方広寺鐘銘事件のあらすじとネタバレ

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「実話・方広寺鐘銘事件のあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田昌幸と真田幸村-九度山の生活のあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■方広寺鐘銘事件の読み方
方広寺鐘銘事件は「ほうこうじ・しょうめい・じけん」と読みます。鐘銘(しょうめい)とは、釣り鐘にしるしてある銘文の事で、方広寺鐘銘事件とは、方広寺の鐘銘を巡る事件です。

■方広寺鐘銘事件の背景のあらすじとネタバレ

関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、慶長8年(1603年)2月に征夷大将軍に就任して武家の頂点に立ち、江戸幕府を開いた。

一方、豊臣秀頼は、関ヶ原の合戦の後も大阪城で莫大な資金と政治力を有し、依然として各地の大名に大きな影響力を持っていた。

さて、今までの通説では、江戸幕府を開いた徳川家康は豊臣家を潰そうとしていたと考えられていたが、最近は徳川家康は豊臣家と共存共栄を図ろうとしていたという「二重公儀体制」という新説が有力となっている。

「二重公儀体制」とは、徳川家康が東日本を支配し、豊臣秀頼が西日本を支配するという構造である。

「二重公儀体制」には反論もあるが、豊臣家は一定の影響力を持っていたので、徳川家康が豊臣秀頼に一定の配慮をしていた事は事実であり、両家は良好な関係にあったようである。

その証拠に、徳川家康は慶長8年(1603年)7月に豊臣秀吉の遺言を守り、徳川秀忠の娘・千姫(母親は浅井三姉妹の江)を豊臣秀頼に嫁がせている。千姫は7歳で、豊臣秀頼は10歳であった。

また、慶長9年(1604年)に行われた江戸城の普請では、徳川家康は豊臣家に普請を命じておらず、豊臣家は徳川家に協力して家臣を派遣し、江戸城普請を差配している。

ところで、徳川家康は江戸幕府を開いたが、豊臣家の家老だったこともあり、世間では、豊臣秀頼が成人したら関白に昇格して豊臣政権が復活する、と考えられていた。

しかし、徳川秀忠は慶長10年(1605年)2月に上洛を果たし、慶長10年(1605年)4月に徳川家康から征夷大将軍の座を譲り受けた。

徳川家康は徳川秀忠に将軍職を譲ることにより、将軍職(江戸幕府)が世襲制であることを天下に示したのである。

時を同じくして、豊臣秀頼も慶長10年(1605年)4月に右大臣へ就任して関白を目前にしていたが、豊臣家は徳川家康が政権を豊臣家に返上する意思がない事を知り、危機感を抱いた。

■方広寺鐘銘事件と二条城の会見
このようななか、慶長10年(1605年)5月、京都に滞在する徳川家康は、大阪城に居る豊臣秀頼に会見を求めたが、豊臣秀頼の母・淀殿(浅井三姉妹の長女・茶々)が「豊臣秀頼を殺して自害する」と言って会見を拒否した。

このとき、名目上は豊臣家が上だが、実質上は徳川家が上だった。しかし、豊臣秀頼が上洛して徳川家康と会見すると、豊臣家が徳川家の臣という事を世間に示すことになるため、淀殿(茶々)は会見を拒んだのである。

このため、徳川家康と豊臣秀頼の会見は実現しなかったが、徳川家康が豊臣家を気遣って、6男・松平忠輝を大阪城へ派遣したので、徳川家と豊臣家の友好な関係は保たれた。

このようななか、後水尾天皇は徳川家康に意向を無視されたことから、徳川家康に嫌気を刺して退位し、慶長16年(1611年)3月に徳川家康が推す後水尾天皇が新天皇に即位した(この年に九度山で蟄居していた真田幸村の父・真田昌幸が死去する)。

(注釈:こうした経緯から、徳川家康は徳川秀忠の5女・和子を後水尾天皇に嫁がせることに成功し、5女・和子は明正天皇の生母となる。)

