真田昌幸の生涯

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村の生涯を真田三代で描く「真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「真田昌幸の生涯」です。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯」をご覧ください。

真田昌幸の父・真田幸隆(真田幸綱)の生涯については「真田幸隆(真田幸綱)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■真田昌幸の生涯
真田昌幸は、天文16年(1547年)に信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族・真田幸隆(真田幸綱)の三男として生まれた。母親は正室・河原氏(河原隆正の娘)である。

真田昌幸は幼名を「真田源五郎」と言い、武田信玄の一門・武藤家の養子となり「武藤喜兵衛」を名乗ったが、その後、真田家の家督を相続するために真田家に復帰して「真田昌幸」を名乗った。

真田昌幸の「昌」は、武田家の重臣に与えられる文字で、武田信玄の祖父・武田信昌の一字が与えられたという。

武田信玄は諱(本名)を「武田晴信」と言い、「晴」は室町幕府12代将軍・足利義晴から拝領した偏諱で、「信」は武田家一門が使用する字だったので、武田信玄は祖父・武田信昌の「昌」を家臣に与えていたとされる。

この真田昌幸が、天下に真田家の存在を知らしめ、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と呼ばれ、徳川家康を恐れた人物であり、後に真田幸村の父になる人物である。

■真田昌幸が生まれるまでのあらすじ
信濃(長野県)の名門・滋野氏は、「海野氏」「根津氏」「望月氏」の滋野御三家に別れ、信濃国東部の信濃国小県郡と隣接する上野国(群馬県)吾妻郡に広まった。

真田昌幸の父・真田幸隆(真田幸綱)は、滋野御三家・海野氏の一族で、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を支配したことから、その地名を取って真田を名乗るようになったとされる(初代真田氏)。

(注釈:しかし、実際は父・真田幸隆よりも前から真田氏は存在したと考えられており、真田家の自出には様々な説がある。)

天文10年(1541年)、信濃国小県郡を支配していた海野一族は、武田信虎(武田信玄の父)・諏訪頼重・村上義清の3氏連合に攻められて領土を失い、隣国・上野国(群馬県)の関東管領・上杉憲政を頼り、上野国(群馬県)へと逃れた(海野平の戦い)。

こうして、信濃国小県郡のほとんどは村上義清の領土となった。信濃国小県郡真田郷を支配していた真田幸隆(真田幸綱)も、この「海野平の戦い」で領土を失い、上野国(群馬県)へと逃れ、関東管領・上杉憲政の元で旧領土回復を目指した。

やがて、甲斐(山梨県)の武田信玄が父・武田信虎を追放して武田家の当主となると、関東管領・上杉憲政は武田家の混乱に乗じて信濃国東部の佐久群へと侵攻したが、佐久群の諏訪頼重は士気が高かったため、関東管領・上杉憲政は戦うことなく、諏訪頼重と和睦を結んだ。

武田信玄は、これを同盟違反として、諏訪頼重を切腹に追い込むと、信濃国諏訪を足がかりに、本格的に信濃侵攻を開始した。

一方、真田幸隆(真田幸綱)も、この一件で関東管領・上杉憲政に見切りを付け、同族の海野一族と別れて甲斐の武田信玄の家臣となり、武田信玄の元で旧領地の回復を目指した。

父・真田幸隆が武田信玄に帰属した時期については、諸説があり詳しい事は分らないが、天文19年(1550年)7月までには武田信玄に帰属している。

三男・真田昌幸が生まれたのは天文16年(1547年)は、父・真田幸隆(真田幸綱)が武田信玄の家臣になっていたかどうかは不明だが、領土を失い、領土回復を目指していた時期である。

■三男・真田昌幸が武田信玄の人質となる
信濃(長野県)侵攻を本格化させた武田信玄の前に立ちはだかったのは、信濃北部の豪族・村上義清であった。

村上義清は、信濃国の北部・埴科郡にある葛尾城の城主で、信濃国東部の小県郡など信濃国4郡を有し、武田信玄を2度も撃退した強豪である。

しかし、父・真田幸隆(真田幸綱)が、村上義清の枝城・戸石城(砥石城)を調略によって乗っ取ると、一気に形勢が逆転し、武田信玄は信濃東部の佐久群・小県郡を平定する。

さらに、武田信玄は村上義清と雌雄を決するため、信濃北部へと侵攻すると、信濃北部の豪族が続々と武田信玄に寝返り、村上義清は居城・葛尾城を捨てて、越後の上杉謙信に助けを求めた。

