薄田隼人(薄田兼相)の生涯

大坂冬の陣と大坂夏の陣で活躍した戦国武将・薄田隼人(薄田兼相)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「薄田隼人(薄田兼相)の生涯のあらすじとネタバレ」です。

■薄田隼人(薄田兼相)の生涯
薄田隼人(薄田兼相)については、ほとんど資料が残っておらず、前半生は不明である。

読み方は、薄田隼人が「すすきだ・はやと」で、薄田兼相が「すすきだ・かねすけ」である。

通説によると、薄田隼人(薄田兼相)は小早川隆景の家臣・薄田重左衛門の子で、山城国(京都府南部)または筑後国(福岡県南部)の出身とされ、小早川隆景に仕えたとされる。

■薄田隼人-豊臣家に仕える
薄田隼人(薄田兼相)は、剣術や柔術に優れ、剣術「鞍馬八流」を取得して諸国を武者修行して回り、柔術「兼相流」と剣術「無手流」の開祖となった。

天文2年(1533年)に小早川隆景が死ぬと、同年10月までに薄田隼人(薄田兼相)は豊臣秀吉に仕えて豊臣秀吉の馬周り衆を務めた。

豊臣秀吉の死後は、豊臣秀頼に仕え、慶長16年(1611年)の禁裏御普請衆によると、薄田隼人(薄田兼相)は3000石を領した。

■薄田隼人(薄田兼相)と大坂冬の陣
慶長19年(1614年)、豊臣秀頼と徳川家康は、同年に起きた方広寺鐘銘事件を切っ掛けに関係が悪化し、徳川家康は慶長19年(1614年)10月1日に豊臣征伐(大坂冬の陣)を発動した。

豊臣秀頼は、豊臣恩顧の大名に集結を呼びかけたが、応じる大名は居なかったため、全国に溢れていた牢人に集結を呼びかけ、9万を超える牢人が大阪城に集結した。

従来は、薄田隼人(薄田兼相)は大坂冬の陣で「牢人」とされていたが、慶長16年の禁裏御普請衆に薄田隼人の名前があることから、近年は、薄田隼人(薄田兼相)は豊臣家の家臣だったと考えられている。

さて、大阪城の西は大阪湾へ続く川が流れており、物資搬入の要所だった。そこで、籠城を決めた豊臣家の大野治長は、大阪城の西の要所に砦を築いて、薄田隼人(薄田兼相)やキリシタン牢人・明石全登などを入れて守らせた。

一方、江戸幕府軍の徳島藩主・蜂須賀至鎮は、祖父が豊臣秀吉の側近中の側近・蜂須賀小六(蜂須賀正勝)だったので、江戸幕府軍の見方から裏切りが疑われていた。

そこで、徳島藩主・蜂須賀至鎮は疑惑を晴らすため、徳川家康に願い出て、大阪城西部にある木津川口の砦を攻める許可を求めると、徳川家康は、浅野長晟・池田忠雄と攻めるように命じた。

蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の3人は軍議を開いて、慶長19年(1614年)11月19日の朝6時に攻撃を開始することを取り決めたが、蜂須賀至鎮は手柄を独り占めするため、先駆けして深夜3時に手勢3000で木津川口の砦を攻撃し、大坂冬の陣が開戦した。

木津川口の砦は、キリシタン牢人の明石全登(明石掃部)が手勢800で守っていたが、このとき、明石全登(明石掃部)は大阪城へ行って不在だったため、木津川口の砦の兵は統率が取れず、蜂須賀至鎮の奇襲攻撃で攻め落とされた(木津川口の砦の戦い)。

江戸幕府軍の蜂須賀至鎮は、木津川口の砦を攻め落としたとき、住人から、大阪城の西側にある博労淵の砦は守りが強固ではないと聞いていたので、池田忠雄と協力して、大阪城西にある博労淵・阿波座・土佐座の砦も攻め落とそうと考えていた。

