大坂冬の陣-黒田長政・島津家久・福島正則・平野長泰らの対応

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「大坂冬の陣の格大名の対応についてあらすじとネタバレ」です。

このページは「方広寺鐘銘事件のあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■大坂冬の陣の諸大名の対応
関ヶ原の合戦の後、徳川家康は豊臣家と共存する方針をとっていたが、慶長16年(1611年)に徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見を切っ掛けに、豊臣家を潰す方向へ方針を転換した。

このようななか、徳川家康は慶長19年(1614年)7月21日、豊臣家が主催する方広寺の開眼供養・堂供養について「大仏の鐘銘には関東に不吉の語がある。また、上棟の日も吉でない」として不快感を示した。

豊臣家は家老・片桐且元を駿府城へ派遣して徳川家康に釈明をしたていたが、話はこじれにこじれた(方広寺鐘銘事件)。

その結果、豊臣家と徳川家は対立し、徳川家康は慶長10年(1605年)10月1日に豊臣征伐(大坂の陣)を発動した。

対する豊臣家も徳川家康との対決を決め、全国の諸大名・牢人に大阪城への集結を呼びかける。ここでは、有名な豊臣恩顧の大名の対応について紹介する。

■黒田長政と大坂冬の陣
黒田長政は、姫路城の城主・黒田勘兵衛(黒田如水)の嫡男として生まれた。

父・黒田勘兵衛(黒田如水)は、織田信長の播磨侵攻の時に、織田信長に下り、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となった。

以降、父・黒田勘兵衛(黒田如水)は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の軍師として活躍して、九州征伐の後、豊前(福岡県東部)6郡12万石を拝領し、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の天下統一に貢献した。

豊臣秀吉の死後、黒田長政は豊臣秀吉の養女・糸姫と離婚し、徳川家康の養女・栄姫を正室に迎え、徳川家康の縁者となった。

関ヶ原の戦いのとき、黒田長政は西軍の吉川広家や小早川秀秋を東軍へ寝返らせるなどして、東軍の活躍に大きく貢献し、筑前一国を拝領する。

関ヶ原の合戦の後、黒田長政は西軍に属していたキリシタンの明石全登(明石掃部)を家臣にした。

しかし、キリシタンの父・黒田如水(黒田勘兵衛)の死後、黒田長政がキリスト教を禁じたので、キリシタンの明石全登(明石掃部)は牢人となる。

一方、家臣・後藤又兵衛(後藤基次)は、藩主・黒田長政と仲が悪かったため、出奔し、黒田長政は「奉公構え」を申請して後藤又兵衛(後藤基次)が他家に仕官に仕官できないようにしたため、後藤又兵衛(後藤基次)も牢人となる。

その後、大坂冬の陣が勃発し、牢人となっていたキリシタンの明石全登(明石掃部)と後藤又兵衛(後藤基次)が豊臣秀頼に味方して大阪城に入る。

大阪牢人5人衆のうち、2人が黒田家の出身だったため、黒田長政は江戸幕府に対して経緯書を提出し、「黒田家は2人と一切、関係ありません」と釈明したが、徳川家康から疑われ、黒田長政は江戸の留守を命じられた。

■島津家久と大坂冬の陣
薩摩の島津家は九州統一を目前にしたが、豊臣秀吉の九州征伐によって破れ、豊臣秀吉に下った。

関ヶ原の合戦のとき、薩摩の島津家はお家騒動で本国・薩摩の兵が動員できず、大阪に居た島津義弘が少数の手勢を率いて、東軍に加わるため、東軍の京都・伏見城へ入ろうとした。

しかし、伏見城を守る東軍・鳥居元忠が「そのような援軍が来るとは聞いていない」と言い、島津義弘の入場を拒否したため、島津義弘は成り行き上で西軍に属した。

(注釈:小早川秀秋も東軍に加わるため、伏見城へ入ろうとしたが、鳥居元忠が入場を拒否したため、西軍に転じた。)

島津義弘は西軍として関ヶ原の戦いに出陣していたが、積極的には戦おうとしなかった。島津義弘は手勢が少数だったこともあり、敵の標的にならず、近づいてくる敵を鉄砲で撃ち返すのみであった。

西軍の敗北が決まったとき、島津義弘の軍は、ほぼ無傷だったが、西軍が負けて周囲は東軍だらけだったので、退路は既にふさがれていた。

そこで、島津義弘は、正面に居る西軍を中央突破して本国へ逃げ帰った。世に言う「島津の退き口」である。

関ヶ原の合戦の後、徳川家康は西軍の諸大名に「上洛して釈明せよ」と命じ、命令に応じて上洛した諸大名は徳川家康に難癖を付けられて改易された。

しかし、島津家は「本領安堵の証文が無ければ、上洛はしない」と言い、再三の上洛要請にも応じず、本領・薩摩に引き籠もって上洛を拒否し続けたので、終いには徳川家康から本領を安堵され、関ヶ原の合戦の後も生き残っていた。

