実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編です。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■真田幸村(真田信繁)のあらすじとネタバレ
真田幸村(真田信繁)は、永禄10年(1567年)に信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族・真田昌幸(武藤喜兵衛)の次男として生まれた。母親は真田昌幸の正室・山手殿である。

[注釈:真田幸村の誕生日ついては明確な記録は無く、永禄10年(1567年)に生まれたという説と永禄13年(1570年)に生まれたという説があり、誕生日は確定していない。]

真田幸村は本名「真田信繁」である。幼名を「弁丸」と言い、元服して「源次郎」と名乗った。

父・真田昌幸(武藤喜兵衛)が武藤家の養子入っていたことから、真田幸村(真田信繁)も生まれた時は「武藤」姓であったが、その後、父・真田昌幸(武藤喜兵衛)が真田家に復帰したため、真田幸村も「真田」姓へと変わった。

真田幸村という名前につては諸説があり、史実で「真田幸村」を名乗っていたかどうかは分からない。

通説では、江戸時代の中期に成立した軍記「難波戦記」に真田幸村という名前が初めて登場し、以降、軍記や講談で真田幸村という名前が広まり、そのまま定着したということになっている。

さて、真田幸村(真田信繁)の生涯を理解するには、祖父の真田幸隆(真田幸綱)から知っておかなければならないので、祖父の真田幸隆(真田幸綱)の時代から、真田家について簡単なあらすじを紹介する。

■祖父・真田幸隆のあらすじとネタバレ
真田幸村(真田信繁)の祖父・真田幸隆(真田幸綱)は、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を支配する豪族で、真田郷を拠点としたことから、真田を名乗るようになった(初代真田氏)。

しかし、天文10年(1541年)、甲斐国(山梨県)の大名・武田信虎(武田信玄の父)と信濃北部(長野県)の豪族・村上義清と信濃南部の豪族・諏訪頼重と三氏連合に攻められて領土を失い、祖父・真田幸隆(真田幸綱)は隣国・上野国(群馬県)へと逃れた(海野平の戦い)。

その後、甲斐国(山梨県)の武田信玄が父・武田信虎を追放して武田家の当主となり、信濃侵攻を本格化させると、上野国(群馬県)に逃れていた祖父・真田幸隆(真田幸綱)は武田信玄の家臣となった。

そして、祖父・真田幸隆(真田幸綱)は、武田信玄が落とせなかった戸石城を乗っ取るなどの活躍をして、旧領土・信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を回復した。

このとき、祖父・真田幸隆(真田幸綱)は武田信玄の要請に応じ、三男・真田昌幸(真田幸村の父)と四男・真田信尹を人質として武田信玄の元に送った。

こうして、祖父・真田幸隆(真田幸綱)は新参者でありながら、武田信玄の信頼を得て武田家での地位を確立すると、上野(群馬県)侵攻などでも活躍し、上野(群馬県)西部の吾妻郡の支配を任されるようになった。

祖父・真田幸隆(真田幸綱)は永禄10年(1567年)に病気になった事を切っ掛けに、家督を嫡男・真田信綱に譲って隠居した。

以降、隠居した祖父・真田幸隆(真田幸綱)は、武田信玄の作戦には加わらず、上野西部で上杉景勝への押さえとして活躍した。

■父・真田昌幸のあらすじ
父・真田昌幸は、祖父・真田幸隆(真田幸綱)の三男で、人質として武田信玄の元で過ごした。

人質となった真田昌幸は、武田信玄の寵愛を受け、武田信玄の側近の奥近習衆(小姓)に取り立てられ、武田信玄の目や耳となって活躍し、「我が両目のごとし」と評価された。

そして、真田昌幸は、武田信玄の母方の一族「武藤氏」の養子となり、武藤氏の家督を相続した。新参者の子が武田一族を継ぐというのは異例中の異例であり、真田昌幸は相当、武田信玄に気に入られていたようである。

その後、真田昌幸は武藤家時代に山手殿と結婚し、嫡男・真田信之(真田信幸)と次男・真田幸村(真田信繁)が生まれた。

さて、甲斐(山梨県)の大名・武田信玄は、足利義昭の第2次信長包囲網に参加し、西上作戦を開始して徳川家康の三河(愛知県東部)へと侵攻したが、武田信玄は西上作戦の途中で病死し、武田勝頼が家督を相続した。

