武田信玄と真田幸隆(真田信繁)の西上野侵攻

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する真田三代記「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の祖父・真田幸隆編「武田信玄と真田幸隆の西上野侵攻のあらすじとネタバレ」です。

このページは「武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村の生涯のあらすじとネタバレも目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■武田信玄の上野国(群馬県)侵攻を開始
天文21年(1552年)、北条氏康が上野国(群馬県)へと侵攻すると、上野国(群馬県)の関東管領・上杉憲政は、居城・平井城が北条氏康に脅かされたため、居城・平井城を捨て、家来筋にあたる越後(新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、越後(新潟県)へと逃れた。

越後(新潟県)の長尾景虎(上杉謙信)は、前年に越後を統一したばかりで混乱期にあったが、関東管領・上杉憲政を受け入れて上野国(群馬県)へと侵攻することになる。

ところで、関東管領・上杉憲政の家臣に長野業正という武将がいた。長野業正は上野国群馬郡にある箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)の城主で、婚姻政策によって箕輪の豪族を取り纏めており、上野国(群馬県)西部で最大の勢力を誇る豪族であった。

その昔、真田昌幸(真田幸村の祖父)が領土を失って上野国(群馬県)に亡命していた時に身を寄せた先が、箕輪城の城主・長野業正である。

長野業正は、関東管領・上杉憲政の家臣であったが、北条氏康の侵攻を受けると、関東管領・上杉憲政に見切りを付けて関東管領・上杉憲政から離反し、独立勢力となり、模国(神奈川県)の北条氏康に抵抗していた。

(注釈:別説では、長野業正は関東管領・上杉憲政が越後国へ逃れた後も、関東管領・上杉憲政に義理立てし、箕輪の豪族を率いて、上野国へと侵攻してくる北条氏に抵抗した。)

ところが、長野業正の傘下に属している箕輪衆の1人、国峯城(群馬県甘楽郡甘楽町国峯)の城主・小幡憲重が、敵対している北条氏康に寝返り、さらに北条氏から鞍替えして甲斐の武田信玄に寝返ったのである。

(注釈:当時は同時に複数の勢力に属する事が認められていたので、小幡憲重は北条氏康と武田信玄の両方に属していたという説もある。)

これに激怒した箕輪城の城主・長野業正は、長野業正に属する小幡一族の小幡景純を支援し、小幡景純に国峯城を乗っ取らせ、小幡景純を国峯城の城主とした。

(注釈:長野業正は、国峯城の城主・小幡憲重が草津温泉へ湯治に出かけている間に、小幡一族の小幡景純に反乱を起こさせ、小幡景純に国峯城を乗っ取らせたと伝わる。)

このため、居城・国峯城を奪われた幡憲重は、武田信玄を頼って隣国・信濃国(長野県)へと亡命し、武田信玄に居城・国峯城の奪還を要請したのである。

■第4次川中島の戦い
この間、甲斐国(山梨県)の武田信玄は、相模国(神奈川県)の北条氏康と駿河国(静岡県中部)の今川義元の対立を仲裁することで、天文23年(1554年)に武田信玄・北条氏康・今川義元の3氏による三国同盟「甲相駿三国同盟」を成立させた。

永禄3年(1560年)5月、駿河国(静岡県中部)の今川義元は、甲相駿三国同盟を背景に、尾張国(愛知県西部)へと侵攻したが、尾張国の織田信長に大敗してしまう(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いから3ヶ月後の永禄3年(1560年)8月、関東管領・上杉憲政を保護していた越後(新潟県)の上杉謙信が、関東管領・上杉憲政を奉じて上野国(群馬県)へと侵攻する。

上杉謙信は北関東の諸大名を味方に付けて、北関東を回復すると、相模国(神奈川県)の北条氏(伊勢北条氏)の討伐するべく、相模国(神奈川県)へと侵攻し、小田原城に籠城する北条氏(伊勢北条氏)を包囲した。

この事態を受けた甲斐(山梨県)の武田信玄は、甲相駿三国同盟を結ぶ北条氏(伊勢北条氏)を助けるため、上杉謙信の本国・越後(新潟県)へと侵攻する。

永禄4年(1561年)、これに驚いた上杉謙信は、北条征伐を諦めて本国・越後(新潟県)へ急いで戻り、信濃北部で武田信玄と激突した。世に言う「第4次・川中島の戦い」である。

