大坂冬の陣-和睦と大阪城の埋め立てのあらすじとネタバレ

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「大坂冬の陣-和睦と大阪城の堀の埋め立てのあらすじとネタバレ」です。

このページは「真田幸村と真田丸の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■大坂冬の陣-和睦への道
慶長19年(1614年)12月4日、大阪城の南方に布陣していた江戸幕府軍の伊達政宗・藤堂高虎・松平忠直・井伊直孝・榊原康勝・前田利常らが真田丸と大阪城南側へ総攻撃をかけたが、江戸幕府軍は大敗した(真田丸の戦い)。

しかし、江戸幕府軍は依然として大軍で大阪城を完全に包囲しており、徳川家康は余裕の笑みを浮かべていた。

真田丸の戦いの翌日の慶長19年(1614年)12月5日、大阪城の南側にある谷町口を守っていた織田頼長の陣営で喧嘩が起きた。

谷町口の正面に布陣していた江戸幕府軍・藤堂高虎の先鋒が、この喧嘩に便乗して大阪城に乗り込もうとして大阪城へと攻撃を掛けたので、豊臣衆の長宗我部盛親らが駆けつけて応戦した(谷町口の戦い)。

このとき、藤堂高虎は、徳川家康の本陣で、徳川家康・伊達政宗・本多正信と一緒に、伊達政宗が徳川家康に献上した生鱈を食べていた。

そこへ、戦を始めたという知らせの使者が来たので、藤堂高虎は慌てて陣営の戻り、大阪城を攻めている先手を引き上げさせた。

ところで、豊臣軍は江戸幕府軍の藤堂高虎の先鋒を防ぎ戦っていたが、肝心の織田頼長は病気と称して戦いに参加していなかった。一説によると、織田頼長は女と酒を飲んでいたという。

このため、大阪城内では、織田頼長が藤堂高虎と内通しており、藤堂高虎の手勢を大阪城内に入れようとしたという噂が流れた。

ところで、織田頼長の父親は、豊臣家を主導している織田長益(織田有楽斎)である。

織田有楽斎(織田長益)は、織田信長の弟で、本能寺の変のとき、京都・二条城に居た。織田有楽斎(織田長益)は家臣に「切腹を覚悟して戦え」と命じ、家臣が敵と戦っている隙に京都・二条城を抜け出して難を逃れた卑怯者である。

その後、織田有楽斎(織田長益)は豊臣秀吉に仕えたがが、関ヶ原の戦いでは織田家で唯一、徳川家康の東軍に味方して手柄を上げ、大和国(奈良県)で3万2000石を拝領した。

関ヶ原の合戦の後、織田有楽斎(織田長益)は淀君の叔父という関係で豊臣家に仕え、大坂冬の陣では豊臣家を主導する首脳陣に加わっていた。

しかし、織田長益(織田有楽斎)は、徳川家康の内意を受けて大阪城に入ったとも言われ、大坂冬の陣の早期から徳川家康と和睦交渉に当たり、豊臣秀頼に和睦を勧めていたのである。

■大坂冬の陣-和睦への道
徳川家康の和睦交渉は、真田丸の戦いよりも2週間前の慶長19年(1614年)11月20日から始まっていた(一説によると、大坂冬の陣の開戦直後の10月から、交渉が始まっていた)。

徳川家康の交渉役は本多正純・後藤庄三郎(後藤光次)で、豊臣家の交渉役は大野治長・織田長益(織田有楽斎)である。

慶長19年(1614年)12月、和睦交渉を開始した織田長益(織田有楽斎)は、豊臣秀頼に和睦を勧めたが、豊臣秀頼は和睦に応じなかった。

一方、徳川秀忠は、徳川家康が和睦交渉を進めている事を知り、徳川家康に大阪城への総攻撃の許可を3度も求めたが、徳川家康は「私は19度の大合戦を経験してきたので考えがある。もう少し待つように」と言って総攻撃を許可しなかった。