武田信玄が死んだ翌年の天正2年(1574年)5月19日、祖父・真田幸隆(真田幸綱)は武田信玄の後を追うように死去した。

真田幸隆(真田幸綱)の死後、真田家の家督は嫡男・真田信綱が相続していたが、嫡男・真田信綱と次男・真田昌輝は「長篠の戦い」で戦死してしまう。

真田昌幸は三男だったうえ、武藤家を相続していたので、本来は嫡男・真田信綱の子・真田信興が真田家を継ぐのが筋だが、武田勝頼の命令により、武藤家を継いでいた三男・真田昌幸が真田家に復帰して真田家を相続した。

こうして、真田昌幸は真田家の当主になると、次男・真田幸村(真田信繁)を人質として武田勝頼の元に置き、居城の戸石城(長野県上田市)へと入った。

その後、武田勝頼は真田昌幸の活躍で上野(群馬県)で主導権を握ったが、駿河・遠江(静岡県)方面は徳川家康・北条氏直に攻め込まれ、劣勢に立たされた。

このようななか、徳川家康に抵抗していた武田家の高天神城(静岡県掛川市)が落城してしまう。武田勝頼は高天神城に援軍を送れず、高天神城を見殺しにしてしまったため、家臣や各地の豪族の信用を失った。

さらに、武田勝頼は新府城の普請を命じたため、家臣に負担が重くのしかかり、家臣の不満が増幅していた。

このようななか、信濃(長野県)の豪族で武田家の一門・木曾義昌が、重い負担に嫌気を差し、織田信長に寝返ったのである。織田信長は木曾義昌の寝返りを受け、信濃(長野県)へと侵攻する。

武田勝頼は織田信長を撃退するため、信濃(長野県)へと兵を進めたが、江尻城(静岡県静岡市清水区江尻町)の城主・穴山信君(母親は武田信玄の姉)までもが徳川家康に寝返ったという知らせが入り、撤退を余儀なくされた。

そこで、真田昌幸は、自分が支配している上野国西部の要害・岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)へと退き、国境を封鎖して織田信長に抵抗する策を提案した。

武田勝頼は真田昌幸の策を受け入れたので、真田昌幸は一足先に岩櫃城へ戻って武田勝頼を受け入れる準備を開始した。

ところが、真田昌幸が岩櫃城へと向かった後、武田家の重臣・小山田信茂が「真田昌幸は新参者なので信用できない」と言い、自分の居城・岩殿城へ入る事を薦めたので、武田勝頼は岩殿城に向かうことになった。

こうして、武田勝頼は新府城に火を放ち、裏切った家臣の人質を殺して岩殿城へ向かった。この時に、真田昌幸の人質だった真田幸村(真田信繁)らも解放され、真田昌幸の居城・戸石城(長野県上田市上野)へと戻った。

さて、武田勝頼は岩殿城へ向かったが、岩殿城の城主・小山田信茂が織田信長に下ったので、武田勝頼は岩殿城へ入れなかった。

そこで、武田勝頼は天目山の棲雲寺を目指したが、織田軍・滝川一益に追われて一戦に及び、最期は自害し、武田家は滅亡した。(武田家の滅亡)。

さて、武田家の滅亡後、旧武田領のうち甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の3国が織田信長の支配下となった。真田昌幸は織田信長に下り、本領の一部を安堵された。

ところが、武田家の滅亡から3ヶ月後に、明智光秀が謀反(本能寺の変)を起こし、織田信長が死亡してしまったのである。

このため、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の旧武田領は空白地となり、三河(愛知県東部)の徳川家康、相模(神奈川県)の北条氏政、越後(新潟県)の上杉景勝の3氏が旧武田領へと侵攻を開始する(天正壬午の乱)。

