小松姫の生涯

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村の生涯を描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の番外編「小松姫(大蓮院)の生涯のあらすじとネタバレ」です。

ここでは、NHK番組「歴史秘話・ヒストリア」で取り上げられないような、小松姫の逸話を紹介します。

細川忠興の正室・細川ガラシャの生涯については、「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■小松姫(大蓮院)の生涯
小松姫は天正元年(1573年)に、徳川家康の重臣・本多忠勝の長女として生まれた。母は側室の乙女である。幼名を「於小亥(おねい)」と言い、「稲姫」「小松姫」「大蓮院」とも呼ばれた。

父・本多忠勝は徳川家康の重臣中の重臣で、徳川四天王の1人に数えられ、世間から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八(本多忠勝)」と評されるほどの人物である。

小松姫は容姿端麗で父・本多忠勝に負けず劣らず、武芸に秀でていたという。小松姫は烈婦としての逸話ばかりが取り上げられるが、倹約家で非常に気配りの出来る女性でもあった。

小松姫は、政略結婚の道具として真田信之(真田信幸)に嫁いだが、真田家の為に働き、夫・真田信之(真田信幸)の後ろ盾となった。

外様の真田家が幕末まで続くことが出来たのは小松姫の存在が大きく、小松姫が死んだとき、夫・真田信之(真田信幸)は「わが家の灯火(ともしび)が消えたり」と言って悲しんだ程である。

■小松姫の結婚
織田信長は甲斐(山梨県)の武田家を攻め滅ぼしたが、その三ヶ月後に織田信長は明智光秀に本能寺で討たれた(本能寺の変)。

織田信長の死を受け、徳川家康・上杉景勝・北条氏政の三氏が、空白地となった旧武田領の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)へと侵攻する。

信濃国小県郡真田郷(長野県上田市)の豪族・真田昌幸は、混乱に乗じて上野の吾妻領・沼田領を領土化した後、信濃(長野県)東部へと侵攻してきた北条氏政に属した。

しかし、北条氏政は上野(群馬県)全域の領土化を公言していたので、真田昌幸は吾妻領・沼田領を守るため、甲斐へと侵攻していた徳川家康に属して、北条氏政に対立した。

ところが、徳川家康と北条氏政は、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を徳川家康の領土とし、上野(群馬県)を北条氏政の領土とするという条件で和睦した。

真田昌幸は徳川家康から上野(群馬県)の吾妻領・沼田領を北条氏政に引き渡すように命じられたが、代替地を得ていない事から吾妻領・沼田領の引き渡しを拒否した。

代替地を与えられない徳川家康はこの問題を黙殺していたが、西の豊臣秀吉と対立すると、北条氏政との同盟を強化して後方の安全を確保するため、軍事力を背景に真田昌幸に吾妻領・沼田領の引き渡しを求めた。

すると、真田昌幸は「沼田は徳川家康から拝領した領地では無く、自ら切り取った領地である。徳川家康に忠義を尽くした恩賞は未だに無く、代替地も得ていない。にもかかわらず、沼田を北条に渡せというのであれば、これ以上、徳川家康に忠義を尽くす必要は無い」と徳川家康に手切れを宣告し、越後の上杉景勝に属した。

怒った徳川家康は天正13年(1585年)閏8月、鳥居元忠ら7000の軍勢で、真田昌幸の居城・上田城を攻めた(第1次上田城の戦い)。

真田昌幸は農民を総動員しても僅か2000の手勢であったが、徳川軍を挑発して上田城の二の丸まで引き込むと、伏兵を起こして、一気に反撃に出たので、徳川軍は混乱して総崩れとなり、大敗した。

その後、真田昌幸は徳川家康に対抗するために豊臣秀吉に属したが、徳川家康と豊臣秀吉が和睦したので、豊臣秀吉は真田昌幸に停戦を命じ、真田昌幸を徳川家康の与力としたので、嫡男・真田信之(真田信幸)は徳川家康に出仕することになる。

このとき、第1次上田城の戦いで真田昌幸に大敗した徳川家康は、真田昌幸の知略を恐れ、婚姻政策で味方に取り込むため、重臣・本多忠勝の長女・小松姫を養女とした後、真田昌幸の嫡男・真田信之(真田信幸)に嫁がせた。