さて、和睦の方は、豊臣家が「牢人の恩赦」を条件に出し、徳川家康は「国替え」を条件に出して交渉が進んでいたようである。

豊臣家は淀君が問題になって話し合いが進まなかったのか、「淀君が女性なのでのんびりしており、話し合いが進まない」と言っている。

さて、豊臣家は、慶長19年(1614年)12月15日に「淀君を江戸へ送る」「徳川家康・徳川秀忠が豊臣秀頼に誓紙を差し入れる」「牢人に領土を与える」という和睦条件を徳川家康に伝えた。

徳川家康は「何の奉公があって、牢人に領土を与えるのか」と呆れたが、「淀君を江戸へ送る」「豊臣秀頼には四国を与えるので、大阪城を撤去する」「牢人衆に扶持を与える」という和睦条件を出し、交渉を続けた。

豊臣秀頼は四国を要望したが、徳川家康が関東に2カ国を提示したので、豊臣秀頼は関東転封を嫌って、断ったという逸話も残っている。

■真田幸村の返答
徳川家康は豊臣秀頼との交渉を進める一方で、真田幸村を取り込むことは出来ないかと思い、江戸幕府軍に居る真田信尹を真田幸村の元に派遣した。

真田信尹は、真田幸村の叔父(父・真田昌幸の弟)にあたる人物で、武田家が滅亡した後、北条家を経て徳川家康に仕えた。真田信尹は、真田家で最初に徳川家康に仕えた人物で、徳川家と真田家の交渉約として活躍した。

さて、真田幸村の陣営を訪れた真田信尹は、「徳川家康に味方すれば、信州(長野県)に3万石を与えよう」と持ちかけた。

しかし、真田幸村は「私は関ヶ原の戦いで徳川家康の敵となり、九度山で没落した生活を過ごしておりましたが、豊臣秀頼に召し出され、多くの兵を与えられました。これは領土を与えられるよりも名誉なことです。ですから、約束は違えられません」と断った。

真田信尹は戻って徳川家康に報告すると、徳川家康は感心し、「まことに惜しい人材だ。信州一国を与えるので、味方にならないか聞いて参れ」と命じた。

再び真田幸村の元を訪れた真田信尹が信州一国を提示すると、真田幸村は「日本の半分を頂けるとしても私の気持ちは変わりません。私は初めから討ち死にを覚悟していますので、もう2度とおいでにならないように」と激怒して真田信尹を追い出した。

■徳川家康が砲撃を開始
徳川家康は豊臣家との和睦交渉を行う一方で、毛利秀成・福島正勝に命じて天満川を堰き止めさせたり、藤堂高虎などに命じて地下道を掘らせたり、城攻め用の梯子を配布したりした。

対する豊臣軍は、江戸幕府軍の地下道に対抗して、地下道を掘り、そこに糞尿を流し込み、江戸幕府軍が地下から城内に侵入するのを防いだ。(注釈:籠城戦では、「うんこ」は立派な武器だった。)

そのようななか、徳川家康は慶長19年(1614年)12月16日から大阪城に向けて砲撃を開始する。

日本は山や川が多いので、運搬が困難な大砲はほとんど普及していなかったが、徳川家康はイギリスからガルバリン砲やセーカー砲を購入してた。

大阪城は大きな外郭に囲まれていたが、大阪城は北寄りに位置しており、大阪城の北側から砲撃すれば、大阪城に砲弾が届くのである。

江戸幕府軍には、豊臣家を追放された片桐且元が居るので、大阪城の位置などは正確に分かっており、片桐且元の指示で江戸幕府軍・砲術師の稲富正直らが連日連夜に渡り、大阪城に向けて砲撃した。

■塙団右衛門(塙直之)の夜討
そのようななか、大阪城の西部を守っていた牢人・塙団右衛門(塙直之)は、以前から計画していた夜討を実行に移す。

慶長19年(1614年)12月16日(もしくは12月17日)、牢人・塙団右衛門(塙直之)は16歳以上、50歳以下の士卒を80人ほど集め、大阪城の西に布陣していた江戸幕府軍・蜂須賀至鎮の家臣・中村右近の陣営に夜襲を掛けた。