■武田信玄の西上野侵攻
永禄4年(1561年)11月、武田信玄は「第4次・川中島の戦い」の戦後処理を終えると、小幡憲重の要請に応じて上野国(群馬県)西部へと侵攻する(武田信玄の西上野侵攻)。

[注釈:武田信玄の西上野侵攻は、従来は弘治3年(1557年)に開始したとされていましたが、近年は永禄4年(1561年)に開始したという説が有力になっています。]

一方、長野氏の最盛期を築いた箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)の城主・長野業正は、永禄4年(1561年)に死んでおり、この時は子供(次男または三男)の長野業盛が家督を相続していた。

また、軍記によると、箕輪城の城主・長野業正は過去、6度に渡り武田信玄を退けたとされ、武田信玄は強敵の長野業正が死んだ事を喜び、西上野へと侵攻したと言われている。しかし、それは軍記による創作だと考えられている。

さて、上野(群馬県)西部へと侵攻した武田信玄は、国峯城(群馬県甘楽郡甘楽町国峯)を奪還すると、上野(群馬県)西部を支配下に置くため、上野国西部で最大の豪族・長野業盛の箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を目指して侵攻した。

長野業盛は父・長野業正に似て優秀だったらしく、1度目は武田信玄を撃退することに成功したが、5年後の永禄9年(1566年)に再び武田信玄に攻め込まれると、箕輪城は落城し、武田信玄の手に落ちた。

こうして、武田信玄が上野国へと侵攻したことにより、信濃北部の覇権を争った「川中島の戦い」は「第4次・川中島の戦い」で収束に向かい、武田信玄と上杉謙信の争いの舞台は信濃北部から上野国(群馬県)西部へと移っていくのである。

ところで、武田信玄が上野国(群馬県)西部の群馬郡へと侵攻していたころ、真田幸隆(真田幸綱)も鎌原氏と羽尾氏の対立を切っ掛けに、上野国(群馬県)西部の吾妻郡へと侵攻することになる。

■鎌原氏と羽尾氏の対立
上野国(群馬県)西部にある上野国吾妻郡鎌原の豪族・鎌原氏は、隣接する上野吾妻郡羽尾の豪族・羽尾氏(はお氏)と領土の境界線を巡り、長年にわたり対立していた。

鎌原氏も羽尾氏も、信濃国(長野県)の名門・滋野御三家「海野氏」から枝分かれした同族で、それぞれに地名を取って鎌原氏と羽尾氏を名乗っていた。

一方、真田幸隆(真田幸綱)は、信濃国(長野県)北部の豪族・村上義清に信州国小県郡真田郷を奪われたものの、武田信玄の元で旧領を回復して以降、家系図を改ざんして滋野御三家「海野氏」の嫡流を自称するようになっていたため、鎌原氏や羽尾氏の本家筋を名乗っていた。

さらに、真田幸隆(真田幸綱)は羽尾幸全(はお・ゆきてる)の娘を側室にしていたとされ、真田幸隆(真田幸綱)と羽尾幸全は縁戚であった。

そして、領土を失って上野国(群馬県)へと逃れた時に、真田幸隆(真田幸綱)が最初に頼ったのが、羽尾幸全だったと伝わる。

さて、上野国(群馬県)の関東管領・上杉憲政が北条氏(伊勢北条氏)の侵攻を受けて越後(新潟県)の上杉謙信の元に亡命して以降、上野国(群馬県)の豪族は上杉謙信か北条氏かに属して対立し、混乱に乗じて領土の拡大を目指した。

このようななか、鎌原重澄と境界線を巡って対立してた羽尾幸全は、越後(群馬県)の上杉謙信に属する岩櫃城の城主・斉藤憲広の支援を受けて攻勢に出た。

すると、鎌原重澄は、これに対抗するため、本家筋にあたる真田幸隆(真田幸綱)を通じて、上杉謙信と対立する武田信玄に支援を求めたのである。

武田信玄は鎌原重澄の要請の応じて、鎌原氏と羽尾氏(はお氏)の境界線問題に介入した事により、鎌原氏と羽尾氏による境界線の争いは、上杉謙信と武田信玄の代理戦争へと発展する。