関ヶ原の合戦から14年後、徳川家康との対決を決めた豊臣家の重臣・大野治長は、関ヶ原の合戦の時に徳川軍を中央突破して徳川家康を驚かせた薩摩の島津家を頼りにして、薩摩・鹿児島藩主・島津家久に正宗の脇差しを添えて使者を送り、上洛を求めた。

しかし、島津家久は「父・島津義弘が大阪に居たので、私は事情の分らないまま関ヶ原の合戦で豊臣家にお味方することになりましたが、島津家は関ヶ原の合戦で豊臣家に忠義を尽くし、豊臣秀吉の恩顧に対する奉公は既に果たしたつもりです。関ヶ原の合戦で負けましたが、徳川家康は遺恨を忘れ、私や父・島津義弘を許してくれました。私は徳川家康から数々の恩義を受けているので、徳川家康に忠義を尽くすつもりです。正宗の脇差は受け取れませんので、返します」と言い、上洛を拒否した。

大野治長は島津家に3度、上洛を要請する使者を送ったが、島津家久は上洛には応じず、大野治長の使者を捕らえて徳川家康に差し出した。

■蜂須賀家政と大坂冬の陣
阿波・徳島藩(徳島県)の藩祖・蜂須賀家政は、豊臣秀吉の側近中の側近・蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の嫡男である。

父・蜂須賀正勝(蜂須賀小六)は、豊臣秀吉(木下藤吉郎)が織田信長の家臣だった頃に家臣となった最古参で、豊臣秀吉の右腕として活躍し、播磨侵攻や四国征伐で手柄を上げ、四国征伐後に阿波(徳島県)の一部を拝領した。

しかし、父・蜂須賀正勝(蜂須賀小六)は高齢だったこともあり、隠居して豊臣秀吉の側近として仕える事を選んだため、嫡男の蜂須賀家政が阿波(徳島県)の一部を拝領することになった。

蜂須賀家政は朝鮮出兵の時に活躍したが、石田三成に讒訴されて遺恨を持ち、黒田長政や福島正則ら武断派と共に石田三成を襲撃しており、反石田三成派であった(石田三成襲撃事件)。

豊臣秀吉の死後、政略結婚により勢力拡大を図る徳川家康の意向により、蜂須賀家政の嫡男・蜂須賀至鎮が徳川家康の養女・敬台院を正室に迎え、蜂須賀家政は徳川家康の縁者となっていた。

上杉討伐(会津討伐)のとき、蜂須賀家政は病気と称して大阪屋敷に残り、嫡男・蜂須賀至鎮にわずかな兵を与えて派遣していた。

大阪城で石田三成が挙へすると、大阪屋敷に残っていた蜂須賀家政は豊臣家への忠義と徳川家康への忠義で板挟みとなり、豊臣秀頼に阿波(徳島県)一国を返上して隠居し、高野山へと入ったため、阿波(徳島県)は西軍に接収された。

しかし、上杉討伐(会津討伐)に参加していた嫡男・蜂須賀至鎮が、そのまま関ヶ原の合戦でいう東軍に属した。

嫡男・蜂須賀至鎮は関ヶ原の合戦で活躍しなかったが、徳川家康の縁者だった事もあり、関ヶ原の合戦の後、徳川家康から阿波(徳島県)一国と淡路島を拝領して徳島藩の藩主となった。

こうした経緯があるので、蜂須賀家政は豊臣家の重臣・大野治長の上洛要請に対して、「私は関ヶ原の合戦のとき、石田三成が擁する豊臣家に忠義を示した結果、阿波を没収されました。しかし、徳川家康から我が子(嫡男)・蜂須賀至鎮が阿波一国を拝領したので、私は無二の関東の一味である。今度、使者を送ってきたら斬り殺します」と答えて上洛を拒否した。

■加賀100万石・前田利常と大坂冬の陣
加賀(石川県南部)の大名・前田利家は五大老の1人として豊臣政権を運営し、豊臣秀吉の死ぬ間際に豊臣秀頼の後見人を頼まれた豊臣家の重臣である。

豊臣秀吉の死後、徳川家康に対抗できるのは前田利家だけであったが、、前田利家は高齢だったこともあり、豊臣秀吉の死後、豊臣秀吉の後を追うように死去し、嫡男・前田利長が父・前田利家の後釜として大老を引き継いだ。

