かなり後なので、以降は便宜上、「上杉謙信」と表記します。)

(注釈2:上杉謙信が小田原城を包囲した期間は、1ヶ月程度とされているが、10日程度という説もある。)

こうして、越後(新潟県)へと戻った上杉謙信は、永禄4年(1561年)8月に信濃北部で武田信玄と戦った。これが「第4次・川中島の戦い」である。

なお、この「第4次・川中島の戦い」で、真田幸隆(真田幸綱)の三男・真田昌幸(真田幸村の父)が初陣を果たしている。

その後、武田信玄が上野国(群馬県)西部へと侵攻したこともあり、信濃北部での戦いは第4次・川中島の戦いをもって収束に向かい、武田信玄と上杉謙信の戦いの舞台は上野国(群馬県)西部へと移ることになる。

武田信玄と真田幸隆の西上野侵攻のあらすじとネタバレ」へ続く。

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