このとき、武田信玄は上野国(群馬県)から亡命してきた国峯城の元城主・小幡憲重の要請に応じて上野国(群馬県)西部へと侵攻しているため、真田幸隆(真田幸綱)が鎌原重澄の支援を担当することになった。

■真田幸隆(真田幸綱)の西上野侵攻
永禄6年(1563年)6月になると、鎌原重澄と羽尾幸全の境界線問題は、鎌原重澄を支援する真田幸隆(真田幸綱)と、羽尾幸全を支援する岩櫃城の城主・斎藤憲広の争いに発展した。

上野国(群馬県)吾妻郡へと侵攻した真田幸隆(真田幸綱)は、斎藤憲広の岩櫃城を攻めたが、岩櫃城は要害であるうえ、斎藤憲広を支援する上杉謙信側の上沼田城や白井城からの援軍もあったので、真田幸隆(真田幸綱)は岩櫃城を攻め落とせず、和議を結んだ。

しかし、これは偽りの和議だった。真田幸隆(真田幸綱)は水面下で岩櫃城への調略を開始し、岩櫃城の城主・斎藤憲広の甥・斎藤則実を内応させた。さらに、斎藤家の重臣で羽尾氏の一族である海野幸光・海野輝幸の兄弟を内応させた。

(注釈:海野幸光・海野輝幸の兄弟は羽尾一族だが、本家筋にあたる「海野」姓を名乗っていた。)

こうして、根回しを終えた真田幸隆(真田幸綱)は、永禄6年(1563年)10月に突如として岩櫃城攻めを再開し、内応者を利用して岩櫃城を乗っ取ったのである。

以降、真田幸隆(真田幸綱)は上野国(群馬県)吾妻郡を武田信玄の勢力下に置き、吾妻郡の支配を武田信玄から任された(注釈:上野国吾妻郡は武田信玄から支配を任されただけで、真田幸隆の領土にはなっていない)。

一方、小幡憲重の要請に応じて上野国(群馬県)西部へと侵攻していた武田信玄も、永禄9年(1566年)に西上野の要所である箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を攻め落す。

真田幸隆(真田幸綱)は永禄10年(1567年)に、上杉謙信側の白井城を攻め落とすと、箕輪城へと入り、上杉謙信側の沼田城の攻略を開始する。

その後、真田幸隆(真田幸綱)は上杉謙信に白井城を奪われたが、真田幸隆(真田幸綱)が再び白井城を奪い返し、真田幸隆(真田幸綱)は上野国(群馬県)西部で上杉謙信と激戦を繰り広げた。

■真田幸隆(真田幸綱)の死去
こうして、真田幸隆(真田幸綱)は武田信玄の家臣として各地で活躍し、失った信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を回復したうえ、上野国(群馬県)西部にある吾妻郡の支配を任された。

また、真田幸隆(真田幸綱)は、上野西部の要所である箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)の城代を勤め、真田家の礎を築いた。

そして、真田幸隆(真田幸綱)は永禄10年(1567年)に病気になった事を切っ掛けに、家督を嫡男・真田信綱に譲って隠居し、本領の信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を嫡男・真田信綱に任せた。

以降、真田幸隆(真田幸綱)は武田信玄の作戦には加わらず、上野国(群馬県)西部の支配にあたり、上杉謙信側の勢力に対する備えとして活躍し、武田信玄が死んだ翌年の天正2年(1574年)に死去する。

嫡男・真田信綱は天正2年(1574年)に真田幸隆(真田幸綱)が死ぬと、正式に真田家の家督を相続して真田家の当主となった。

その後、嫡男・真田信綱と次男・真田昌輝は武田勝頼に使えて、天正3年(1575年)5月に行われた「長篠の戦い」で戦ったが、嫡男・真田信綱と次男・真田昌輝は戦死したため、三男の真田昌幸(真田幸村の父)が真田家の当主となったのである。

真田幸村の父・真田昌幸の生涯」へ続く。

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