なお、小松姫は徳川家康の養女ではなく、徳川秀忠の養女だったという説もある。

また、小松姫と真田信之(真田信幸)が結婚した時期は不明だが、通説の天正14年(1586年)に結婚したとすると、小松姫は数え年で14歳、真田信之(真田信幸)は数え年で21歳となる。

■小松姫が結婚した逸話1
徳川家康が娘を嫡男・真田信之(真田信幸)に嫁がせたいと申し込んできたので、真田昌幸はたいそう喜んでいた。

しかし、その後、徳川家の娘ではなく、徳川家の重臣・本多忠勝の長女・小松姫を嫡男・真田信之(真田信幸)に嫁がせるという話になってので、真田昌幸は機嫌を悪くした。

困った徳川家康が豊臣秀吉に相談すると、豊臣秀吉は本多忠勝の長女・小松姫を徳川家康の養女にしてから、真田信之(真田信幸)に嫁がせよと助言した。

徳川家康は豊臣秀吉の助言に従い、本多忠勝の長女・小松姫を養女に迎えてから嫡男・真田信之(真田信幸)に嫁がせたいと申し出ると、真田昌幸はたいそう喜び、結婚を承諾した。

■小松姫が結婚した逸話2
重臣・本多忠勝の長女・小松姫を養女にした徳川家康は、小松姫自身に夫を決めさせることにして、正室を持たない大名を大広間に集めた。

大広間に集まった諸大名は、畳に頭を付けてひれ伏していると、小松姫は諸大名のマゲを掴んで頭を上げさせ、諸大名の面吟味を行った。

小松姫は徳川家康の養女なので、諸大名はマゲを捕まれても文句を言わなかったが、1人だけ、小松姫を叱責する者が居た。それが、真田信之(真田信幸)である。

小松姫が真田信之(真田信幸)のマゲを掴むと、真田信之(真田信幸)は「無礼な女郎」と叱咤し、鉄扇で小松姫の面をはたいた。

すると、小松姫は真田信之(真田信幸)の気骨に感動し、「我が夫として傅く(かしづく)のは真田しかいない」と言い、真田信之(真田信幸)の妻となることを決めた。

■小松姫が結婚した逸話3
真田昌幸と徳川家康は対立しており、その間を取り持ったのが、豊臣秀吉であった。小松姫と真田信之(真田信幸)の結婚を取り持ったのも、豊臣秀吉と言われる。

小松姫の菩薩寺には、京都において太閤殿下の御媒にて真田信之(真田信幸)へのご縁談あり、と伝わっている。

■小松姫が真田信之(真田信幸)と結婚した逸話4
徳川家康から縁談の話があり、父・真田昌幸と嫡男・真田信之(真田信幸)は話し合った。

真田信之(真田信幸)は「徳川家康の養女と結婚せよと申すのですか?再び、徳川家康と争うことになったら、どうするのですか?そうなれば、私は徳川に味方します」と告げると、父・真田昌幸は「それも良かろう」と答えた。

■沼田の民が小松姫を歓迎する逸話
小松姫が沼田城の城主・真田信之(真田信幸)に輿入れしたとき、沼田の民は沼田領の山林で親切に小松姫を歓迎した。小松姫はこの歓迎に喜び、後日、沼田の民に山林を与えた。

山林を拝領した沼田の民は小松姫に感謝し、小松姫の死後、山林から伐採した木を使って、正覚寺にある小松姫の墓の横に御霊屋を建てた、と伝わる。

■夫・真田信之(真田信幸)が沼田城主になる
豊臣秀吉による小田原征伐(北条征伐)の後、豊臣秀吉は関東八州を徳川家康に与え、徳川家康に属していた大名も、徳川家康に伴って関東へと転封した。

