明石レジイナ(明石レジーナ)の生涯

キリシタン牢人・明石全登(明石掃部)の娘・明石レジイナ(明石レジーナ)の生涯をあらすじとネタバレを紹介する「明石レジイナ(明石レジーナ)の生涯」です。

■明石レジイナ(明石レジーナ)の生涯
明石レジイナ(明石レジーナ)は、備前(岡山県東部)の大名・宇喜多秀家の家臣・明石全登(明石掃部)の次女(末娘)として生まれた。本名は不明で「レジイナ」は洗礼名である。(注釈:レジイナの意味は「女王」である。)

明石レジイナ(明石レジーナ)は、明石全登(明石掃部)に似て聡明だったので、明石全登(明石掃部)のお気に入りの娘であった。

父・明石全登(明石掃部)は第1次朝鮮出兵の後、大阪城の改修普請で大阪に居たとき、宇喜多左京亮の勧めで宣教師の説教を受け、大阪で洗礼を受けた。父・明石全登(明石掃部)の洗礼名は「ドン・ジョアン」である。

明石全登(明石掃部)の石高は3万3910石で、宇喜多家の中では石高が一番高かったが、備前の国政には参加せず、客将的な立場で、キリスト教の布教に専念し、2000人から3000人の信者を集めた。

明石レジイナ(明石レジーナ)には5人の子供がおり、いずれの子供も、明石レジイナ(明石レジーナ)の影響で洗礼を受けていた。

長男・明石小三郎
長女・明石カタリイナ(明石カタリーナ)
次男・明石パウロ内記
次女・明石レジイナ(明石レジーナ)
三男・明石ヨゼブ

(注釈:長男・明石小三郎は、長崎にある司祭・修道士を育成するキリスト教学校に入った。)

■明石レジイナ(明石レジーナ)と大坂夏の陣
関ヶ原の合戦では、備前の大名・宇喜多秀家は西軍に属した。明石全登(明石掃部)は宇喜多秀家の主力部隊として戦ったが、西軍は関ヶ原の合戦で東軍に負けて、宇喜多秀家は改易された。

関ヶ原の合戦後、明石全登(明石掃部)は遠縁にあたる福岡藩の藩主・黒田長政に仕えたが、その後、徳川家康が方針を転換してキリスト教を禁止した。

このため、黒田長政もキリスト教を禁止したので、明石全登(明石掃部)はキリシタン牢人となった。

やがて、豊臣秀頼と徳川家康が対立し、大坂冬の陣が勃発すると、豊臣秀頼がキリスト教の布教を認めたため、キリシタン牢人の明石全登(明石掃部)は大阪城へ入った。

次女の明石レジイナ(明石レジーナ)も大阪城へ入り、人質として大阪城内で監禁されたが、明石レジイナ(明石レジーナ)は聡明で親切な性格だったので、淀殿は明石レジイナ(明石レジーナ)を気に入り、身分のある者と結婚させようと考えていた。

しかし、豊臣家は大坂夏の陣で徳川家康に負け、大阪城は落城してしまう。

江戸幕府軍が大阪城に乱入して、兵士が明石レジイナ(明石レジーナ)を強姦(レイプ)しようとしたが、明石レジイナ(明石レジーナ)は純血を守るために必死に抵抗した。

しかし、終いに、明石レジイナ(明石レジーナ)は抵抗しきれなくなったので、明石全登(明石掃部)の娘であることを明かし、毅然とした態度で徳川家康の元へ連れて行くように命じた。

それを聞いた徳川家康は、明石レジイナ(明石レジーナ)に感心し、側室の1人・オカモトという女性に明石レジイナ(明石レジーナ)を預け、世話をさせた。

さて、大阪城は落城したが、キリシタン牢人・明石全登(明石掃部)の死体は確認出来ていなかった。

徳川家康はキリスト教を激しく嫌っていたので、明石全登(明石掃部)の捜索を命じた。世に言う「明石狩り」である。

徳川家康は京都の二条城に入ると、明石レジイナ(明石レジーナ)に明石全登(明石掃部)の事を尋ねたが、明石全登(明石掃部)は「父が戦っていたとき、私は大阪城の中に込め置かれたので、何一つ聞いていません」と答えた。