前田利家は嫡男・前田利長に「死後3年は上方を離れるな」と遺言したが、嫡男・前田利長が中央政権の権力争いに嫌気をさしたのか、父・前田利家の遺言を破って帰国してしまう。

この隙を突き、徳川家康は、大阪に流れていた「淀君派の浅野長政や大野治長が、前田利長を擁立して徳川家康を討とうとしている」という噂を利用し、前田討伐(加賀討伐)を発動した。

前田利長は徳川家康に決戦を挑もうとしたが、大阪に残してきた前田利長の母・芳春院(前田まつ)が「私は先が短い。母を捨てでも家を守れ」と言い、前田利長を説得し、自ら進んで徳川家康の人質となったので、加賀の前田家は徳川家に下り、加賀征伐を回避した。

会津討伐(上杉討伐)のとき、前田利長は北陸方面部隊の総大将を務めており、会津征伐(上杉征伐)に出陣しようとしたところで、石田三成が大阪城で挙兵した。

前田家は豊臣家の恩顧であったが、徳川家康に下って居てたので、関ヶ原の合戦では徳川家康の東軍に属した。

そして、前田利長は徳川家康から「北陸は切り取り次第」と許されたので、西軍の加賀南部や越前へと侵攻していた。

(注釈:前田利長は北陸地方で戦っていたため、関ヶ原の戦いや第2次上田城の戦いにも参加していない。)

関ヶ原の合戦の後、前田利長は加増され、加賀・越中・能登の計122万5千石を有する加賀藩が誕生したが、前田利長は跡継ぎが居なかったため、弟・前田利常を養子に迎え、前田利常に家督を譲り、隠居した。

そして、家督を引き継いだ前田利常は、徳川秀忠の娘・珠姫(3歳)を正室に迎え、徳川家の縁者となり、徳川家の関係を強めていた。

このため、豊臣家の重臣・大野治長から上洛要請を受けた前田利常は、「私は石田三成が起こした乱より、徳川家康の一家となり、その親交が深いことは誰も知らない者は居ない」と言い、使者を捕らえ、書状を開封すること無く、徳川家康の元に送り届けた。

■毛利輝元の大坂冬の陣
毛利輝元は中国地方200万石の覇者であったが、中国地方に侵攻してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に備中・高松城を水攻めにされ、羽柴秀吉と和睦し、羽柴秀吉の軍師・黒田官兵衛と粘り強い交渉を続けた結果、中国地方西部8カ国120万石を安堵された。

関ヶ原の合戦の時、毛利輝元は石田三成や安国寺恵瓊に担ぎ上げられて、西軍の総大将に就任したが、毛利輝元は大阪城から出ようとはせず、一族の吉川広家や小早川秀秋を関ヶ原に派遣するに留まった。

関ヶ原の戦いで西軍が敗北しても毛利輝元は大阪城に居座っていたが、東軍・黒田長政らから本領安堵の約束を取り付けて大阪城を明け渡した。

ところが、徳川家康の朱印状を得ていなかったため、徳川家康は黒田長政らが交わした本領安堵の約束を反故にし、難癖を付けて毛利輝元を改易した。

しかし、関ヶ原の戦いで西軍から東軍へと寝返って周防・長門の2ヶ国を拝領した毛利一族の吉川広家が、周防・長門の2ヶ国37万石を毛利輝元に与えて欲しいと懇願したため、毛利輝元は徳川家康から周防・長門の2ヶ国を拝領して存続が許された。

こうして毛利輝元は中国地方の覇者から、周防・長門の2ヶ国37万石の大名へと没落していた。

大坂冬の陣のとき、毛利輝元は江戸幕府軍に属していたが、豊臣家が勝った時のために、家臣・内藤元盛に佐野道可と名乗らせ、内藤元盛(佐野道可)に軍資金と兵糧を持たせて大阪を支援し、どちらが勝っても毛利家が生き残れるようにした。

■福島正則の大坂冬の陣
福島正則の母親が豊臣秀吉の叔母だったことから、福島正則は幼少期から豊臣秀吉に仕え、方々の戦いで活躍した生粋の豊臣秀吉恩顧武将である。

豊臣秀吉の死後、徳川家康は政略結婚で勢力を拡大する。福島正則の養子・福島正之も徳川家康の養女・満天姫と結婚し、福島家は徳川家康の縁者となる。

上杉征伐(会津征伐)に出陣していた福島正則は、そのまま関ヶ原の合戦でいう東軍に属したが、福島正則は生粋の豊臣秀吉恩顧武将だったため、徳川家康は福島正則の動向を非常に心配していた。