このころ、徳川家康も水野勝成らに、博労淵の砦を大砲で破壊するように命じており、水野勝成らが準備を進めていた。

これを知った蜂須賀至鎮は、水野勝成らに手柄を取られることを危ぶみ、慶長19年(1614年)11月29日未明に水路と陸路に別れて、豊臣軍の薄田隼人(薄田兼相)が守る博労淵の砦を攻めた。

このとき、薄田隼人(薄田兼相)は神崎にある遊郭へ行き、女とチョメチョメしており、博労淵の砦を留守にしていた。

守将の薄田隼人(薄田兼相)が居ないので、博労淵の砦の兵は江戸幕府軍の蜂須賀至鎮の攻撃に対応できず、江戸幕府軍の蜂須賀至鎮に攻め落とされてしまう(博労淵の砦の戦い)。

また、同日(慶長19年11月19日)、大阪城の西にある野田・福島に水軍800を率いて布陣していた豊臣軍の大野治胤も、江戸幕府軍の水軍・九鬼守隆や向井忠勝に攻められて大敗し、逃げ去った。

このため、豊臣軍の大野治胤と薄田隼人(薄田兼相)の2人は、味方から「橙武者(だいだいむしゃ)」と馬鹿にされるようになった。

(注釈:橙は「家が代々続くように」という意味を込めて正月の飾りに使われるが、大きくて、色は良くても、酸味が強く、正月飾りにしか使えないことから、橙武者は「見かけ倒し」という意味で使われる。)

■薄田隼人(薄田兼相)と大坂夏の陣
大坂冬の陣は和睦によって終わったが、行き場の無い牢人が大阪城に居座ったため、和睦の成立から、わずか5ヶ月後に大坂夏の陣が勃発する。

大阪城は、大坂冬の陣の和睦によって、二の丸・三の丸が破壊され、内堀・外堀も埋めたてられて丸裸になっており、籠城は出来ないため、豊臣軍は大阪城の南方で江戸幕府軍を迎え撃つことにした。

豊臣軍の大野治長は、大和(奈良県)へと進行し、江戸幕府側の大和・郡山城を攻め落としたが、江戸幕府軍の大和方面部隊の先鋒・水野勝成が大和(奈良県)へと進軍してきたため、大野治長は大和・郡山城を捨てて撤退した。

次に、豊臣軍の大野治長は、紀州(和歌山県)で一揆を扇動し、江戸幕府軍の紀州藩主・浅野長晟を挟み撃ちにしようとした。

しかし、豊臣軍・先鋒の塙団右衛門(塙直之)と岡部大学(岡部則綱)が先手の候を争って勝手に進み、紀州藩主・浅野長晟を攻めて討ち死にしたため、豊臣軍の大野治長は大阪城へと撤退する(樫井の戦い)。

次に、豊臣軍は大和(奈良県)方面で江戸幕府軍が兵を展開するために叩くため、後藤又兵衛(後藤基次)・薄田隼人(薄田兼相)・キリシタン明石全登(明石掃部)らが6400が先陣として出陣させ、真田幸村(真田信繁)・毛利勝永・大谷吉治ら1万2000が後陣として出陣させた。

慶長20年(1615年)5月6日午前0時、後藤又兵衛(後藤基次)は手勢2800を率いて平野を出発し、藤井寺を経て合流場所の道明寺に入るが、濃い霧の影響で、他の豊臣軍は誰1人として道明寺に来ていなかった。

後藤又兵衛(後藤基次)は豊臣軍を待とうとしたが、戻ってきた偵察の報告により、江戸幕府軍の先鋒・水野勝成が既に国分村の狭隘地に兵を展開し、攻撃態勢に入っている事を知る。

豊臣軍の作戦は失敗したため、後藤又兵衛(後藤基次)は東へ進んで石川(川の名前)を超え、小松山に布陣して江戸幕府軍を迎え撃ったが、8時間に渡る激戦の末、慶長20年(1615年)5月6日午前11時に後藤又兵衛(後藤基次)は討ち死にする。