信濃国小県郡(長野県上田市)の大名・真田昌幸は徳川家康の与力だったが、信濃で唯一、本領を安堵されて信濃国小県郡に残った。

このため、徳川家康の関東入部にともない、徳川家康の支配下から外れ、豊臣秀吉の支配下になった。

このとき、徳川家康は豊臣秀吉に、上野国沼田領(群馬県沼田市)を真田信之(真田信幸)に与えるように願い出た。

(注釈:上野国沼田領は以前は真田昌幸の領土だったが、北条征伐前に豊臣秀吉の仲裁により、真田昌幸は北条氏に上野国沼田領の4分の3を明け渡し、信濃国に代替地を得ていた。沼田領は北条征伐で空白地となっていた。)

この結果、真田信之(真田信幸)は上野国沼田領(群馬県沼田市)を拝領し、沼田城の城主となり、関東八州を支配する徳川家康の支配下に入った。

こうして、真田信之(真田信幸)は沼田領の経営は父・真田昌幸から独立するが、軍役については父・真田昌幸と一括して命じられる半独立の大名となった。

■小松姫と犬伏の別れ
豊臣秀吉の死後、会津(福島県)の上杉景勝が石田三成と共謀して、戦の準備を始めたため、豊臣家の筆頭・徳川家康は、豊臣家の名義で会津討伐(上杉討伐)を発動した。

真田親子は会津討伐(上杉討伐)の先発隊に合流するため、関東へと兵を進めていたが、真田昌幸は慶長5年(1600年)7月21日、下野国犬伏(栃木県佐野市犬伏町)で石田三成方から書状を受け取り、石田三成が大阪で挙兵した事を知る。

驚いた真田昌幸は、下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)に在陣していた嫡男・真田信之(真田信幸)を犬伏に呼び戻した。

そして、父・真田昌幸は、嫡男・真田信之(真田信幸)と次男・真田幸村(真田信繁)を連れて、犬伏にある薬師堂へ入り、3人だけで今後の対応を話し合った。世に言う「犬伏会議」である。

一説によると、嫡男・真田信之(真田信幸)と次男・真田幸村(真田信繁)は、刀に手を掛ける程の激論に及んだという。

しかし、最終的には、嫡男・真田信之(真田信幸)は徳川家康の養女を正室にしていたことから、東軍の徳川家康に属し、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は石田三成に近かった事から、西軍・石田三成に属することにした。世に言う「犬伏の別れ」である。

(注釈:真田家の「犬伏の別れ」自体が後世の創作で、真田親子は以前から、このようなことになった時の対処法を決めており、予定通りに親子は敵味方に別れたという説もある。)

親子といえど、東西に別れる事が決まった時点で、敵同士である。講談にあるような今生の別れは無かったらしい。真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は徳川軍の追撃を恐れて、その日のうちに陣を引き払い、早々と犬伏を立ち去った。

真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は追っ手を避けるため、最短距離の中山道は通らず、吾妻街道を通り、上野国沼田領(群馬県沼田市)を経由して居城・上田城を目指した。

真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は、その途中で嫡男・真田信之(真田信幸)の居城・沼田城に立ち寄った。

真田昌幸らは、敵を警戒しながら、夜を徹して進軍したので、疲労困憊しており、真田昌幸は沼田城で休息しようとしたのである。

(注釈:真田昌幸は沼田城を乗っ取るために、沼田城へ立ち寄ったいう説もある。)

このとき、沼田城の留守を預かる小松姫は、夫・真田信之(真田信幸)から手紙で、犬伏の別れの結果の報告を受けていたらしい。

別説では、小松姫は真田昌幸の陣中に夫・真田信之(真田信幸)がいないことから、敵味方に分かれたことを悟ったとも伝わる。

深夜に沼田に着いた真田昌幸は、沼田城に開門を求めたが、沼田城を守る小松姫は開門しなかったので、真田昌幸の家臣は怒って城門を打ち破ろうとした。

すると、甲冑を着た小松姫が城壁に飛び出て、「父上といえど、今は敵。城主の留守に押しかけるとは何事ぞ。城内に入ろうとする者は1人残らず討ち取ってみせる」と叫んだ。

驚いた真田昌幸は「狼藉をするつもりはない。久しぶりに孫の顔を見ようと思って立ち寄ったまでじゃ」と釈明すると、小松姫は侍女を派遣して、真田昌幸らを沼田城の近くにある正覚寺へと案内し、正覚寺でもてなした。