徳川家康が「兄弟は何人か?」と尋ねると、明石レジイナ(明石レジーナ)は「4人です」と答えた。

徳川家康が「5人だったはずだが」と尋ねると、明石レジイナ(明石レジーナ)は「はい。5人でございました。しかし、1人はデウス様の教えに生命を捧げましたので、もうこの世の者ではございません。ですから、私ども兄弟は4人だと答えたのでございます」と答えた。

(注釈:デウスの教えに生命を捧げた兄弟は、修道士になった長男・明石小三郎のこと。)

徳川家康はキリスト教を激しく嫌っていたが、明石レジイナ(明石レジーナ)の答えをたいそう気に入り、明石レジイナ(明石レジーナ)にキリスト教を信仰することを許し、死んだと思われる明石全登(明石掃部)の魂を祀るように勧めた。

さらに、徳川家康は明石レジイナ(明石レジーナ)に着物と金子を与えて、自由の身とし、北政所の所に留まりたければ、取りはからうと申し出たが、明石レジイナ(明石レジーナ)は「貧しい環境に身を置かなければ、キリシタンとして神に捧げた貞潔な願いを守る事は出来ません」と答えて、徳川家康の申し出を断った。

■明石レジイナ(明石レジーナ)のその後
大坂夏の陣の後、浅井直政(三好直政)が明石全登(明石掃部)の娘を正室にしたことから、明石レジイナ(明石レジーナ)は大坂夏の陣の後、浅井直政(三好直政)と結婚したと考えられている。

明石全登(明石掃部)には娘が2人居たが、長女・明石カタリイナ(明石カタリーナ)は岡平内と結婚しているので、消去法で明石レジイナ(明石レジーナ)が浅井直政(三好直政)と結婚したということになる。

明石レジイナ(明石レジーナ)は三好直政(浅井直政)の子・三好政盛(浅井政盛)を産んだが、その後、死去ししたか、キリスト教が原因で三好家(浅井家)を出たのか、記録には登場しなくなる。

■明石レジイナが女医になる説
作家・森本繁の小説「南蛮キリシタン女医明石レジーナ」で、明石レジイナ(明石レジーナ)の新説が発表されている。

小説「南蛮キリシタン女医明石レジーナ」によると、明石レジイナ(明石レジーナ)は明石掃部頭守重(明石全登)の末娘で、本名は「明石亜矢」という。

キリスト教に入信した明石亜矢は、長崎で外科医術を学び、大坂の陣で看護婦として活動し、大坂夏の陣の後、キリシタンの弾圧を受けて長崎からマカオに渡った。

明石亜矢はマカオでオランダ軍の捕虜になるが、高い医療技術を買われて、医師としてオランダ軍に配属された。その後、本格的に外科医としての技術を学び、東インド会社の医師として台湾へ移ったが、江戸幕府の鎖国政策により、帰国することは出来なかったという。

なお、作者の森本繁は、「史実作家」という肩書きらしいが、明石全登(明石掃部)が大坂夏の陣後、台湾に渡ったという説を展開しているので、明石レジイナ(明石レジーナ)が外科医になるエピソードが実話はかどうかは分からない。

(注釈:2015年の時点で、史実の明石レジイナは、大坂夏の陣の後、三好直政と結婚したと考えられている。)

新聞によると、作者の森本繁は、小説「南蛮キリシタン女医明石レジーナ」について、マカオやポルトガルなど海外も訪れて調査を重ねたが、史料はほとんど残っておらず、「史実に基づいて書くのが私の作風だが、今回初めて歴史の空白部分は作家としての推理を働かせて書いた。歴史に埋もれたレジーナの人生を知ってもらいたい」とコメントしている。

なお、キリシタン牢人・明石全登(明石掃部)の生涯については、「史実・キリシタン明石全登(明石掃部)の生涯」をご覧ください。

また、キリスト教に人生を捧げた細川ガラシャの生涯については、「実話・細川ガラシャの生涯」をご覧ください。

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