村上義清は上杉謙信の援軍を得て信濃東部の小県郡を取り戻したが、再び武田信玄の侵攻を受けると、越後(新潟県)へと亡命し、上杉謙信の元に身を寄せた。

こうして、村上義清を保護した上杉謙信が信濃北部への侵攻を開始して武田信玄と対立し、信濃北部の要所である川中島の覇権を巡った争うことになる。

さて、村上義清が越後(新潟県)へと亡命したことにより、信濃国東部の小県郡は武田信玄の支配下となり、真田幸隆(真田幸綱)は旧領土・信濃国小県郡真田郷(長野県東御市)を回復した。

また、武田信玄が人質を差し出す事を条件に秋和(長野県上田市)に350貫を与えると言ってきたので、真田幸隆は天文22年(1553年)8月に三男・真田昌幸(真田幸村の父)と四男・真田信尹を人質として武田信玄の元に送った。

このとき、三男・真田昌幸は7歳で、以降、三男・真田昌幸と四男・真田信尹は武田信玄の元で人質生活を送る事になる。

■真田昌幸の初陣
さて、人質として武田信玄の元へ送られた三男・真田昌幸は、かなり聡明だったらしく、武田信玄に気に入られて、武田信玄の奥近習衆(小姓)として取り立てられた。

奥近習衆(小姓)とは、将来の幹部候補で、武田信玄の奥近習衆(小姓)に選ばれた真田昌幸・土屋右衛門尉・三枝勘解由・曽根内匠・甘利左衛門尉・長坂源五郎の6人を「奥近習衆6人」と呼ぶ。

奥近習衆(小姓)となった真田昌幸は、武田信玄の目や耳となって人物評価を行い、武田信玄に報告し、武田信玄は報告を大いに参考にして人事を行った。武田信玄は真田昌幸に全幅の信頼を置いて寵愛した。

さて、真田幸隆が人質として三男・真田昌幸を武田信玄の元に差し出した直後の天文22年(1553年)9月、越後の上杉謙信が信濃北部へと侵攻し、武田信玄と信濃北部の要所「川中島」の覇権を争った。世に言う「川中島の戦い」である。

武田信玄と上杉謙信は、川中島の覇権を巡り、12年間で5度に渡り激突している。

人質となった三男・真田昌幸が初陣を果たしたのは、永禄4年(1561年)9月に起きた第4次・川中島の戦いである。三男・真田昌幸は奥近習衆(小姓)として武田信玄の本陣を守り、第4次・川中島で初陣を果たした。

以降、三男・真田昌幸は奥近習衆として武田信玄に従い、各地の戦に出陣しすることになる。

■武田信玄の西上野侵攻
第4次・川中島の戦いの戦後処理を終えた武田信玄は、永禄4年(1561年)11月に上野国(群馬県)西部へと侵攻し、永禄9年(1566年)に上野国西部の要所・箕輪城を攻め落とした。

一方、上野国西部の吾妻郡では鎌原氏と羽尾氏が領土争いをしており、真田幸隆(真田幸綱)は鎌原氏の要請を受けて、永禄6年(1563年)6月に吾妻郡へと侵攻し、永禄6年(1563年)10月に吾妻郡の要所・岩櫃城攻め攻め落とした。

そして、武田信玄は上野国西部を支配下に置くと、真田幸隆(真田幸綱)に吾妻郡の支配を任せた。

上野国西部の吾妻郡は、真田幸隆(真田幸綱)に与えられた領土ではなく、あくまでも支配を任されていただけだが、この支配が後の真田家の基盤となっていく。

■武藤家の相続と真田幸村の誕生
さて、武田信玄の生母・大井氏の一族に武藤家があり、その武藤家の当主・武藤三郎左衛門尉は子供が夭折したため、家督を相続する者が居なくなった。

そこで、武田信玄は寵愛する真田昌幸に武藤家の養子に入れ、武藤家の家督を相続させた。

父・真田幸隆(真田幸綱)は、武田信玄の信濃侵攻の時に家臣になった新参者(外様の家臣)であり、新参者の人質である真田昌幸が武田信玄の一門を継ぐというのは、異例中の異例であった。

こうして、時期は不明ながら、真田昌幸は武藤家の養子となって「武藤喜兵衛」を名乗るようになった。そして、真田昌幸は武田信玄の駿河侵攻で活躍し、騎馬15騎・足軽30人を指揮する足軽大将へと出世した。

また、真田昌幸(武藤喜兵衛)は武藤家時代に正室・山手殿と結婚し、永禄9年(1566年)に長男・真田信幸が生まれ、永禄10年(1567年)に次男・真田幸村が生まれた。

(注釈:正室・山手殿は武田信玄の養女で、公家・菊亭晴季の娘という説や、宇多頼忠の娘という説があるが、正確な素性は分っていない。)

