真田昌幸の生涯-真田幸村と上田城の戦い(神川の戦い)

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村(真田信繁)の生涯を実話で描く真田三代「実話・真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「実話・真田昌幸の生涯-真田幸村と上田城の戦い(神川の戦い)のあらすじとネタバレ」です。

このページは「徳川家康が真田昌幸に激怒!室賀正武の暗殺計画」からの続きです。

実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■これまでのあらすじ
織田信長の死後、徳川家康は旧武田領の甲斐(山梨県)へと侵攻し、相模(神奈川県)の北条氏直と対立したが、織田信雄(織田信長の次男)の斡旋を受けて、天正10年(1582年)10月29日に和議を結んで、同盟を結んだ。

この和議で、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏政の領土とすることが決まった。

徳川家康に帰属した真田昌幸は、この講和条件により、上野(群馬県)の吾妻・沼田の明け渡しが迫られたが、真田昌幸は代替地を貰っていない事を理由に吾妻・沼田の明け渡しを拒否していた(真田昌幸の沼田領土問題)。

代替地を与えられない徳川家康は、真田昌幸の沼田領土問題を黙殺していたが、「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立した事を切っ掛けに、後方の安全を確保する必要に迫られ、北条氏直との同盟を強化する必要が出てきた。

徳川家康は、室賀城の城主・室賀正武に真田昌幸の暗殺を命じたが、真田昌幸は室賀正武の家臣を味方にしていたので、室賀正武の暗殺計画は全て真田昌幸に筒抜けになっており、室賀正武は真田昌幸に処刑されてしまう。

そこで、徳川家康は天正13年(1585年)8月、真田討伐を発動したのであった。

■第1次上田城の戦い(神川の戦い)
天正13年(1585年)8月、徳川家康は真田討伐に鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら7000の軍勢を派遣した。徳川家康は出陣していないが、相手は弱小の真田だったので、徳川軍の士気は高かったという。

このとき、徳川家康は真田昌幸に信濃方面の面目を潰された事に激怒していたのか、「根切り(皆殺し)肝心」と真田家の殲滅を命じてる。

対する真田昌幸は、越後の上杉景勝に援軍を求めた。真田昌幸は上杉景勝から北条氏直へ寝返った過去があるため、なかなか帰属を許して貰えなかったが、第1次上田城の戦い(神川の戦い)の直前になってようやく帰属が認められた。

そして、真田昌幸が次男・弁丸(真田幸村)を人質に出すこと、上杉景勝は援軍に応じ、上杉軍は上田城の北東に延びる曲尾筋に布陣し、真田昌幸の後詰めとなった。

さて、天正13年(1585年)閏8月2日、徳川軍の鳥居元忠ら7000が信濃国小県郡真田郷に着陣し、上田城へと攻め寄せた。

一方、真田昌幸の勢力は、住民を含めて2000で、真田昌幸が上田城に入り、上田城の北東にある戸石城に嫡男・真田信幸を入れ、上田城の南東にある矢沢城には、矢沢頼康と上杉軍を入れて守りを固めた。

徳川軍は上田城を包囲すると、上田城から「高砂」が聞こえてきたので、徳川軍は怒って鉄砲を撃って攻撃した。

このとき、上田城に籠もる真田昌幸は、悠長に長岡寺の坊主と碁を打っていた。業を煮やした家臣・根津長右衛門が「この碁は勝ちです」と叫んで、碁盤をひっくり返すと、真田昌幸はようやく戦の準備を始めたという。

碁を打っている間に徳川軍を十分に引きつけた真田昌幸は、突然、反撃に転じた。上田城の二の丸まで攻め込んでいた徳川軍は、突然の反撃に驚き、撤退を開始したが、真田昌幸が芦の簀を千鳥掛けに張った物を仕掛けていたので、徳川軍は足を取られて倒れ、大勢が折り重なって倒れて圧死した。

大久保忠世らが反撃に転じようとしたところに、戸石城と矢沢城から真田軍が打って出たので徳川軍は大混乱した。

徳川軍は神川まで撤退したが、神川が増水していたので、真田軍の追撃を受け、増水した神川で大勢が溺れ死んだ。

一説によると、真田昌幸が神川の水を堰き止めておき、時機を見て堰を切って神川を増水させたのだという。

この戦いは真田昌幸の圧勝に終わり、真田軍の被害は40人に対して、徳川軍の被害は1300人だったと伝わる。

■真田幸村が初陣を果たす?
上田軍記では、真田昌幸の次男・弁丸(真田幸村)が「第1次上田城の戦い(神川の戦い)」に出陣していることから、次男・弁丸(真田幸村)が第1次上田城の戦い(神川の戦い)で初陣を果たしたという説がある。

しかし、史実では、次男・弁丸(真田幸村)は人質として上杉景勝の元に送られているので、真田幸村が第1次上田城の戦い(神川の戦い)が参加していた可能性は小さい。

一般的には、真田幸村の初陣は、天正18年(1590年)に行われた豊臣秀吉の小田原征伐の時だと考えられている。

■第1次上田城の戦い(神川の戦い)の後
第1次上田城の戦い(神川の戦い)で大敗した徳川軍の鳥居元忠は、真田側の丸子三左衛門(または丸子平内)が守る丸子城(長野県上田市上丸子)を攻めたが、成果はあがらず、天正13年(1585年)閏8月28日に信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)へと引き上げた。

すると、真田昌幸は上杉景勝からの援軍を利用して、上田城(長野県上田市)の改修を行った。上田城は上杉景勝にとっても、徳川家康の押さえとなる要所だったので、上杉景勝は上田城の改修を大いに支援した。

こうして、真田昌幸は、徳川家康の力を利用して手に入れた上田城を、上杉景勝の力を利用して、さらなる要害にしたのであった。

これに対して徳川家康は、北条氏直に沼田城への侵攻を要請した。北条氏直は下野国(栃木県)へと侵攻して宇都宮国綱と争っていたので、天正13年(1585年)9月、北条氏邦・北条氏照を総大将に、上野国東部にある真田昌幸の沼田城を攻めさせた。

越後の上杉景勝も上田城の真田昌幸も沼田城に援軍を送れなかったが、沼田城の城主・矢沢頼綱(矢沢綱頼)は僅かな兵で沼田城を守り抜き、北条氏邦・北条氏照を退けた。

さて、小諸城(長野県小諸市)の徳川軍は上田城の改修を尻目に、井伊直政の援軍を受け、虎視眈々と上田城を攻める機会を狙っていたが、徳川家康の重臣中の重臣・石川数正の出奔という事件が起こり、撤退を余儀なくされることになるのであった。

実話・真田昌幸の生涯-石川数正の出奔事件のあらすじとネタバレ」へ続く。

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