真田昌幸の家督相続と実話・長篠の戦い

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「真田昌幸の家督相続と実話・長篠の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田昌幸の生涯のあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■これまでのあらすじ
信濃国小県郡真田郷(長野県東御市)の豪族だった真田幸隆は、信濃北部の豪族・村上義清の侵攻を受けて領土を失ったが、武田信玄の家臣となり、武田信玄の信濃侵攻で活躍し、旧領土・信濃国小県郡真田郷(長野県東御市)を回復するとともに、武田家での地位を確立した。

そして、真田幸隆は武田信玄の要請に応じて、天文22年(1553年)8月に三男・真田昌幸(真田幸村の父)と四男・真田信尹を人質として武田信玄の元に送った。

以降、三男・真田昌幸は真田家を離れ、人質生活を送ることになる。

武田信玄に気に入られた三男・真田昌幸は、武田信玄の側近中の側近である奥近習衆(小姓)として取り立てられ、武田信玄の目や耳となって活躍し、武田信玄から「我が両目のごとし」と称された。

そして、三男・真田昌幸は、武田信玄の母方・大井氏の一族「武藤家」の容姿となり、武藤家の家督を相続し、「武藤喜兵衛」を名乗るようになり、騎馬15騎・足軽30人を指揮する足軽大将へと出世した。

武田信玄は、信濃北部にある川中島の覇権を巡り、越後(新潟県)の上杉謙信と対立する一方で、駿河国(静岡県中部)の今川義元、相模国(神奈川県)の北条氏康の3者で同盟「甲相駿三国同盟」を成立させた。

しかし、駿河国(静岡県中部)の今川義元が織田信長の奇襲を受けて「桶狭間の戦い」で死すると、武田信玄は外交方針を転換して、織田信長・徳川家康と同盟を組んで駿河の今川家を攻め滅ぼし、念願の海を手に入れた。

その後、尾張(愛知県)の織田信長は足利義昭を擁立して上洛を果たしたが、15代将軍・足利義昭は次第に織田信長の方針と対立し、織田信長を討つため全国大名に檄を飛ばして信長包囲網を敷いた。

甲斐(山梨県)の武田信玄は元亀3年(1572年)9月、足利義昭の要請に応じで第2次・信長包囲網に加わり、織田信長・徳川家康と手切りし、徳川家康の三河国(愛知県東部)へと侵攻した(武田信玄の西上作戦)。

武田信玄は、徳川家康の長篠城などを落として三河国(愛知県東部)へと侵攻したが、元亀4年(1573年)4月に三河国(愛知県東部)侵攻の途中で吐血して死んでしまい、武田信玄による西上作戦は頓挫し、足利義昭の信長包囲網も空中分解してしまった。

■武田信玄の死後
武田信玄の死後、四男・武田勝頼(諏訪勝頼)が武田信玄の家督を相続する。真田家は引き続き、武田勝頼に仕えた。

真田昌幸の父・真田幸隆(真田幸綱)は、武田信玄が死んだ翌年の天正2年(1574年)5月19日に死去した。父・真田幸隆(真田幸綱)の死後、真田幸隆の長男・真田信綱が正式に家督を相続した。

■真田昌幸(真田幸村の父)と長篠の戦い
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は足利義昭の信長包囲網に加わり、長篠城(愛知県新城市長篠)など、徳川家康の城を次々と攻略しながら三河国(愛知県東部)へと侵攻した(西上作戦)。

しかし、翌年の天正元年(元亀4年=1573年)4月、武田信玄が三河国(愛知県東部)侵攻の途中で吐血して死んでしまい、武田軍は武田信玄の死は秘匿したまま撤退を開始した。

徳川家康は武田軍の撤退を受け、武田信玄に奪われた城の奪還を開始し、長篠城(愛知県新城市長篠)などを奪い返した。

さて、武田信玄の死は、武田信玄の遺言により、3年間、秘匿されていた。

しかし、天正元年(1573年)8月、武田信玄に属していた三河国(愛知県東部)の豪族・奥平信昌は、武田信玄の死を疑い、徳川家康に寝返った。

■実話・長篠の戦いのあらすじとネタバレ
さて、武田信玄の死後、家督を引き継いだ四男・武田勝頼(諏訪勝頼)は、徳川家康の三河国(愛知県東部)を虎視眈々と狙っていた。