すると、信濃(長野県)の豪族・真田昌幸は、越後(新潟県)の上杉景勝に帰属し、織田信長の死による混乱に乗じて、上野(群馬県)の吾妻郡と沼田を領土化した。

その後、真田昌幸は信濃(長野県)東部へと侵攻してきた北条氏政に帰属したが、北条氏政は上野(群馬県)全土の領土化を公言していたので、真田昌幸は北条氏政から上野国の沼田領を守るため、甲斐(山梨県)へ進行中の徳川家康に帰属して、北条氏政に抵抗した。

ところが、徳川家康が北条氏政と和睦する。

このとき、信濃(長野県)と甲斐(山梨県)は徳川家康の領土とし、上野(群馬県)は北条氏政の領土とする事が決められ、領土交換が行われた。

上野(群馬県)の吾妻・沼田を支配していた真田昌幸は、徳川家康に帰属していたので、この領土交換に巻き込まれた。

真田昌幸は徳川家康から吾妻・沼田を北条氏政へ引き渡すように求められたが、真田昌幸は代替地を得ていない事を理由に吾妻・沼田の引き渡しを拒否した(沼田領土問題)。

代替地を用意できない徳川家康は、信濃北部を支配する上杉景勝との対決を控えていたこともあり、沼田領土問題を黙殺した。

ところが、徳川家康は「小牧・長久手の戦い」で、織田信長の後継者となった豊臣秀吉と対立すると、事情が一変する。

徳川家康は、豊臣秀吉に対抗するため、北条氏政との同盟を強化して後方の安全を確保する必要に迫られたので、軍事力を背景に、真田昌幸に吾妻・沼田領の引き渡しを命じた。

しかし、真田昌幸は「沼田は徳川家康から拝領した領地では無く、自ら切り取った領地である。徳川家康に忠義を尽くした恩賞は未だに無く、代替地も得ていない。にもかかわらず、沼田を北条に渡せというのであれば、これ以上、徳川家康に忠義を尽くす必要は無い」と拒否し、徳川家康に手切れを宣告したのである。

これに怒った徳川家康は、鳥居元忠ら7000の軍勢を、真田昌幸の居城・上田城へ差し向けた。

対する真田昌幸は越後(新潟県)の上杉景勝と帰属交渉を開始する。交渉は難航したが、真田昌幸は次男・真田幸村(真田信繁)を人質に差し出すことにより、上杉景勝への帰属が認められた。

こうして、上杉景勝からの後詰めを得て背後の安全を確保した真田昌幸は、上田城へ攻め寄せた徳川軍を挑発して二の丸へ引き入れると、一気に反撃に転じ、わずか手勢2000で鳥居元忠ら7000の大軍を撃退したのである(第1次上田城の戦い)。

このころ、天下統一に向けて動き出していた豊臣秀吉が信濃(長野県)へ調略の手を伸ばしていたので、真田昌幸は次なる徳川軍の襲来に備えて、上杉景勝から豊臣秀吉へと鞍替えして、豊臣秀吉に帰属した。

(このとき、上杉景勝は豊臣秀吉と同盟を結んでいた。豊臣秀吉は徳川家康と対立していた。)

その後、豊臣秀吉は、徳川家康を上洛させる方針に転換し、あの手この手を使って徳川家康は上洛させようとしたが、徳川家康は上洛しなかったので、豊臣秀吉は生母・大政所を実質的な人質として徳川家康の元に送るという荒技に出た。

流石の徳川家康も豊臣秀吉の上洛要請を無視できず、徳川家康は上洛して豊臣秀吉に臣としての礼を取ったので、豊臣秀吉は東国を徳川家康に任せ、真田昌幸を徳川家康の与力とした。

すると、徳川家康は、重臣・本多忠勝の娘・小松姫を養女にしてから、真田昌幸の嫡男・真田信之(真田信幸)と結婚させ、嫡男・真田信之(真田信幸)を家臣に組み込んだ。

(注釈:小松姫の生涯は「小松姫の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

一方、徳川家康を上洛させることに成功して東の安全を確保した豊臣秀吉は、九州征伐を開始し、薩摩(鹿児島県)の島津義久を下して西日本を統一した。

豊臣秀吉は天下の大半を手中に収めていたが、未だに相模(神奈川県)の北条氏政と東北の伊達政宗が豊臣秀吉に下っていなかった。

九州征伐から凱旋した豊臣秀吉は、北条家の当主・北条氏直か前当主・北条氏政を上洛させるため、こじれていた沼田領土問題に介入し、北条氏直に有利なように「沼田の3分の2を沼田城に付けて北条氏直の領土し、沼田の3分の1を名胡桃城に付けて真田昌幸の領土どする」と裁定した。

