とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯のあらすじとネタバレ

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモデルとなる大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯を描く実話「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」の大橋鎮子(大橋鎭子)編です。

このページは「大橋鎭子(大橋鎮子)の生涯」からの続きです。

実話「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」の目次は「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」をご覧ください。

■これまでのあらすじとネタバレ
大橋鎮子(大橋鎭子)が11歳の時に父・大橋武雄が死去。大橋鎮子(大橋鎭子)は父の葬儀で喪主を務め、以降、大橋家の戸主(家長)として母と妹2人を背負うことになる。

大橋鎮子(大橋鎭子)は、北海道に住む母方の祖父・宮原満吉の支援により、第六高等女学校(東京都立三田高校)へと進学する。母・大橋久子(宮原久子)が指輪や着物を売ってなんとか生活しており、女学校時代に貧乏で苦労する。

大橋鎮子(大橋鎭子)は、17歳の時に第六高等女学校(東京都立三田高校)を卒業して、日本興業銀行に就職する。日本興業銀行の調査課に配属され、編集の基礎を学ぶ。

「もっと勉強しなければ」と思うようになった大橋鎮子(大橋鎭子)は、20歳の時に3年務めた日本興業銀行を辞めて日本女子大学の家政科二類に入学する。

しかし、大橋鎮子(大橋鎭子)は1年前に引いた風邪が長引いており、母・大橋久子(宮原久子)が「お父さんのように肺病になったらどうするの」と号泣するため、大橋鎮子(大橋鎭子)は入学から半年で学業を断念し、療養に専念した。

詳しくは分からないが、療養に専念した大橋鎮子(大橋鎭子)は、年が明けた昭和16年(1941年)に正式に日本女子大学を退学し、昭和16年(1941年)の春までに病気は回復したようである。

■大橋鎮子(大橋鎭子)が日本読書新聞に入社
日本女子大学を辞めた年(昭和16年)の春、大橋鎮子(大橋鎭子)は21歳になっていた。

大橋鎮子(大橋鎭子)が日本読書新聞を読んでいると、日本読書新聞が女性を求人していたので、日本読書新聞の面接を受ける。

大橋鎮子(大橋鎭子)は、日本興業銀行の調査課で編集の仕事をした経験があったので、直ぐに採用され、日本読書新聞に就職した。そして、同年、日本出版文化協会の秘書室に転勤になった。

世界では、2年前の昭和14年(1939年)9月にドイツ軍がポーランドへと侵攻した事を発端に、第二次世界大戦が勃発していた。

日本は、まだ第二次世界大戦にには参戦していた無かったが、昭和12年(1937年)から日中戦争へ突入し、昭和15年(1940年)には近衛文麿総理の元で「一国一党体制」「新体制」を築くための国策機関「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」が発足していた。

このようななか、日本政府は出版物の検閲を強化するため、昭和15年(1940年)12月に日本出版文化協会を設立。日本出版文化協会は出版物を審査し、出版物の内容によって紙の配給を決定する国策機関である。

日本読書新聞は大橋鎮子(大橋鎭子)が入社した年(昭和16年)に日本出版文化協会の機関誌となったので、大橋鎮子(大橋鎭子)は日本読書新聞から日本出版文化協会の秘書室へ出向したのである。

そして、大橋鎮子(大橋鎭子)が日本出版文化協会へ移った昭和16年(1941年)の12月に、日本は第二次世界大戦への参戦を決定し、真珠湾攻撃を行った。

戦争の影響で、昭和18年(1943年)3月に日本出版文化協会の首脳陣が一新され、日本出版文化協会は「日本出版会」へと改組された。

大橋鎮子(大橋鎭子)は日本出版文化協会の改組にともない、日本読書新聞へと戻る。日本読書新聞は引き続き、日本出版会の機関誌として、第二次世界大戦中も出版を続けた。

しかし、終戦を目前とした昭和20年(1945年)4月、日本読書新聞の編集長・田所太郎や編集部員に召集令状が届き、日本読書新聞は休刊に追い込まれてしまう。

さて、東京は昭和19年11月以降、空襲を受けるようになっており、昭和20年3月には死者10万人を出す「東京大空襲」と呼ばれる大規模な空襲が行われた。

このため、大橋鎮子(大橋鎭子)は山梨県身延の農家に疎開する約束をしていたのだが、召集された編集長・田所太郎の家族に疎開先を譲り、同僚と共に田所一家の疎開を手伝った。