さて、後水尾天皇の即位の儀式に参加するために上洛した徳川家康は、二条城で豊臣秀頼との面会を求めた。

淀殿は再び会見を拒否したが、豊臣家は前回も徳川家康の要請を断っていたことから、両家の関係悪化を危惧した豊臣恩顧の加藤清正や浅野幸長が豊臣家の説得にあたった。

このため、淀殿は会見の申し入れを受け入れ、1611年(慶長16年)3月28日に京都の二条城で豊臣秀頼と徳川家康との会見が実現した。

さて、豊臣秀頼が二条城へ来たということだけで、徳川家康の立場が豊臣秀頼よりも上という事が天下に示せるため、徳川家康はそれ以上の事は望んでいなかった。

このため、徳川家康は二条城へ来た豊臣秀頼を出迎え、豊臣秀頼に対等な礼を求めたが、豊臣秀頼はそれを固辞して先に礼を行った。すると、徳川家康は会見の時に先に盃を飲み干し、盃を豊臣秀頼に与えた。

先に礼を行うのは、目下が目上に行う行為なので、ここで徳川家と豊臣家の立場は完全に逆転した事を天下に知らしめることになった。

また、大阪では「徳川家康が豊臣秀頼を暗殺する」という噂が流れており、民衆は戦争の準備を始めていたが、二条城の会見が無事に終わったので庶民は戦争が回避されたことに安堵した。

ところが、豊臣秀頼と会見した徳川家康は、17歳になった豊臣秀頼が立派に成長していたので、脅威に感じたらしい。

それに対して、第2代将軍・徳川秀忠は、初陣で真田昌幸に惨敗し、関ヶ原の合戦にも遅刻したので、諸大名から尊敬されていなかった。

徳川家康は、このままでは豊臣秀頼に負けると考え、豊臣家との友好方針を一転させ、豊臣家を潰そうと考えるようになった。そして、徳川家康は方広寺鐘銘事件を切っ掛けに、豊臣征伐(大坂の陣)を開始することになる。

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■方広寺鐘銘事件のあらすじとネタバレ

京都府京都市東山区にある天台宗の方広寺は、豊臣秀吉が天正14年(1586年)に造営を開始し、文禄4年(1595年)に完成した寺である。

戦国時代に松永久秀が奈良・東大寺の大仏を焼き討ちしたので、豊臣秀吉は東大寺の大仏に変わる大仏を設置する目的で方広寺を建立し、方広寺に高さ18メートルの木製金漆塗坐像大仏を安置していた。

しかし、方広寺が完成した翌年の慶長元年(1596年)、近畿一円を襲った慶長大地震により、方広寺の大仏が倒壊してしまう。このとき、豊臣秀吉は「己の身も守れないのか」と激怒して、大仏に弓を放ったと伝わる。

その後、豊臣秀吉は慶長3年(1598年)8月18日、第2次朝鮮出兵(慶長の役)の最中に死去した。

そして、豊臣秀吉の死後、淀殿が神社仏閣の新築や再建を始める。通説によると、徳川家康が豊臣家の財力を削るために淀殿に神社仏閣の新築・再建を勧めたとされる。

淀君が豊臣秀吉の意思を引き継ぎ、銅製の大仏の鋳造を開始したが、慶長7年(1602年)11月、鋳物師の過失が原因で大仏から出火し、方広寺・大仏堂が焼失するとともに、銅製の大仏も溶けてしまう。

そこで、関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開いた徳川家康は「豊臣秀吉の供養になる」と言い、方広寺の再建を勧めたので、豊臣秀頼は慶長13年(1608年)10月に方広寺・大仏殿の再建を開始した。

徳川家康は諸大名に方広寺再建の支援を命じると共に、徳川家康自身も方広寺・大仏殿の再建を支援した。

通説では「徳川家康は豊臣家の財産を使い果たさせるため、淀殿に神社仏閣の再建を勧めた」と言われるが、徳川家康は方広寺再建を支援しており、豊臣家との共存路線を取っている。

また、神社仏閣の再建は現在の公共事業にあたるので、神社仏閣の再建によって景気が良くなり、豊臣家の名声は上がっていた。民衆からの評判はかなり良かった。

ところが、1611年(慶長16年)3月28日に京都・二条城で行われた徳川家康と豊臣秀頼の会見を境に、徳川家康は成長した豊臣秀頼に驚異を感じ、徳川家康は共存路線から、豊臣家を潰す路線へと変更したという。