(注釈:後藤又兵衛の生涯は「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

霧の影響で送れていた薄田隼人(薄田兼相)が、合流地点の天王寺に到着したのは、後藤又兵衛(後藤基次)が討ち死にしたころだった。

後藤又兵衛(後藤基次)を討ち取った江戸幕府軍は、残兵を追撃して石川を渡り、天王寺方面へと進んでいたが、薄田隼人(薄田兼相)が奮闘して江戸幕府軍を押し返す。

薄田隼人(薄田兼相)は前年の大坂冬の陣のとき、遊郭で女とチョメチョメしている隙に江戸幕府軍の蜂須賀至鎮に博労淵の砦を攻め落とされたため、「橙武者(だいだいむしゃ)」と馬鹿にされるようになったが、薄田隼人(薄田兼相)は本来、諸国を巡って修行した戦国無双の豪傑である。

薄田隼人(薄田兼相)が江戸幕府軍を石川の東へと押し返して奮闘していると、江戸幕府軍の先鋒・水野勝成が側面から鉄砲を撃ちかけたので、薄田隼人(薄田兼相)は小高い山の上へと撤退した。

薄田隼人(薄田兼相)はしばらく山の上から状況を伺っていたが、再び山を下りて江戸幕府軍に決戦を挑んだ。薄田隼人(薄田兼相)は長刀が折れると、槍に持ち替え、槍が折れると刀に持ち替えて敵を次々となぎ倒した。

それを見た江戸幕府軍の先鋒・水野勝成が「奴を討ち取れ」と命じると、水野勝成の軍から川村新八という武者が飛び出して、馬上の薄田隼人(薄田兼相)に斬りかかった。

薄田隼人(薄田兼相)は身を逸らして薄田隼人(薄田兼相)の太刀をかわし、刀を振り下ろしたが、川村新八の兜は分厚かったので、刀は跳ね上がり、薄田隼人(薄田兼相)は体勢を崩した。

川村新八は薄田隼人(薄田兼相)の足に組み付き、薄田隼人(薄田兼相)を馬から引きずり下ろそうとすると、薄田隼人(薄田兼相)は川村新八を吊り上げて首を折ろうとした。

それを見た中川島之介が水野勝成軍から飛び出してきて、薄田隼人(薄田兼相)の馬を槍で突いたので、馬が前のめりになり、薄田隼人(薄田兼相)は馬から落ちた。

それでも薄田隼人(薄田兼相)は川村新八を取り押さえて馬乗りになったまま、中川島之介も取り押さえようとした。

そのとき、水野勝成の小姓・寺島助九郎が飛び出でて、馬乗りになっている薄田隼人(薄田兼相)の足を切り落とした。

足を切り落とされた薄田隼人(薄田兼相)が大きくのけぞったので、川村新八と中川島之介が薄田隼人(薄田兼相)を刺し、最後に川村新八が薄田隼人(薄田兼相)の首を打った。

こうして、薄田隼人(薄田兼相)は大坂夏の陣の「天王寺の戦い」で討ち死にした。薄田隼人(薄田兼相)の年齢は不詳だが、一説によると、薄田隼人(薄田兼相)は享年23であったという。

なお、薄田隼人(薄田兼相)を討ち取ったのは、伊達政宗の先鋒・片倉重長の家臣・渋谷右馬介という説や、本多忠政の家臣という説も伝わっている。

■講談で有名な岩見重太郎のモデル
江戸時代に、真田幸村(真田信繁)・後藤又兵衛(後藤基次)・岩見重太郎の3人が講談や歌舞伎で有名になった。

薄田隼人(薄田兼相)は諸国を武者修行した経歴から、諸国を漫遊しながら各地で狒々や大蛇を退治したり、父の仇を宮津の天橋立で討ったりした岩見重太郎のモデルとされることがある。

しかし、講談や歌舞伎に登場する岩見重太郎は、あくまでも架空の人物であり、薄田隼人(薄田兼相)と同一人物では無い。

その他、大坂冬の陣・大坂夏の陣で活躍した武将や逸話については、「真田幸村(真田信繁)の生涯」をご覧ください。

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