また、人質生活を送っていた四男・真田信尹も、武田信玄の命令によって甲斐の名門・加津野昌世の養子となり、加津野家の家督を継いだ。

■織田信長の野望
甲斐(山梨県)の武田信玄は、信濃国(長野県)北部で越後(新潟県)の上杉謙信と対立する一方で、駿河国(静岡県中部)の大名・今川義元と相模国(神奈川県)の大名・北条氏康との争いの仲裁に乗り出した。

そして、武田信玄は今川義元と北条氏康を和睦させると、天文23年(1554年)に甲斐(山梨県)の武田信玄、駿河国(静岡県中部)の今川義元、相模国(神奈川県)の北条氏康の3者による同盟「甲相駿三国同盟」を成立させていた。

永禄3年(1560年)5月、駿河国(静岡県中部)の大名・今川義元は、甲相駿三国同盟を背景に、尾張(愛知県西部)へと侵攻を開始した。

今川義元は圧倒的な兵力で尾張(愛知県西部)へと侵攻したが、尾張(愛知県西部)の大名・織田信長の奇襲を受けて今川義元は戦死し、今川家は歴史的な敗北を喫した(桶狭間の戦い)。

人質として今川義元の元に送られていた松平元康(徳川家康)は、今川家が混乱している隙を突き、三河国(愛知県東部)にある岡崎城(愛知県岡崎市)を乗っ取ると、今川家と絶縁し、尾張(愛知県西部)の織田信長と同盟を結び、三河国(愛知県東部)の統一に乗り出した。

一方、駿河国(静岡県中部)の今川家は、桶狭間の戦いで大敗して以降、衰退の一途をたどった。

■嫡男・武田義信の廃嫡事件
今川家が衰退していくなか、永禄8年(1565年)、武田家の家臣による武田信玄の暗殺計画が露見し、暗殺計画に関連した家臣が粛正・追放された。さらに、武田信玄は嫡男・武田義信を廃嫡し、東光寺へ幽閉した(武田義信の廃嫡事件)。

嫡男・武田義信が廃嫡された理由は不明だが、以前から武田信玄と嫡男・武田義信は以前から不仲になっていたという。

嫡男・武田義信は同盟を強化するため、駿河国(静岡県中部)の今川義元の娘を正室を迎えていたが、この廃嫡事件によって嫡男・武田義信と正室・今川氏は離縁させられ、武田家と今川家の婚姻は解消された。

さて、武田信玄には4人の子供(男子)が居た。嫡男の武田義信、次男の武田竜芳、三男の武田信之、四男の武田勝頼(諏訪勝頼)の4人である。

しかし、次男の武田竜芳は盲人で、三男の武田信之は夭折していた。そして、四男の武田勝頼(諏訪勝頼)は武田信玄と側室・諏訪氏との間に生まれた子供であったため、信濃国諏訪の豪族・諏訪氏を継がせてた。

このため、武田信玄は嫡男の武田義信を廃嫡すると、諏訪氏を継がせていた四男・武田勝頼(諏訪勝頼)を武田家に呼び戻し、後継者とした。

(注釈:武田信玄は遺言で、孫の武田信勝を後継者とし、武田勝頼は武田信勝が成長するまでの一時的な当主として指名したという逸話があるが、この逸話は創作の可能性が大きい。)

こうして、武田信玄は、嫡男・武田義信の廃嫡を廃嫡したことを切っ掛けに、外交方針を変更し、尾張(愛知県西部)の織田信長とよしみを通じることになる。

■武田信玄の駿河侵攻
一方、尾張(愛知県西部)の織田信長は、三河(愛知県東部)の徳川家康と同盟を結び、美濃(岐阜県)の大名・斎藤義龍(斉藤道三の嫡男)と対立していた。

このため、織田信長は甲斐(山梨県)の武田信玄に接近し、姪・遠山夫人を養女に迎えてから、武田信玄の四男・武田勝頼(諏訪勝頼)に嫁がせ、武田信玄と同盟を結んで背後の安全を確保した。

これを受けて武田信玄は、織田信長と同盟を結ぶ徳川家康とも同盟を結び、武田信玄・織田信長・徳川家康による三国同盟が成立する。

さて、廃嫡されて幽閉されていた嫡男・武田義信が幽閉から2年後の永禄10年(1567年)10月に死去すると、武田義信の正室・今川氏(今川義元の妹)は駿河国(静岡県中部)の今川家へと返された。

こうして、武田家と今川家の縁戚関係が完全に解消されると、武田信玄は永禄11年(1568年)、武田・北条・今川の同盟「甲相駿三国同盟」を破棄し、三河国(愛知県東部)の徳川家康と駿河分割の条約を結んで、今川家の駿河国(静岡県中部)へと侵攻を開始したのである(武田信玄の駿河侵攻)。