その後、服装を改めた小松姫が、孫を連れて正覚寺を訪れたので、真田昌幸は沼田城へ入る口実を失い、正覚寺で休息を取った。このとき、小松姫は武装した兵に正覚寺を包囲させていたとも伝わる。

翌朝、小松姫の対応に怒った次男・真田幸村(真田信繁)は、沼田の町に火を掛けましょうと提案したが、父・真田昌幸はそれを制して「さすが本田の娘ぞ。これで真田の血脈も安泰じゃ」と言い、正覚寺を後にして、居城・上田城へと戻った。

その後、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は、上田城へと攻め寄せた徳川秀忠の軍勢を撃破した(第2次上田城の戦い)。

関ヶ原の合戦の後、小松姫が沼田城で真田昌幸を追い返した事を聞いた徳川家康は、「さすがは本田の娘である」と、大いに感心したという。

■関ヶ原の合戦-小松姫の活躍
関ヶ原の合戦のとき、真田家は犬伏の別れにより、東西に別れた。

沼田城を守っていた小松姫は、真田家が東西に別れたことを知ると、家臣の中から裏切る者も出るかもしれないと思って一計を案じ、真田一族や家臣の妻子をねぎらうため、沼田城に招いて宴会を開いた。

しかし、宴会とういうのは口実で、小松姫は集めた妻子に帰ることを禁じ、そのまま人質とした。

関ヶ原の合戦のとき、真田信之(真田信幸)は真田討伐を命じられた徳川秀忠の先鋒として、上田城の真田昌幸・真田幸村(真田信繁)と対立した(第2次上田城の戦い)。

しかし、小松姫が機転を利かせて家臣の妻子を人質にとったおかげで、真田信之(真田信幸)の家臣から裏切り者は出なかった。

■関ヶ原の合戦の後の小松姫
関ヶ原の合戦の後、東軍に属した真田信之(真田信幸)は、徳川家康から沼田城の本領を安堵され、父・真田昌幸の領土だった信濃国小県郡も拝領した。

その一方で、徳川家康は、西軍に属した真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)に死罪を申しつけた。一説によると、徳川家康よりも、第2次上田城の戦いで大敗した徳川秀忠が、激怒していたらしい。

真田信之(真田信幸)は「ならば、私は罪人の子にございます。真田昌幸を誅する前に、私に切腹を命じてください」と嘆願する。

小松姫の父・本多忠勝が助命嘆願活動をしたこともあり、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は死罪を免れ、高野山へと流された。

真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は高野山へと流されたが、高野山は女人禁制だったため、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は許可を得て高野山の麓にある九度山へと移って、九度山で側室を作った。

■真田信幸が真田信之に改名
関ヶ原の合戦の後、徳川家康は、2度に渡り徳川軍を退けた上田城を徹底的に破壊した。真田信之(真田信幸)は、徳川家康にはばかって上田城を再建しなかった。

真田信之(真田信幸)は徳川家にかなり気を遣っていたらしい。

また、真田信之(真田信幸)は、関が原の合戦まで父・真田昌幸から「幸」を引き継いで真田信幸と名乗っていたが、父・真田昌幸が九度山に流されて罪人となったため、徳川家康にはばかって「真田信之」へと改名した。

しかし、真田信之へ改名したのは、江戸幕府や徳川家康に対する配慮であり、その後も幕府向け意外の書面には「真田信幸」と署名することもあった。

■小松姫が義父・真田昌幸を支援
九度山へ送られた義父・真田昌幸は、九度山で打倒・徳川家康を倒すための策を練り続けたというのは後世の創作で、史実の真田昌幸は借金に苦しんでおり、金策に奔走しながら、恩赦が下るのを待ち続けた。

小松姫はことある事に、九度山で没落した生活を送っている義父・真田昌幸に信濃国の名産品や金子を送って支援した。

■大坂冬の陣と小松姫
余り知られていないが、真田信之(真田信幸)はたびたび病気に悩まされていた。上杉討伐(会津討伐)の前にも、京都に詰めていた真田信之(真田信幸)は病気で沼田城へと帰国している。

