真田幸村の父・真田昌幸は表裏比興の者

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村(真田信繁)の生涯を実話で描く真田三代「実話・真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田昌幸編「実話・真田昌幸の生涯-真田昌幸は表裏比興の者のあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田昌幸の生涯-徳川家康と石川数正の出奔のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■これまでのあらすじ
武田勝頼は織田信長・徳川家康の侵攻を受けて滅び、武田領の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)は織田信長の領土となった。しかし、武田家の滅亡から3ヶ月後に、織田信長は明智光秀の謀反によって討たれてしまう(本能寺の変)。

こうして、甲斐・信濃・上野の旧武田領は国主不在の空白地となり、徳川家康・上杉景勝・北条氏政の3大名が旧武田領へと侵攻した(天正壬午の乱)。

武田家に使えてきた信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族・真田昌幸は、武田家の滅亡の後、自分の領土を守るため、織田信長→上杉景勝→北条氏直→徳川家康→上杉景勝と主を転々とした。

その一方で、真田昌幸は混乱に便乗して、上野(群馬県)西部の吾妻郡や上野東部の沼田領を自分の領土化すると共に、信濃国小県郡を統一し、大名に発展していた。

徳川家康は、鳥居元忠ら7000の軍勢で真田昌幸の上田城を攻めたが、手勢2000の真田昌幸に大敗してしまう(第1次上田城の戦い)。

鳥居元忠は徳川家康から井伊直政・松平康重5000の援軍を得て、再度、上田城を攻めようとしたが、徳川家の重臣・石川数正が出奔して豊臣秀吉のも元に走るという事態が起きたため、上田城攻めは中止となり、本国へと引き返した。

石川数正の出奔によって徳川家の脅威が一時的に去ると、真田昌幸は今後に備えて、信濃(長野県)へと調略の手を伸ばしてきた豊臣秀吉によしみを通じ、上杉景勝から豊臣秀吉へと鞍替えし、豊臣秀吉に属したのであった。

■真田昌幸は表裏比興の者
天正13年(1585年)11月、重臣・石川数正が出奔して豊臣秀吉の元に走ったことにより、徳川家は大混乱に陥ったが、徳川家康は武田家の軍事資料を基に新たに軍事を再編して徳川家を立て直すとともに、三河一向衆に恩赦を与え、三河一向一揆を鎮圧し、豊臣秀吉に対する備えを強化した。

一方、天正13年(1585年)7月に関白に就任した豊臣秀吉は、天正13年(1585年)8月には四国平定を成し遂げ、天下統一へ向け、信濃(長野県)にも調略の手を伸ばしていた。

そのようななか、天正13年(1585年)11月29日、大規模な地震が発生し、近畿周辺に大きな被害をもたらした(天正の大地震)。

徳川家康に対して強硬姿勢を取っていた豊臣秀吉は、天正の大地震を切っ掛けに方針を転換し、徳川家康に上洛を求めるようになった。

徳川家康は、織田信雄(織田信長の次男)の斡旋もあり、天正14年(1586年)に豊臣秀吉と和睦したものの、豊臣秀吉の上洛要請には応じなかった。

そこで、豊臣秀吉は天正14年(1586年)5月、妹・朝日姫を徳川家康の正室として結婚させたが、それでも徳川家康は上洛しなかった。

さて、徳川家康は豊臣秀吉と和睦したことにより、豊臣秀吉を警戒ししつつも、真田昌幸の討伐を画策する。

これに対して真田昌幸は、徳川家康の信濃国佐久郡への侵攻を開始したが、豊臣秀吉は徳川家康と和睦したことを理由に、真田昌幸に徳川領への侵攻を禁じた。

一方、北条氏直は天正14年(1586年)4月に北条氏邦2万の軍勢で、真田昌幸の沼田城を攻めた。真田昌幸は援軍を徳川家康の動きを警戒していたので、援軍を送れなかったが、沼田城の城主・矢沢頼綱は北条氏邦から沼田城を守り抜いた。

そのうななか、天正14年(1586年)6月、越後の上杉景勝を始め、信濃(長野県)の豪族・小笠原貞慶や木曾義昌など、豊臣秀吉に属する者が上洛し、豊臣秀吉に忠誠を誓った。

真田昌幸は豊臣秀吉に帰属していたが、徳川家康に真田討伐の動きがあったので、徳川家康を警戒して上洛しなかった。

これに激怒した豊臣秀吉は、真田昌幸を「表裏比興の者」と批判し、徳川家康の真田昌幸討伐を支持すると共に、上杉景勝に真田昌幸を支援する事を禁じた。

(注釈:「表裏比興の者」とは、裏表のある卑怯な者という意味です。)

しかし、真田昌幸は上杉景勝を通じて釈明すると、豊臣秀吉は一転して徳川家康に真田討伐の中止を命じ、「真田昌幸の問題を話し合うため、上洛するように」と徳川家康に上洛を求めた。