福島正則は西軍との戦いの最前線となる清洲城の城主で、豊臣秀吉から兵糧を預かっていたが、東軍・黒田長政の説得を受け、清洲城を徳川家康に明け渡し、豊臣秀吉から預かっていた兵糧を徳川家康に差し出した。

その結果、福島正則は関ヶ原の合戦で活躍したこともあり、安芸の広島と備後の鞆49万8200石を拝領した。

大坂冬の陣のとき、籠城の準備を始めた豊臣家の重臣・大野治長は、大阪の兵糧を接収するため、福島正則に使者を派遣し、上洛と兵糧の借用を求めた。

すると、福島正則は「豊臣秀頼様のご意向次第である」と答え、福島家による兵糧の接収を黙認した。

しかし、豊臣秀頼からの上洛要請に対して、福島正則は「早く改心して、淀殿を江戸か駿府に遣わして徳川家にお詫びしてください。私は妻子を江戸に置き、徳川家康と徳川秀忠に無二の忠義を尽くすつもりです。野心を改めなければ、福島正則を始め、天下の諸将が大阪城へ急行し、攻め滅ぼすことは確実でしょう」と答え、上洛は拒否した。

その一方で、福島正則は使者に「豊臣秀頼は無益な事を考えたが、もはや取り返しは付かない。豊臣秀吉の遺言にあるように、大阪城を枕にして討ち死にしうるしかないだろう。徳川家康は野戦の名人なので、大阪城をよりどころにするよう伝えて欲しい」と伝言を頼んだ。

豊臣秀頼からの上洛要請を断った福島正則であったが、徳川家康に対しても「私は豊臣秀吉から恩を受けているので、豊臣秀頼を攻める事が出来ません。次男・福島忠勝を従軍させますので、私には江戸の留守を命じて下さい」と頼み、徳川家康の許可を得て江戸の留守を務め、大坂冬の陣には従軍しなかった。

■平野長泰と大坂冬の陣
平野長泰は古くからの豊臣秀吉の家臣で、織田信長の後継者を争い豊臣秀吉が柴田勝家と対決した「賤ヶ岳の戦い」で功績を挙げ、賤ヶ岳7本槍に選ばれ、大和国十市郡田原本に5000石を拝領した。

関ヶ原の合戦では、徳川秀忠に属して真田討伐(信州討伐)に参加していたので、武功は上げられず、5000石のままであった。

大坂冬の陣のとき、豊臣秀頼から上洛要請を受けた平野長泰は、徳川家康に「私は豊臣秀吉に取り立てられ、大きな恩を受けました。私は高々5000石の小身なので、大阪城へ入っても、徳川軍の支障になることはありません。私は大阪城へ入り、豊臣秀吉の恩に報いたいので、お暇をお与え下さい」と頼んだ。

しかし、徳川家康は昔話をして平野長泰を江戸へと追い返し、そのまま平野長泰に江戸の留守を命じた。

■肥後・熊本藩の加藤忠広と大坂冬の陣
肥後・熊本藩の2代目藩主・加藤忠広は、加藤清正の三男として生まれた。父の加藤清正は、加藤清正は豊臣秀吉と親戚だったことから、幼少の時から豊臣秀吉に仕えた豊臣秀吉の側近である。

九州征伐の後、肥後を拝領した佐々成政が強引な検地を行った事により、肥後一揆を起こされ、改易となり、加藤清正が佐々成政の後釜として肥後を拝領した。

豊臣秀吉の死後、加藤清正は徳川家康の養女・清浄院を正室に迎え、徳川家康の縁者になった。

2代目藩主・加藤忠広は、加藤清正と側室・正応院との間に生まれた三男だが、両兄が夭折しており、加藤清正の死後、肥後・熊本藩の2代目藩主となり、その後、徳川秀忠の養女・崇法院を正室に迎え、徳川秀忠と縁者になった。

その後、大坂冬の陣が勃発し、2代目藩主・加藤忠広は江戸幕府軍として大阪城へ向かったが、その途中で豊臣秀頼と徳川家康が和睦したため、大坂冬の陣には参加していない。

しかし、加藤家の重臣・加藤美作が武器や兵糧を大阪城に搬入し、密かに豊臣家を支援した。

■大坂冬の陣と各大名の動向
結局、福島正則・毛利輝元・加藤忠広の3人が僅かに豊臣家を支援しただけで、豊臣秀頼の要請に応じて大阪城に駆けつけた大名は居なかった。

大坂冬の陣-大阪牢人3人衆が大阪牢人5人衆になった理由のあらすじとネタバレ」へ続く。

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