大坂冬の陣-後藤又兵衛と花房助兵衛(花房職秀)の戦い

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の番外編「大坂冬の陣-後藤又兵衛(後藤基次)と花房助兵衛(花房職秀)の逸話のあらすじとネタバレ」。

真田幸村(真田信繁)の生涯については、「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■後藤又兵衛(後藤基次)と花房助兵衛(花房職秀)の逸話
この逸話は、大坂冬の陣のとき、慶長19年(1614年)11月30日に大阪城の西側場外に陣取っていた豊臣衆が引き上げる時の出来事で、真田幸村で有名な真田丸の戦いの数日前の出来事である。

大阪城の西には船場や水路などがあり、物資の搬入など、戦略上で大きな意味があったた。

そこで、大坂冬の陣のとき、豊臣家は籠城を決めたが、豊臣家の大野長治は、大阪城東南の真田丸に平行して、大阪城の西にも砦を築いて要所を守った。

しかし、大阪城の西に築いた木津川口の砦や博労淵の砦は、江戸幕府軍にあっけなく攻め落とされ、大阪城の西に配置していた豊臣軍の水軍も江戸幕府軍の水軍に大敗した。

元々、大阪城の西側場外に砦を作ることは、牢人・真田幸村や後藤又兵衛(後藤基次)らが「守備範囲が広がる」として反対していたこともあり、豊臣家の大野長治は豊臣衆から批判を受けた。

そこで、豊臣家の大野長治は、場外での防衛を諦めることにしたが、そのまま船場を敵に渡して大阪城が不利になるため、牢人・後藤又兵衛(後藤基次)に相談し、大阪城の西にある船場に火を掛けて、味方を城内に撤収させることにした。

しかし、大阪城の西に布陣していた豊臣衆の大野治房や塙団右衛門(塙直之)らが、大野長治に従わずに撤退しなかったので、後藤又兵衛(後藤基次)が火を付けて有無を言わさず、大野治房や塙団右衛門(塙直之)を撤退させることにした。

慶長19年(1614年)11月30日、後藤又兵衛(後藤基次)が船場に火を放つと、大野治房や塙団右衛門(塙直之)らは混乱しながらも撤退を開始した。

すると、江戸幕府軍の備前衆が、豊臣衆の撤退に乗じて追撃してきた。

そこで、後藤又兵衛(後藤基次)は「備前衆は必ず突いてくるだろう。若い者達よ、待ち伏せして功名をあげよ」と告げると、兵士は「後藤又兵衛(後藤基次)が言うのだから、間違いない」と言い、隠れて備前衆が攻めてくるのを待った。

しかし、備前衆が攻めてこなかったので、兵士は「後藤又兵衛(後藤基次)は手柄を立てたがる」と言って笑うと、後藤又兵衛(後藤基次)は「備前衆が追ってこなかったのは、花房助兵衛(花房職秀)が生きながらえているからだろう」と言った。

実は、このとき、江戸幕府軍では、江戸幕府軍の備前衆・戸川達安が「煙に紛れて後を追おう」と言ったのだが、老将・花房助兵衛(花房職秀)が「城内には後藤という巧者が居る。必ず兵を伏しているだろう」と言って止めていた。

実際、備前衆が偵察の兵を出してみると、老将・花房助兵衛(花房職秀)が言うとおり、煙の中に大勢の伏兵が居たのでのである。

その後、和平が成立し、備前衆・戸川達安の弟・戸川与左衛門と後藤又兵衛(後藤基次)が話した。

このとき、後藤又兵衛(後藤基次)が「備前衆が追ってこなかったのは、なぜだ?」と尋ねて、備前衆が追ってこなかった理由が判明したので、人々は後藤又兵衛(後藤基次)と老将・花房助兵衛(花房職秀)の的確な判断を賞賛したのであった。

■花房助兵衛(花房職秀)の経歴
花房助兵衛(花房職秀)は、備前の大名・宇喜多直家の家臣・花房職勝(花房職治)の子で、親子で宇喜多家に仕え、方々の戦いで活躍した。

北条征伐のとき、豊臣秀吉は小田原城を包囲したままで、側室・茶々などを呼び寄せて娯楽に興じ、小田原城を攻めなかった。

花房助兵衛(花房職秀)は下馬せずに豊臣秀吉の本陣を横切ろうとしたので、兵士が注意すると、花房助兵衛は「戦場で女とチョメチョメしている大将に下馬など出来るか」と吐き捨てた。

それを聞いた豊臣秀吉は、激怒して宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡男)に花房助兵衛(花房職秀)の処刑を命じたが、その後、花房助兵衛の武功を思い出して「武士らしく切腹させよ」と命じ直した。

ところが、その後、豊臣秀吉は「ワシにあのような暴言をはけるのは、花房助兵衛だけであろう。殺すのは惜しい」と言い、一転して花房助兵衛を加増した。

第1次朝鮮出兵の後、宇喜多家で、お家騒動「宇喜多騒動」が起こり、宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡男)の怒りを買った花房助兵衛(花房職秀)は、常陸国の佐竹義宣へ流された(注釈:花房助兵衛の一件が宇喜多騒動の切っ掛けとも言われている。)

関ヶ原の合戦のとき、花房助兵衛(花房職秀)は東軍に味方して徳川家康に気に入られ、8000石を拝領した。

また、花房助兵衛(花房職秀)の子は出家していたが、還俗して徳川四天王・榊原康政の養子となり、榊原飛騨守職直と名乗った。

そして、大坂冬の陣のとき、花房助兵衛(花房職秀)とその子・榊原飛騨守職直は江戸幕府軍として参陣した。

花房助兵衛(花房職秀)は老齢で1人で座ることも出来なかったが、御輿に乗って攻め口に向かい、兵士に「もしもの時は、御輿を敵陣に投げ込め。ここがワシの墓場だ」と命じて、采配をふるった。

なお、後藤又兵衛(後藤基次)の生涯については、「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯」をご覧ください。

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