このようななか、天正3年(1575年)、徳川家康の家臣・大岡弥四郎が、武田勝頼の調略に応じ、武田側に内応したのである。

大岡弥四郎は、岡崎城の城主・松平信康の家臣で、武田勝頼に内応すると、武田勝頼を岡崎城へ招き入れようとした。

これを好機とした武田勝頼は、武田信玄の西上作戦に匹敵する規模を誇る軍事作戦を発令し、三河国(愛知県東部)への侵攻を開始する。これは、武田信玄の死から3年後の事であった。

(注釈:「長篠戦い」の切っ掛けは、武田勝頼が奪われた長篠城を奪い返すため、長篠城を攻めたと言われてきたが、近年は大岡弥四郎の内応が長篠の戦いの切っ掛けだとされている。)

さて、武田勝頼の先鋒は、足助城を落として岡崎城へと迫ったが、大岡弥四郎の内応が徳川側に知られ、大岡弥四郎は処刑されてしまった。

このため、武田勝頼は岡崎城攻めを諦め、先鋒と合流すると、進路を変更して野田城とニ連木城を攻め落とし、吉田城を目指した。

しかし、吉田城は守りが強固だったので、武田勝頼は目標を長篠城へと変更し、長篠城を攻めた。

一方、織田信長は徳川家康の援軍要請に応じて3万の軍勢を派遣しており、織田信長3万・徳川家康8000の援軍が長篠城へと駆けつけた。

一報を受けた武田勝頼は軍議を開くと、家臣の山県昌景・馬場信春・内藤昌豊らが決戦に反対した。

しかし、武田勝頼は家臣・山県昌景らの反対を押し切って織田信長・徳川家康連合軍との決戦を決定し、長篠城の西にある設楽原で織田信長・徳川家康連合軍を迎え撃ったのである。

こうして、武田勝頼1万2000と織田信長・徳川家康連合軍3万8000の両軍は、設楽原で激突した。世に言う「長篠の戦い」である。

真田家も武田勝頼の三河侵攻に出陣しており、この「長篠の戦い」で、当主・真田信綱と弟・真田昌輝の2人は右翼2陣に布陣した。武藤家を継いだ真田昌幸は旗本として「長篠の戦い」に出陣している。

「長篠の戦い」は通説によると、武田家は最強の騎馬軍団を有しており、織田信長は馬防柵を築き、鉄砲(火縄銃)3000を用意して、鉄砲三段撃ちという作戦を駆使し、武田勝頼を壊滅状態に追いやったとされる。

(ただし、武田軍最強の騎馬隊や織田信長の鉄砲三段打ちは、後世の創作という説もある。)

長篠の戦いで壊滅的な被害を受けた武田勝頼は敗走し、長男・真田信綱と次男・真田昌輝は戦死した。真田昌幸は旗本であったため、無事に逃げ延びた。

■真田昌幸(真田幸村の父)が家督を相続
真田幸隆(真田幸村の祖父)の家督は嫡男・真田信綱が継いだが、嫡男・真田信綱と次男・真田昌輝が「長篠の戦い」で戦死した。

家督を相続した嫡男・真田信綱には、子供が居たので、嫡男・真田信綱の死後、その子供が家督を相続するのが通常である。

しかし、武田家の重臣・高坂昌信(春日虎綱)の助言により、武田勝頼の命令で、武藤家を相続していた三男・真田昌幸(真田幸村の父)が真田家に復帰し、真田家の家督を相続することになった。

こうして、真田家の家督相続には全く関係の無かった四男・真田昌幸(真田幸村の父)が、真田家の当主となったのである。

このころ、真田家は信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)とその周辺を本領とし、武田信玄の時代から上野国(群馬県)西部の支配を任されていた。

真田家の家督を相続した真田昌幸の領土は、武藤家の領土を返上して、真田家の領土と上野国西部の支配を引き継ぎ、上野国(群馬県)中部にある白井城の城代に就任し、上野国(群馬県)方面で活躍することになる。

真田昌幸の生涯-御館の乱と沼田景義の挙兵と海野幸光の裏切り」へ続く。

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