編集長・田所太郎の自宅は空襲で焼かれてしまったが、空襲の10日前に編集長・田所太郎の家族は疎開していたので、家族の命は助かった。

さて、日本政府は、空襲で起きる火事が広まるのを防ぐため、大井第一小学校の周辺を強制疎開させ、建物を取り壊し、更地にした。

大井に在る大橋鎮子(大橋鎭子)の自宅は空襲を逃れていたが、強制疎開により、引っ越しを余儀なくされた。さいわい鹿島神社の持ち家に空きがあったので、大橋一家は鹿島神社の空き家を借りて引っ越した。

大橋鎮子(大橋鎭子)の自宅は、柱にロープをくくりつけ、トラックでロープを引っ張って引き倒され、あっけなく、崩壊してしまった。

昭和20年(1945年)8月6日には広島県に原爆が投下され、3日後の昭和20年8月9日に長崎県に原爆が投下された。

東京では、「戦争が終わる」という噂が流れており、25歳の大橋鎮子(大橋鎭子)は防空壕の中で、戦争が終わった後、どうやって生活していこうかを考えていた。

勤め人では給料が安いので、母や妹を幸せにする事が出来ない。そこで、大橋鎮子(大橋鎭子)は自分で仕事をしようと考えた。

大橋鎮子(大橋鎭子)は「大空襲で焼け出された人は家を建てるでしょう。おじいさんがやっていた木材屋をやりたい」と相談する。

しかし、母・大橋久子(宮原久子)は「木材屋は馬を引いて山に入り、木の善し悪しを見分けなければなりません。女の人のやる仕事ではありません」と言って反対したので、木材屋は断念した。

大橋鎮子(大橋鎭子)は戸袋洋裁学校へ通っていたし、防空壕に入る時は、いつも母のミシンを大事に抱えて逃げていたので、洋裁屋を始めようとも考えたが、洋裁屋を初めても、店の前を通る人にしか売れないので、お金持ちにはなれない。

大橋鎮子(大橋鎭子)は特別に得意なことも無く、良い仕事が思いつかなかった。もし、自分に得意なものがあるとすれば、それは知恵だと思った。

そして、大橋鎮子(大橋鎭子)は知恵を本にして売る事を思いついた。雑誌を売ってお金持ちになり、母や妹を幸せにいしようと思った。大橋鎮子(大橋鎭子)が25歳の夏である。

■川端康成と出会う
昭和天皇は昭和20年(1945年)8月15日に玉音放送を行い、日本は終戦を迎えた。

昭和20年(1945年)8月20日に招集されていた編集長・田所太郎などが復員し、招集されていた他の編集員も復員した。

こうして、昭和20年(1945年)8月に日本読書新聞の編集員が揃い、休刊になっていた日本読書新聞が再開される事になった。大橋鎮子(大橋鎭子)も日本読書新聞に復帰し、復刊に奔走する。

日本読書新聞の復刊に向けて会議が行われ、復刊第1号は有名な先生の記事を取り入れたいということになり、小説「雪国」「伊豆の踊子」などで有名な人気作家・川端康成に原稿を書いてもらう事が決まった。

そして、大橋鎮子(大橋鎭子)は、川端康成に原稿を依頼するという大役を命じられたのである。

川端康成は鎌倉に住んでいた。大橋鎮子(大橋鎭子)は川端康成の自宅の玄関を開け、「ごめんください、ごめんください」と何度も声を掛けると、川端康成本人が出てきた。

そこで、大橋鎮子(大橋鎭子)が日本読書新聞の復刊第1号に原稿3枚をお願いすると、川端康成は「分かりました。書きましょう」と言って快く引き受けてくれた。

大橋鎮子(大橋鎭子)は嬉しくて、嬉しくて、飛ぶような気持ちで東京へと帰り、川端康成が原稿を引き受けてくれた事を報告すると、編集長・田所太郎を初め、みな大喜びであった。