牢人・塙団右衛門(塙直之)は中村右近など150人を討ち取り、予め用意していた「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也(夜襲の大将は、塙団右衛門直之)」と書いた木札を、道々に木札をまかせて、自分の名前を知らしめた。

(注釈:牢人・塙団右衛門(塙直之)が夜討をした理由については「夜討ちの大将 塙団右衛門(塙直之)の生涯」をご覧ください。)

■大坂冬の陣-淀君が和睦に傾く
さて、当時の大砲は着弾しても爆発しないので、それほど威力は無かったが、大阪城に籠城する淀君を怯えさすのには十分だった。

号砲は京都まで聞こえるほど大きく、大阪城に籠城する淀君を精神的に追い詰めていった。

そして、砲弾の一つが淀君の居間のある櫓に命中し、侍女7~8人が死に、女どもは泣き叫んだ。それを目の当たりにした淀君は、和睦へと傾いた。

このころ、大阪城は完全に封鎖されていたため、籠城する豊臣衆は、もはや食料も弾薬も尽きており、このまま行けば落城するのは確実だった。

慶長19年(1614年)12月16日に行われた軍議では、和睦を提案する意見が出たが、豊臣秀頼は「城を枕に討ち死にしよう」と言って和睦に賛成しなかった。

しかし、牢人・後藤又兵衛(後藤基次)や真田幸村も「豊臣家に味方する大名は居なかった。弾薬や食料にも限り上がる。城内に疑わしい人物(織田頼長)も居ます。」と言い、和睦に賛同する。

それでも、豊臣秀頼は和睦には賛成しなかったが、最終的に、砲撃によって和睦に傾いた淀君が豊臣秀頼を説得すると、豊臣秀頼は淀君の為に和睦を了承したという。

■大坂冬の陣-和睦
慶長19年(1614年)12月17日、後清水天王の勅使が、徳川家康に講和の勧告と斡旋を申し入れたが、徳川家康は「講和が不調に終われば、天皇の名に傷が付く」と言って断り、あくまでも、豊臣秀頼と直接、和睦することを望んだ。

そして、徳川家康は和睦交渉を行いながらも、大阪城へ大砲を撃ち込み続けた。

慶長19年(1614年)12月18日、江戸幕府軍・京極忠高の陣営に和睦の席が設けられた。

豊臣家の使者は常高院と大蔵卿局で、徳川家の使者は茶阿局と本多正純であった。

常高院は浅井三姉妹の次女「初」で、淀殿(浅井三姉妹の長女「茶々」)の妹である。常高院が大阪城に居る経緯や理由は不明で、大坂冬の陣が勃発した当初から大阪城に居たとも、淀殿を説得するために大阪城に入ったとも言われている。

江戸幕府軍・京極忠高は、常高院の子(血は繋がっていない)なので、京極忠高の陣営に和睦の席が設けられた。(注釈:常高院は京極高次の正室で、江戸幕府軍に居る京極忠高は、京極高次と側室の間に生まれた子供である)

一方、徳川家康の使者となった茶阿局は、徳川家康の側室である。本多正純は書記(記録係)を務めたらしく、和睦交渉は女性同士で話し合われた。

しかし、和解交渉が始まっても、徳川家康は砲撃を止めず、よりいっそう激しく大阪城に向けて大砲を撃ち続けた。

■大坂冬の陣-和睦の条件
翌日の慶長19年(1614年)12月18日、京極忠高の陣営で2度目の和睦交渉が行われた。

その和睦の条件は下記の3点であった。
1・大阪城の本丸を残して、二の丸、三の丸の堀を埋め立てる。
2・淀殿が江戸に行く必要は無い。
3・織田有楽斎(織田長益)と大野長治の2人が人質を差し出す。