北条氏直はあくまでも沼田全土の支配を望んでいたので、豊臣秀吉の裁定には不満だったが、これに逆らえば豊臣秀吉と戦になるため、豊臣秀吉の裁定を受け入れ、沼田城と沼田3分の2を受け取り、前当主・北条氏政の上洛を約束した。

ところが、沼田の引き渡しから3ヶ月後、沼田城の城主となった北条家の猪俣邦憲が、突如として、真田家の名胡桃城を攻め落としたのである(名胡桃城事件)。

前当主・北条氏政は上洛を約束していたが、未だに上洛していなかったこもあり、豊臣秀吉は名胡桃城事件に激怒し、私闘を禁じた「惣無事令」違反として小田原征伐(北条征伐)を発動したのである。

豊臣秀吉の元に人質として送られていた次男・真田幸村(真田信繁)は、小田原征伐(北条征伐)を切っ掛けに真田家に戻り、小田原征伐(北条征伐)に参加した。

真田昌幸と嫡男・真田信之(真田信幸)は、徳川家康の与力という立場だったが、徳川家康の部隊には組み込まれず、前田利家・上杉景勝らの北陸連合軍に組み込まれた。

真田昌幸らは、北陸連合軍の先手を勤め、碓氷峠を超えて信濃(長野県)から上野(群馬県)へと侵攻し、北条家の城を落としていき、最期は映画「のぼうの城」で有名になった石田三成による忍城(埼玉県行田市)の水攻めに加わった。

その後、北条氏直が小田原城を開城して降伏すると、松田憲秀・大道寺政繁・北条氏政・北条氏照は切腹となった。北条氏直は徳川家康の娘婿だったので、徳川家康の助命嘆願により、命を助けられたが、高野山へと追放され、北条氏(後北条氏)は滅んだ。

小田原征伐(北条征伐)の後、豊臣秀吉は、徳川家康に関東八州を与えた。信濃(長野県)は徳川家康の支配下だったので、徳川家康の関東転封に伴って信濃(長野県)の大名・豪族も関東に転封された。

しかし、真田昌幸は信濃(長野県)に置いて唯一、本領を安堵され、信濃(長野県)に残った。

また、上野(群馬県)の沼田領については、徳川家康が豊臣秀吉に強く要請したらしく、豊臣秀吉は徳川家康を通じて嫡男・真田信之(真田信幸)に沼田領を与えた。

沼田を拝領した嫡男・真田信之(真田信幸)は、沼田の支配は父・真田昌幸から完全に独立していたが、軍役は父・真田昌幸と一緒に扱われたので、完全な独立大名ではなく、半独立の大名となった。

(注釈:一説によると、この段階で嫡男・真田信之は別家扱いとなり、父・真田昌幸の家督を相続する権利を失い、父・真田昌幸の家督を相続する権利は次男・真田幸村に移るらしい。)

こうして、信濃(長野県)は徳川家康の支配下から離れ、豊臣秀吉の支配下に入ったので、信濃国に本領を安堵された父・真田昌幸は徳川家康の与力から外れて豊臣秀吉の支配下に入った。

一方、上野(群馬県)は関東を拝領した徳川家康の支配下になったので、沼田を拝領して半独立大名となった嫡男・真田信之(真田信幸)は、徳川家康の支配下に入った。

■真田幸村(真田信繁)の朝鮮出兵
さて、関東・東北の仕置きを終えて日本を統一した豊臣秀吉は、養子・豊臣秀次に関白の座を譲り、文禄元年(1592年)4月に朝鮮出兵を開始した。

真田昌幸と嫡男・真田信之(真田信幸)と次男・真田幸村(真田信繁)は、文禄元年(1592年)に1300人を率いて、朝鮮出兵の拠点である名護屋城に在陣し、日本軍の16番隊に配属された。