真田信之(真田信幸)の病名は不明だが、一説によると、真田信之(真田信幸)は「瘧(おこり)」という悪寒や震えを発する病気に悩まされていたという。

徳川家康が「大坂冬の陣」を発動した時も、真田信之(真田信幸)は病気で床に伏していた。江戸幕府に忠孝を示さなければならない時なのに、真田信之(真田信幸)が出陣できないのでは、真田家の名折れである。

そこで、小松姫が根回しした結果、真田信之(真田信幸)への出陣要請に対しては、「貴殿がご病気の場合は、息子・川内守殿(真田信吉)に人数を付けて早々に出府されよ」と但し書きが添えられたため、真田家は面目を保った。

こうして、嫡男・真田信吉と次男・真田信政が大坂冬の陣に出陣することになった。小松姫は、真田家の重臣・矢沢頼幸に「何事にも、くれぐれに気をつけるように」と申しつけ、嫡男・真田信吉と次男・真田信政を大坂冬の陣に送り出した。

また、小松姫の根回ししていたので、嫡男・真田信吉と次男・真田信政は大坂冬の陣のとき、小松姫の弟・本多忠朝の部隊に編入された。

■大坂の陣と小松姫の逸話
大坂の陣に参加していた嫡男・真田信吉と次男・真田信政が無事に帰国すると、小松姫は2人に向かって「2人も居るのだから、どちらかが討ち死にすれば、真田家も忠義を示せたのに」と言い放った。

■小松姫の逸話-松代藩へ転封した理由
江戸時代、真田信之(真田信幸)が信州・上田藩(長野県上田市)6万石の藩主であった時のこと。

上田(長野県上田市)は、北陸の大名が江戸に向かうときに通る北国街道の要所にあり、北陸の諸大名は江戸に向かう時に上田を通行していた。

そこで、小松姫は家臣に命じて、諸大名が通行するのを邪魔すると、「わらわは、将軍家の養女である。将軍家に送る物をわらわがこの地で頂戴しても差し支えあるまい」と言い、諸大名から将軍家の献上品を没収した。

そして、小松姫は「この手が将軍家への献上品を頂いた」と書いた手形を諸大名に渡し、将軍・徳川秀忠に届けさせた。

これに困ったのが、北国街道を通行していた加賀藩の前田家である。天下の前田家といえど、小松姫は将軍家の養女なので、成敗することも出来ず、仕方なく、将軍家へ訴えた。

訴えを受けた将軍家は小松姫を咎めたのだが、そのたびに小松姫は「親の物は子の物ぞ」と答えたので、将軍家も困り果て、ついには、上田藩の真田信之(真田信幸)に4万石を加増して、北国街道から外れた松代藩10万石へと転封した。

ただし、真田信之(真田信幸)が松代藩10万石へと転封になったのは元和8年(1622年)の事である。小松姫は元和6年(1620年)2月に死んでおり、松代藩への転封の理由は小松姫と関係無いという説もある。

■小松姫と真田信之(真田信幸)の夫婦仲
真田信之(真田信幸)と小松姫は、非常に仲睦まじい夫婦だったが、小松姫は子供が出来なかったため、真田信之(真田信幸)に側室を持つように勧めたと伝わる。

嫡男・真田信吉は真田信之(真田信幸)と側室の間に生まれた別腹だが、長男以降の真田信政・真田信重・真田まん・真田まさの4人は小松姫の実子である。

小松姫は晩年、真田信之(真田信幸)に側室を持つように勧めたが、真田信之(真田信幸)は側室を持たなかった。小松姫と真田信之(真田信幸)は、かなり夫婦仲が良かったと伝わる。

■小松姫が死去
小松姫は元和5年(1619年)ごろから病気で床に伏すようになり、元和6年(1620年)2月に療養のために草津温泉へ向かう途中に武蔵国鴻巣(埼玉県鴻巣市)で死去した。小松姫は47歳だった。

真田一族は3度も徳川家康を苦しめており、大坂の陣では弟・真田幸村(真田信繁)が派手に活躍したので、真田家は色々な意味で厳しい立場にあり、真田信之(真田信幸)の真田家が生き延びられてこられたのは小松姫の後ろ盾があったからだと言われる。