これによって和睦が合意に達したので、徳川家康は慶長19年(1614年)12月20日に大阪城への砲撃を止め、全軍に停戦を命じた。豊臣衆もこれを受けて、反撃を止めた。

そして、慶長19年(1614年)12月21日までに、豊臣家の常光院・二局局・饗庭局が徳川家康の本陣を訪れ、下記の5点を確認して、徳川家康の起請文を受け取った。

1・籠城した牢人の罪は問わない。
2・豊臣秀頼の知行は、これまでどおりとする。
3・淀殿は江戸に在住する必要は無い。
4・大阪城を開城するのであれば、豊臣秀頼に希望する国を与える。
5・徳川家康は豊臣秀頼に対して裏切りの気持ちが無い。

起請文を取り交わすとき、徳川家康の血判が薄かったので、木村重成はもう1度、徳川家康に血判を押させたという逸話も残っているが後世の創作である。

木村重成は、大野長治の使者として慶長19年(1614年)12月21日に茶臼山を訪れ、本多正純の案内で徳川秀忠に拝謁し、徳川秀忠から誓紙を受け取った。

このとき、木村重成の進退が礼儀作法に則り、所作が非常に美しかったので、徳川家から賞賛されている。

慶長19年(1614年)12月22日には、徳川家康の使者として茶阿局と板倉重昌が大阪城を訪れ、豊臣秀頼から起請文を受け取り、和議が成立した。

この日、真田幸村は「和議が成立したので、相手は油断している。今夜、夜襲をかければ、徳川家康・徳川秀忠を捕らえられるだろう」と言い、奇襲攻撃を提案したが、淀殿が「せっかく和議が成立したのに、直ぐに違約してはいけない」と言い、反対したという。

一方、江戸幕府軍の伊達政宗・藤堂高虎など有力大名が、「和議は叶ったが、必ず将来に遺恨を残す。今のうちに豊臣秀頼を排除するべき」と徳川家康に意見したが、徳川家康は「(織田信長のように)不義を行う者は天罰が下る」と取り合わなかった。

■大阪城の埋め立ての開始
徳川家康は、「大阪城の本丸を残して、二の丸、三の丸の堀を埋め立てる」という和睦の条件を出しており、早々に埋め立てを命じた。

従来の通説では、「外堀を埋めるという条件だったが、徳川家康は豊臣家を騙し、外堀を埋めた勢いで、内堀まで埋めさせた」という徳川家康の陰謀論として語られてきた。

しかし、最近の研究では、大阪城の「二の丸」「三の丸」を破壊して内堀を埋め立てることは、徳川家と豊臣家による合意によるものだとされ、徳川家康による陰謀論は否定されている。

さて、江戸幕府軍が大阪城の外堀を埋め、豊臣家が大阪城の「二の丸」「三の丸」を破壊し、内堀を埋める取り決めになっていた。

江戸幕府軍は総力を挙げ、昼夜を通じて突貫工事を行い、早々に外堀を埋めたのだが、豊臣家は「二の丸」「三の丸」の破壊が進んでいなかったので、江戸幕府軍が勝手に手伝い、「二の丸」「三の丸」の破壊と堀の埋め立てを手伝った。

大阪城の二の丸は、かなりの規模で堀も深かったらしく、埋め立てる廃材が足りず、家屋や櫓を引き倒して埋めた。

真田幸村が築いた真田丸については、資料は残っていないが、外堀を担当した江戸幕府軍が壊したと考えられている。

大阪城の埋め立ては1ヶ月程かかり、慶長20年(1615年)1月23日ごろに、「二の丸」「三の丸」の破壊と堀の埋め立てが終わって、大阪城は丸裸になった。

しかし、平和は長くは続かず、和睦から僅か5ヶ月後に大坂夏の陣が勃発するのであった。

「大坂夏の陣のあらすじとネタバレ」へ続く。

スポンサードリンク

コメントを投稿する

コメントは正常に投稿されていますが、反映に時間がかかります。