しかし、大橋鎮子(大橋鎭子)は約束の日に原稿を取りに行くと、川端康成は「まだ出来てない。5日後にまた来なさい」と言った。

大橋鎮子(大橋鎭子)は、それから5日後に再び原稿を取りに行くと、川端康成は「まだ出来てない。5日後に来なさい」と言った。

それから5日後、大橋鎮子(大橋鎭子)は「今日できてなければ、ダメだろう」と思いながらも、原稿を取りに行くと、玄関に出てきた川端康成は「まだ出来てない」と言った。

大橋鎮子(大橋鎭子)は川端康成の顔を見ていると突然、涙が溢れてきた。

すると、川端康成は大橋鎮子(大橋鎭子)の涙に驚いたのか、「書いてあげる。書いてあげる」と言い、机の前に大橋鎮子(大橋鎭子)を座らせると、原稿を書き始めた。

川端康成は書いては破り、書いては破りを繰り返し、2時間ほどで原稿を書き上げた。大橋鎮子(大橋鎭子)は川端康成の原稿をもって飛ぶような気持ちで東京へと戻った。

川端康成の原稿を抱えた大橋鎮子(大橋鎭子)が、お茶の水の駅を出たとき、大橋鎮子(大橋鎭子)の片方の下駄の鼻緒が切れてしまった。

大橋鎮子(大橋鎭子)は下駄の鼻緒を直そうと思ったが、一刻も早く編集長・田所太郎らに川端康成の原稿を届けたかったので、鼻緒が切れた片方の下駄を手に持ち、日本読書新聞へと急いだ。

日本読書新聞に出入りしていた花森安治は偶然、そこに居合わせており、鼻緒が切れてしゃがみ込んでいる大橋鎮子(大橋鎭子)に声を掛けようとした瞬間、大橋鎮子(大橋鎭子)が下駄を片手に走り出した。

花森安治は、モンペ姿に片方は裸足で片方は下駄という奇妙な出で立ちで走って行く大橋鎮子(大橋鎭子)を見て驚いた。・・・なんという女だ。

しかし、その後、花森安治は日本読書新聞を訪れて、大橋鎮子(大橋鎭子)が川端康成の原稿を持っていたことを知り、大橋鎮子(大橋鎭子)が片方の下駄を抱えて走っていた事に納得した。

日本読書新聞が人気作家・川端康成の記事を掲載できるというのは、奇跡とも言えるスクープだったのである。

■花森安治と出会う
日本読書新聞の復刊が一段落したある日、大橋鎮子(大橋鎭子)は編集長・田所太郎に、苦労して育ててくれた母や祖父に恩返しするため、雑誌を出版したいと相談する。

編集長・田所太郎は、大橋鎮子(大橋鎭子)が家族に疎開先を譲ってくれた恩があるので、親身になってて相談に乗り、花森安治に相談する事を熱心に勧めた。

花森安治は戦中、新体制・一国一党を実現するために設立された国家機関「大政翼賛会」の宣伝部に入り、行事の前に1分間「宮城(皇居)に向かって最敬礼」をする宮城遥拝(きゅうじょうようはい)を創案するなどして、国威発揚・戦意高揚に貢献した宣伝マンである。

森安治は、戦時中に「欲しがりません、勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの国威発揚のスローガンを考えた宣伝マンと言われるが、スローガンを考えたのは別人で、森安治はあくまでもポスターを手がけただけである。

さて、終戦を迎えて大政翼賛会が解散すると、花森安治は無職となり、友人の田所太郎が編集長を務める日本読書新聞の復刊を手伝い、日本読書新聞でカット(イラストや挿絵)を描いていた。

この頃の花森安治は、カット(イラストや挿絵)の才能の片鱗はあるが、平凡なイラストレーターの域を出ないという程度の評価で、編集員としての評価は皆無であった。

しかし、編集長・田所太郎は、花森安治と旧制松江高校・東京帝国大学時代の同級生で、花森安治が手がけた校友会雑誌や帝都大学新聞で見せた編集長としての才能を知っていたので、大橋鎮子(大橋鎭子)に花森安治を紹介したのである。