小松姫が急死したことを聞いた真田信之(真田信幸)は、「わが家の灯火(ともしび)が消えたり」と言って悲しんだという。

武蔵国鴻巣(埼玉県鴻巣市)で死んだ小松姫は、埼玉県鴻巣市の勝願寺、群馬県沼田市の正覚寺、長野県上田市の芳泉寺に分骨された。

病気に悩まされていた夫・真田信之(真田信幸)は、小松姫の死後は病気に悩まされることもなくなり、92歳まで藩主を続け、93歳まで生きた。

■小松姫の死後-真田騒動
小松姫の死後、夫・真田信之(真田信幸)は、江戸幕府から上田藩(長野県上田市)から松代藩(長野県長野市松代町)の転封を命じられ、松代藩主となる。上野国の沼田領(群馬県沼田市)は、飛び領地としてそのまま真田家の領土となった。

その後、嫡男・真田信吉(母親は側室)が死去死んだため、真田信之(真田信幸)は次男・真田信政(母親は小松姫)に後を継がせようとした。

しかし、次男・真田信政は才能が無かったため、江戸幕府から隠居を留意されていたらしく、真田信之(真田信幸)は92歳まで松代藩の藩主を務めた。

真田信之(真田信幸)は92歳になって、ようやく次男・真田信政に家督を譲ることができ、次男・真田信政は松代藩の2代目藩主となった。

ところが、次男・真田信政は家督相続から6ヶ月後に死去してしまう。

このため、真田信之(真田信幸)は、松代藩の2代目藩主・真田信政の嫡男・真田右衛門(真田信就)に相続させようと考え、幕府に申請した。

これに異を唱えたのが、真田信之(真田信幸)の嫡男・真田信吉の次男・真田信利である。沼田城の城主・真田信利は、松代藩の3代目藩主の座を奪うため、江戸幕府に工作を開始たのである。これが真田家のお家騒動「真田騒動」である。

その結果、江戸幕府の老中は次男・真田信利に相続させるべきと真田家に意見したが、真田信之(真田信幸)は意見を受け入れず、再度、真田信政の嫡男・真田右衛門(真田信就)に家督を相続させたといと申し入れた。

松代藩内でも沼田城の城主・真田信利を藩主に擁立しようとする動きが出てきたため、松代藩は混乱したが、江戸幕府が真田信之(真田信幸)の意向を受け入れて許可したため、真田信政の長男・真田右衛門(真田信就)が松代藩の3代目藩主に就任した。

こうして、真田家のお家騒動「真田騒動」は解決したが、真田信之(真田信幸)は真田騒動での心労が祟ったのか、真田騒動の翌年の万治元年(1658年)8月に床に伏し、万治元年(1658年)10月17日に93歳で死去した。

一方、真田騒動で破れた沼田城の城主・真田信利は、江戸幕府の意向により、沼田藩(群馬県沼田市)として独立することになった。

沼田藩は3万石であったが、藩主・真田信利は、松代藩10万石に対抗するため、極悪非道の拡大検地を行い、沼田藩を14万石と申請した。

税金は申請した14万石にかけられるため、実質3万石の沼田藩は14万石分の税金が掛けられ、沼田の民は重税に苦しんだ。悪名高い真田税である。

延宝8年(1680年)、沼田藩の藩主・真田信利は両国橋改修の木材の調達を請け負ったが、台風の影響で木材が流され、納期に間に合わなかった。

この年、不満を持つ農民の代表者・杉木茂左衛門(後に磔茂左衛門と呼ばれる)が江戸幕府に越訴する。

杉木茂左衛門は直訴の罪で磔の刑で処刑されるが、江戸幕府には以前から沼田藩の悪評が届いていたらしく、江戸幕府は納期遅滞などを理由に沼田藩を改易した。

一方、松代藩の真田家は男系が途絶えて養子を迎えながらも幕末まで続き、10代目藩主・真田幸民の時(明治2年)に版籍奉還を迎え、10代目藩主・真田幸民は藩知事となった。

そして、明治4年(1871年)の廃藩置県で松代藩は松代県となり、藩知事の真田幸民は職を解かれ、真田家の支配は終わった。その後、松代県は長野県に吸収されて消滅した。

真田昌幸や真田幸村(真田信繁)の生涯については「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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