花森安治が雑誌「暮らしの手帖」に広告を掲載した理由

雑誌「暮らしの手帖」の創設者である大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯を紹介する実話「とと姉ちゃん 大橋鎭子と花森安治の生涯」の番外編「花森安治が雑誌『暮らしの手帖』に広告を掲載した理由」です。

■暮しの手帖が広告を掲載しない理由
雑誌「暮らしの手帖」は「広告を掲載しない雑誌」として有名だ。雑誌「暮らしの手帖」が広告を掲載しないのは、創刊時の編集長・花森安治からの方針で、広告を掲載しない理由は、2つある。

1つ目は、編集技術の問題で、苦労してレイアウトなどを考えても、広告がレイアウトを崩すという理由である。

編集長・花森安治は、独裁的な編集長で、雑誌の全てを手の中に収めて置きたかったため、自身の手の及ばない広告を掲載することを嫌っていた。

2つ目は、広告を載せると、商品の正しい批評や紹介がやりにくいという理由である。

編集長・花森安治は雑誌「暮らしの手帖」の柱の1つである「商品テスト」に力を入れており、広告主から圧力がかかるのを嫌い、「商品テストは紐付きであってはならない」と言っている。

こうした創刊時の編集長・花森安治の思想により、雑誌「暮らしの手帖」は現在も広告を掲載しないという方針を守っている。

しかし、雑誌「暮らしの手帖」が一度も広告を掲載しなかったわけではない。雑誌「暮らしの手帖」には「過去に1度だけ広告を掲載した」という暗黒史があるのだ。

■雑誌「暮らしの手帖」が掲載した幻の広告
「広告を掲載しない」という売り文句の雑誌「暮らしの手帖」は、過去に1度だけ「広告を掲載しない」という主義を破り、広告を掲載したことがある。

実は、雑誌「美しい暮らしの手帖」(後に「暮しの手帖」へと改名)の第3号に、資生堂の「ゾートス化粧品」の広告が掲載されたのである。

花森安治と大橋鎭子は最初、出版社「衣装研究所」を設立して、雑誌「スタイルブック」を創刊した。

雑誌「スタイルブック」の創刊号は爆発的に売り上げたが、直ぐに噂が広まり、翌年には似たような雑誌が30誌も40誌も誕生し、「スタイルブック」は売れなくなってしまった。

そこで、花森安治と大橋鎭子は、出版社名を出版社「暮らしの出版社」へと変更し、婦人誌「美しい暮らしの手帖」を創刊した。

しかし、婦人誌「暮らしの手帖」は全く売れず、出版社「暮らしの出版社」は第3号で倒産の危機を迎え、原稿料などが払えなくなってしまった。

そこで、資生堂のデザイナー山名文夫からの提案で、編集長・花森安治は原稿料などの代わりとして、雑誌「美しい暮らしの手帖」第3号に裏表紙に、資生堂の「ゾートス化粧品」の広告を掲載したのである。

編集長・花森安治は広告に潔癖な性格だったが、お金が払えないので、仕方なかったのだろう。

資生堂の「ゾートス化粧品」は、雑誌「美しい暮らしの手帖」第3号の初版だけに掲載され、バックナンバーには掲載されていない幻の広告であり、雑誌「暮しの手帖」の歴史の中で、広告が掲載されたのは後にも先にもこの1度だけである。

ただし、資生堂の「ゾートス化粧品」の広告に関しては、「広告料をもらっておらず、資生堂に誌面を提供しただけなので、広告では無い」という主張もある。

なお、出版社「暮らしの出版社」は赤字が続き、第3号で倒産の危機を迎えたが、社長・大橋鎭子が以前に務めていた日本興業銀行から20万円(2000万)を借りる事が出来たので、倒産を免れた。

そして、出版社「暮らしの出版社」は、東久邇成子(照宮)の手記「やりくりの気」をい掲載した雑誌「美しい暮しの手帖」第5号を切っ掛けに、販売部数が伸びていき、黒字転換する事が出来た。

実話「とと姉ちゃん 大橋鎭子と花森安治の生涯」の目次は「とと姉ちゃん 大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治の生涯」をご覧ください。

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