さて、豊臣秀頼が再建した方広寺・大仏堂は慶長19年(1614年)に落成し、慶長19年(1614年)8月3日に開眼供養を迎えることになり、豊臣家は徳川家と打ち合わせを開始していた。

ところが、徳川家康の参謀で天台宗の高僧・南光坊天海が、方広寺の開眼供養について豊臣家に注文を付けた。

(注釈:南光坊天海は徳川家康の参謀で、江戸の配置などに関わった謎の高僧である。南光坊天海は謎の人物で、南光坊天海の正体は明智光秀だという俗説もある。)

天台宗の南光坊天海は、方広寺の開眼供養で天台宗を左班(上席)に置くことを要求したうえ、仁和寺門跡が供養会に出席することを強く非難し、要求に応じなければ出席しないと豊臣家に告げたのである。

また、徳川家康も豊臣家に、大仏開眼供養と堂供養を同時に行うのかを質問したので、豊臣家の片桐且元は「先に開眼供養を行い、その後に堂供養を行います。堂供養の左班(上席)は天台宗です」と回答したが、南光坊天海の仁和寺門跡を排除しろという要求については受け入れなかった。

その後、徳川家康は臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)を通じて、「開眼日を8月3日とし、豊臣秀吉の命日(17回忌)にあたる8月17日を供養日とするように」と意見したが、豊臣秀頼は「予定通りに8月3日に行いたい」と回答した。

このように、徳川家と豊臣家が方広寺の開眼供養について協議しているなか、突如として方広寺の鐘銘に「徳川家康を呪う言葉が含まれている」として、徳川家康が不快感を示した。

慶長19年(1614年)7月21日、徳川家康は「大仏の鐘銘には関東に不吉の語がある。また、上棟の日も吉日でない」と言い、豊臣秀頼に対して開眼供養を延期し、吉日を選んで実施するように要請した。

豊臣家の片桐且元は、改めて「予定通りに8月3日に行いたい」と回答したが、徳川家康は金地院崇伝を通じて、再度、大仏開眼供養・堂供養を延期して吉日に行うように求めた。

■方広寺鐘銘事件-徳川家康の不快感
さて、方広寺鐘銘事件の原因となる方広寺の鐘銘は、南禅寺の文英清韓が考えた漢文で、方広寺の由来の後に152文字からなる四言長詞が刻まれていた。

その方広寺の鐘銘に刻まれている「国家安康」「君臣豊楽」という文言に、徳川家康を呪い豊臣家の安泰を願う意味があるという疑惑が浮上し、徳川家康が不快感を示したのである。

「国家安康」は「家康」という諱を割って不吉であり、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家を呪う意味があるのだという。

一説によると、豊臣家に要求が一部受け入れられなかった南光坊天海が、徳川家康に「鐘銘の中に諱を犯すだけでなく、豊臣家のために徳川家を呪う意味が含まれている」と讒訴したらしい。

別説では、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)が方広寺鐘銘事件の黒幕とされるが、金地院崇伝は当初、徳川家康が方広寺の鐘銘を問題にしていることを知らなかったので、金地院崇伝が黒幕という可能性は否定されている。

いずれにしても、鐘銘に刻まれていた「国家安康」「君臣豊楽」という文言が徳川家康を呪詛して豊臣家の安泰を願う意味があるという疑惑が浮上し、徳川家康は鐘銘の漢文を考えた南禅寺の文英清韓を審問した。

すると、鐘文を考えた南禅寺の文英清韓は、「国家安康は、徳川家康の名乗り字を隠し題として入れた縁起語にございます」と釈明した。

そこで、徳川家康は京都の5山7僧や林羅山に鐘銘を解読させ、意見を問うと、5山7僧の意見は概ね、関東の呪詛までは言及しなかったが、徳川家康の諱を使用したことを批判する意見であった。

これは、学術的な見解というよりも、徳川家康の意向に沿った意見を出したようである。

鐘銘を解読した林羅山に至っては、鐘銘の「右僕射源朝臣家康」という文を「徳川家康を射る」という意味が込められていると解読している。

方広寺の鐘銘に関東を呪詛するまでの意味合いはなくても、徳川家康の諱を無断で使用したことは豊臣家の落ち度で有り、豊臣秀頼は片桐且元を駿府へ派遣し、弁明を試みた。

■方広寺鐘銘事件-徳川家康との対立

徳川家康の要請を受け入れて方広寺の開眼供養を延期した豊臣秀頼は、方広寺鐘銘事件を解決するため、駿府城に居る徳川家康の元に、片桐且元を派遣して弁明を試みた。

しかし、徳川家康は片桐且元に会わず、本多正純と金地院崇伝(こんちいんすうでん)に対応させた。(注釈:片桐且元が徳川家康に面会したという説もある。)