大橋鎮子(大橋鎭子)は、日本読書新聞の復刊を通じて花森安治の顔は知っていたが、花森安治とは挨拶をする程度で、「顔が怖くて、近寄りがたい」と思っていたため、花森安治と話したことは無かった。

しかし、編集長・田所太郎が熱心に勧めてくれたので、大橋鎮子(大橋鎭子)は花森安治の元へ行き、雑誌を出して母親や祖父に恩返しがしたいと相談する。

すると、花森安治は「僕は母親に親孝行が出来なかったから、君のお母さんへの孝行を手伝ってあげよう」と言って、その場で協力を約束してくれた。

花森安治は、祖父の代から貿易商を営む裕福な家庭の長男として生まれたが、父・花森恒三郎が遊び人で、競馬・相場・株に手を出した挙げ句、他人の連帯保証人となって財産を失った。

さらに、花森安治が8歳の時に火事で家を焼失したため、一夜にして長屋暮らしに転落していた。

以降は母「花森よしの」が薬局や荒物屋を営みながら、夜は裁縫の内職を続けて家計を支え、花森安治ら6人の子供を育てた。

そして、花森安治は、母・花森よしのが内職して貯めた金で旧制松江高校(島根大学)へと進学する事が出来た。

しかし、母・花森よしのは心労が祟ったのか、花森安治が旧制松江高校に入学した最初の夏に心臓病で死んでしまったので、花森安治は母親に何も親孝行が出来なかったのである。

雑誌作りの協力を約束した花森安治は、翌日、大橋鎮子(大橋鎭子)をニコライ堂の側の小さな喫茶店に誘い、「君はどんな雑誌を作りたいのか?僕は二度と戦争が起らないようにする。そういう雑誌を作りたい」と尋ねると、大橋鎮子(大橋鎭子)は「花森さんの仰るとおりに致します」と答えた。

すると、花森安治は「今度の戦争に女性の責任は無い。それなのに酷い目に遭った。僕には責任がある。女の人が幸せで、みんなに温かい家庭があれば、戦争は起らなかったと思う。だから、君の仕事に僕は協力しよう」と告げた。

そして、花森安治が結婚について尋ねると、大橋鎮子(大橋鎭子)は雑誌を出版する事で頭がいっぱいだったので、「仕事を続けたいので、結婚はしません」と答えた。

花森安治が「誓うか?」と尋ねると、大橋鎮子(大橋鎭子)は「はい」と答えた。

結婚しないと誓った大橋鎮子(大橋鎭子)は以降、花森安治と何度も協議を重ね、「女性に役立つ雑誌」「暮らしが良くなる雑誌」「衣食住を取り上げた雑誌」と雑誌の方向性を固めていった。

花森安治の協力を得られたのは、大橋鎮子(大橋鎭子)にとって幸運なことであった。

実は、このころ、広告マンが集まって年末に広告宣伝会社を設立するために準備を進めていた。花森安治は広告宣伝会社の中心人物の1人で、毎日、何人かで集まって会議を重ねていた。

大橋鎮子(大橋鎭子)が花森安治に声を掛けるのが数日遅ければ、花森安治は広告宣伝会社を設立するため、大橋鎮子(大橋鎭子)の雑誌作りに協力していなかったのである。

実際、花森安治が大橋鎮子(大橋鎭子)の雑誌作りに協力する事になったため、広告宣伝会社を設立する話は無くなってしまった。

このため、大橋鎮子(大橋鎭子)は、広告宣伝会社を設立しようとしていたメンバーから「花森を奪った孝行娘」と呼ばれた。

昭和20年(1945年)11月、大橋鎮子(大橋鎭子)は、母・宮原久子と妹・大橋晴子(横山晴子)と末妹・大橋芳子に、女性に役立つ雑誌を出版することを打ち明けて協力を要請すると、3人とも協力を約束してくれた。

こうして、大橋鎮子(大橋鎭子)は日本読書新聞を退社し、花森安治と共に雑誌を出版するために動き出したのである。

昭和20年(1945年)、大橋鎮子(大橋鎭子)が25歳、花森安治が34歳のことであった。

花森安治の生涯のあらすじとネタバレ」へ続く。

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