名護屋城は豊臣秀吉の御座所があるので、名護屋城に在陣していた真田昌幸らは、豊臣秀吉から相当、気に入られていたようである。

なかでも、次男・真田幸村(真田信繁)は、豊臣秀吉の馬廻衆として、豊臣秀吉が居る名護屋城の警備を担当したので、豊臣秀吉からの信頼は厚かったようである。

さて、朝鮮出兵(唐入り)は西日本の大名が中心になって行われたので、真田昌幸らや関東・東北勢は朝鮮半島に渡航することは無かった。

(注釈:真田昌幸の手勢1300のうち、700は名護屋に在陣し、500は朝鮮半島への渡航を命じられていたが、朝鮮半島へは渡航していないようである。)

さて、朝鮮半島へ渡った日本軍は快進撃で勝ち進み、李氏朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)や旧首都・平壌(ピョンヤン)を落城させたが、李氏朝鮮の救済に乗り出した明(中国)の大軍が駆けつけたので、戦線は膠着し、文禄2年(1593年)に日本軍と明軍(中国軍)の間で講話が成立して休戦に入った。

真田昌幸と嫡男・真田信之(真田信幸)と次男・真田幸村(真田信繁)は、朝鮮半島に渡らなかった代わりに、休戦中の文禄3年(1594年)の伏見城普請で1680人を負担し、近江国・朝妻まで木造を運搬している。

■真田幸村(真田信繁)が豊臣性を賜る
文禄3年(1594年)11月、真田信之(真田信幸)は従五位下・伊豆守に叙任され、豊臣性を賜り、真田幸村(真田信繁)も従五位下・左衛門佐に叙任され、豊臣性を賜った。

■真田幸村(真田信繁)が大谷吉継の娘と結婚
一説によると、真田幸村(真田信繁)は文禄3年(1594年)に大谷吉継の娘・竹林院と結婚した。真田幸村(真田信繁)が竹林院と結婚した時期や経緯は分からない。

■秀次事件-豊臣秀次は殺生関白
ところで、文禄2年(1593年)8月に豊臣秀吉の側室・茶々(淀殿)が豊臣秀頼を出産し、実子の居なかった豊臣秀吉に待望の実子が誕生するが、豊臣秀吉は養子・豊臣秀次に関白の座を譲っていた。

そこで、豊臣秀吉は、生まれたばかりの豊臣秀頼を豊臣秀次の娘と結婚させ、豊臣秀頼を豊臣秀次の後継者にしようとした。

ところが、文禄4年(1595年)7月3日、奉行の石田三成・増田長盛・前田玄以・富田知信の4人が、「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てている、という噂がある」と言い、関白・豊臣秀次に謀反の嫌疑を掛けたたのである。

関白・豊臣秀次は釈明したが、高野山へ追いやられ、文禄4年(1595年)7月15日に高野山で自刃した(秀次事件)。

(注釈:秀次事件のあらすじとネタバレは「秀次事件-豊臣秀次は殺生関白のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

■第2次朝鮮出兵(慶長の役)
さて、第1次朝鮮出兵(文禄の役)は講和を結んで休戦しており、交渉が続けられていたが、豊臣秀吉は自分の要求が明国(中国)に全く受け入れられていないことに激怒し、第2次朝鮮出兵(慶長の役)を発動する。

実は、講和交渉を担当していた小西行長は豊臣秀吉に「明国が降伏した」と報告していたので、豊臣秀吉は戦勝国として明国に7ヶ条を要求していたのだが、明国側の交渉担当者・沈惟敬(しんいけい)も明国に「豊臣秀吉が降伏した」と報告していたので、明国は戦勝国として豊臣秀吉との交渉を行っていたのである(欺瞞外交)。

こうして、豊臣秀吉の激怒により、第2次朝鮮出兵(慶長の役)が始まったが、第2次朝鮮出兵(慶長の役)の最中に豊臣秀吉が死去したため、2度にわたる朝鮮出兵(唐入り)は収束に向かい、天下は徳川家康の元へと転がり込むのであった。

真田幸村(真田信繁)の生涯-犬伏の別れと関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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