■真田昌幸は我が両目のごとし
武田信玄の駿河侵攻のとき、ある戦の前に武田信玄の家臣・馬場信春が、武田信玄に敵の陣形や地形を確認するように忠告すると、武田信玄は「安心せよ。我が両目のごとき者を物見に派遣してる」と答えた。

家臣らが「いったい誰のことであろうか」と話し合っていると、奥近習衆(小姓)の真田昌幸と曽根内匠の2人が帰陣し、武田信玄に敵の陣形や地形を報告して、「武田方が有利なり」と告げた。すると、これを聞いた武田信玄は、攻撃を下知したのである。

真田昌幸はそれだけ武田信玄から信頼を得ており、武田信玄から「我が両目のごとき者」を評価されるほどになっていた。

■今川氏の滅亡
今川家は桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれて以降、衰退の一途をたどっており、今川家の当主・今川氏真は同盟を結ぶ北条家の助けを得て、武田信玄・徳川家康に対抗したが、武田勝頼・徳川家康の侵攻を受けて攻め滅ぼされ、大名としての今川家は滅んだ(今川氏の滅亡)。

こうして、甲斐(山梨県)武田信玄は、駿河国(静岡県中部)の半分を支配することになり、念願の海を手に入れたのである。

一方、尾張国(愛知県)の織田信長は武田信玄と同盟を結んで背後の憂いを取り除くと、永禄10年(1567年)9月に美濃(岐阜県)の斎藤龍興を攻め滅ぼし、天下布武を掲げたのである。

■真田幸隆(真田幸綱)の隠居
さて、上野国(群馬県)には、武田信玄・上杉謙信・北条氏康が進出しており、父・真田幸隆(真田幸綱)は、武田信玄から上野国(群馬県)西部の吾妻郡の支配を任され、上杉謙信の勢力と戦っていた。

真田昌幸の父・真田幸隆(真田幸綱)は永禄10年(1567年)に病気になった事を切っ掛けに、家督を嫡男・真田信綱に譲って隠居し、以降は武田信玄の作戦には加わらず、上野国西部で上杉謙信の押さえとして活躍した。

真田昌幸は三男だったうえ、武田信玄の母方の一族「武藤家」を相続したいたので、真田家の家督相続には全く関係が無い。

■織田信長の野望-武田信玄の死去
一方、京都では、永禄8年(1565年)5月に松永久通と三好三兄弟が京都の二条城で13代将軍・足利義輝を襲撃して討ち取り、第14代将軍・足利義栄を擁立していた(永禄の変)。

家督相続から外れていたため、仏門に入っていた足利義昭は、13代将軍・足利義輝の殺害の影響で三好三兄弟に幽閉されていたが、側近の細川藤孝らに助けられて京都から逃げだし、越前の朝倉義景を頼った。

そして、下俗した足利義昭は15代将軍の座に就くため、朝倉義景に上洛を要請したが、朝倉義景が要請に応じないため、朝倉義景の家臣・明智光秀を通じて、尾張(愛知県西部)の織田信長を頼った。

これを受けた織田信長は永禄11年(1568年)、室町幕府の復興を願う足利義昭を擁立して、上洛を果たし、足利義昭が15代将軍に就任する。

しかし、あくまでも幕府の再建を目指す15代将軍・足利義昭は、武力によって天下統一を目指す織田信長と、次第に方針が対立していった。

その結果、15代将軍・足利義昭は全国の大名に檄を飛ばして信長包囲網を形成し、反織田信長の狼煙を上げたが、第1次・信長包囲網は失敗してしまう。

甲斐(山梨県)の武田信玄は第1次・信長包囲網には参加して居なかったが、織田信長の比叡山焼き討ちに激怒して第2次・信長包囲網に加わり、織田信長・徳川家康と手切りして徳川家康の三河国(愛知県東部)への侵攻を開始した。

そして、武田信玄は、徳川家康の長篠城などを攻略していき、三河国(愛知県東部)へと侵攻する(武田信玄の西上作戦)。

元亀3年(1572年)12月には、「三方ヶ原の戦い」で、武田信玄が織田信長・徳川家康の連合軍を撃破する。

しかし、武田信玄は元亀4年(1573年)4月に三河国(愛知県東部)侵攻の途中で吐血して死去したため、武田信玄による西上作戦は頓挫し、足利義昭の第2次・信長包囲網も空中分解してしまったのである(武田信玄の死亡)。

「真田昌幸の生涯-長篠の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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