豊臣秀吉は真田討伐を本気で考えていたわけではなく、豊臣秀吉の妹・朝日姫を正室に迎えても上洛しない徳川家康を上洛させるために、真田昌幸を利用しただけであったと考えられている。

それでも、徳川家康は上洛しなかった。

ところで、九州では、薩摩(鹿児島)の島津義久が九州統一を目前としており、豊後のキリシタン大名・大友宗麟(大友義鎮)は島津義久の九州統一を阻止するため、豊臣秀吉に助けを求めていた。

豊臣秀吉は、大友宗麟(大友義鎮)の求めに応じて、島津義久と大友宗麟(大友義鎮)の双方に対し、私闘を禁じた「惣無事令(そうぶじれい)」を発動したが、島津義久は成り上がり者の豊臣秀吉を馬鹿にして、惣無事令に従わなかった。

そこで、豊臣秀吉は天正14年(1586年)7月、惣無事令違反を理由に、黒田官兵衛を軍師(軍艦)とする中国の毛利軍や四国連合軍を先鋒として九州へ派遣した(豊臣秀吉の九州征伐)。

豊臣秀吉も大軍を率いて九州親征を開始する予定であったが、豊臣秀吉が九州へ親征するには、背後の安全を確保しなければならず、徳川家康を上洛させて忠誠を誓わせる必要があった。

そこで、徳川家康を上洛させるため、豊臣秀吉は天正14年(1586年)10月、大政所(豊臣秀吉の生母)を徳川家康の元に送った。

これは、大政所(豊臣秀吉の生母)が朝日姫(豊臣秀吉の異母妹で、徳川家康の正室)に面会するという名目であったが、実質的には人質であり、豊臣秀吉は生母・大政所を人質に差し出すという荒技を使い、徳川家康に上洛を求めたのである。

さすがの徳川家康も大政所(豊臣秀吉の生母)を人質として送られてきたことに観念せざるを得ず、天正14年(1586年)10月24日に上洛して、10月27日に豊臣秀吉と対面し、豊臣秀吉に家臣として忠誠を誓った。

こうして、豊臣秀吉は、徳川家康を傘下に収める事に成功すると、天正15年(1587年)1月に真田昌幸に恩赦を与え、真田昌幸にも上洛を要請した。

真田昌幸は豊臣秀吉の要請に応じて上洛し、豊臣秀吉に忠誠を誓うと、豊臣秀吉から徳川家康の与力となることを命じられた。

豊臣秀吉は上杉景勝が上洛したさい、信濃国(長野県)の真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌を徳川家康の傘下に入れる事を取り決めていたのである。

こうして、真田昌幸は徳川家康の与力となると、徳川家康から本領を安堵されて正式に大名として認められるようになる。

そして、真田昌幸の嫡男・真田信之(真田信幸)が徳川家康に仕えることになり、徳川家康は徳川家の重臣・本多忠勝の長女・小松姫を養女とし、嫡男・真田信之(真田信幸)に嫁がせた。

これは、徳川家康は真田昌幸を恐れていたため、真田昌幸を自分の与力とし、さらに、政略結婚で真田昌幸を味方に取り込んだという説がある。

(注釈:真田信之が小松姫と結婚した時期は不明で、諸説がある。また、小松姫を養女にしたのは、徳川家康ではなく、徳川秀忠という説もある。)

また、このころ、真田昌幸は、人質として上杉景勝の元へ送っていた次男・真田幸村(真田信繁)を上杉景勝の元から呼び戻し、今度は人質として豊臣秀吉の元に送った。

真田昌幸は、上杉景勝が上洛している隙に次男・真田幸村(真田信繁)を呼び戻し、豊臣秀吉に人質として差し出したので、上杉景勝は怒って豊臣秀吉に真田幸村(真田信繁)の返還を求めたが、豊臣秀吉は真田幸村(真田信繁)を気に入り、返還を拒否したので、上杉景勝は真田幸村(真田信繁)の返還を諦めたと伝わる。

(注釈:真田幸村が人質として豊臣秀吉に送った時期は不明で、上杉景勝が豊臣秀吉に真田幸村の返還を求めた逸話は後世の創作という説もある。)

また、時期は不明ながら、次男・真田幸村(真田信繁)は、豊臣秀吉の重臣・大谷善継の娘を正室に迎えた。

こうして、真田昌幸は徳川家康の与力となって本領を安堵され、嫡男・真田信之(真田信幸)は徳川家康に仕え、次男・真田幸村(真田信繁)は豊臣秀吉の元で人質生活を送ることになった。

一方、徳川家康を傘下に収め、背後の安全を確保した豊臣秀吉は、天正15年(1587年)3月に20万の軍勢で九州親征を開始し、天正15年(1587年)4月に島津義久を降伏させ、西日本の統一を成し遂げた。

こうして、西日本を平定した豊臣秀吉は、未だに従属していない関東の北条氏直を上洛させるため、未だに解決していない真田昌幸の沼田領土問題の裁定に乗り出すことになる。

真田昌幸の生涯-沼田領土問題のあらすじとネタバレ」へ続く。

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