さて、方広寺鐘銘事件は、方広寺の鐘銘に関東を呪詛する言葉があるという事で始まったが、鐘文を考えた南禅寺の文英清韓が「国家安康は、徳川家康の名乗り字を隠し題として入れた縁起語にございます」と釈明しているので、徳川家康もそれ以上は追求できず、豊臣方の釈明を受け入れた。

しかし、江戸の徳川秀忠が不快感を示しているらしく、片桐且元は江戸との関係修復にあたることになる。

ところで、関ヶ原の合戦以降、豊臣家が頼りにしていた豊臣秀吉の恩顧武将が次々に死んだため、不安に駆られた豊臣家は牢人を大阪城に雇い入れており、以前から徳川家康は浪人雇い入れに不快感を示していた。

そこで、方広寺鐘銘事件については納得した徳川家康が、今度は豊臣家に牢人の雇い入れを注意したので、片桐且元はこの問題についても解決を迫られた。

困った豊臣家の片桐且元は、徳川家に反逆する意思はない事を誓う豊臣秀頼の誓紙を提出する事を提案したが、徳川家康に受け入れられなかった。

一方、大阪に居る淀君は、豊臣家の片桐且元が帰ってこないこともあり、独自に駿府城へ大蔵卿局と正栄尼を派遣していた。

徳川家康は片桐且元とは対面しなかったが、淀君が派遣した大蔵卿局と正栄尼とは対面し、大蔵卿局と正栄尼に「豊臣秀頼に異心が無い事は分っている。淀殿に安心するように伝えて欲しい」と告げた。

さて、「方広寺の鐘銘に徳川家康を呪う言葉が含まれている」という事で始まった方広寺鐘銘事件であったが、いつの間にか浪人問題に替わり、豊臣家の片桐且元は様々な問題に対応しなければならなかった。

結局、片桐且元は駿府に1ヶ月ほど滞在して方広寺鐘銘事件の解決に奔走したが、解決策は見つからず、改めて解決策を協議するため、大阪へと戻った。

そして、大阪へ戻った片桐且元は、豊臣秀頼に「豊臣秀頼が江戸へ参勤する」「淀殿を人質として江戸へ送る」「豊臣秀頼が大阪城を出て国替えを行う」という3案を提案した。

(注釈:この3案は、片桐且元が考えたとも、徳川家康から提示されたものとも言われている。)

しかし、淀殿は一足先に駿府城から戻ってきた大蔵卿局と正栄尼から、徳川家康は「豊臣秀頼に異心が無い事は分っている。淀殿に安心するように伝えて欲しい」と言っていたという報告を受けていたため、片桐且元の提案に激怒した。

このため、片桐且元が徳川家康に内通して豊臣家を陥れようとしているという疑惑が生まれ、豊臣家内部で片桐且元を暗殺する計画が浮上した。

実は、片桐且元は豊臣家の家老だったが、徳川家からも領土を拝領していたことから、豊臣家と徳川家に両属していたので、豊臣家は片桐且元を徳川家の内通者とみなして暗殺しようとしたようである。

暗殺を察知した片桐且元は、慶長19年(1614年)9月末に蟄居して自宅に閉じこもり、事の詳細を徳川家康に報告した。

さらに、片桐且元は、慶長19年(1614年)10月1日に大阪城を出て茨木城(大阪府茨木市)に入り、守りを固めた。

片桐且元から報告を受けた徳川家康は、徳川家と交渉に当っていた片桐且元を排除する行為を徳川家への宣戦布告と見なし、慶長19年(1614年)10月1日に豊臣秀頼征伐(大阪冬の陣)を発動する。

対する豊臣秀頼も徳川家康に片桐且元を追放したことを通告し、豊臣恩顧の諸大名に檄を飛ばすのであった。

大坂冬の陣-豊臣恩顧武将の対応のあらすじとネタバレ」へ続く。

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