大坂夏の陣-塙団右衛門と後藤又兵衛が討死
NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村の生涯を描く「真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村編「大坂夏の陣-塙団右衛門と後藤又兵衛が討死」です。
このページは「大坂夏の陣」からの続きです。
真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。
■これまでのあらすじとネタバレ
徳川家康が慶長19年(1614年)11月1日に発動した大坂冬の陣は、同年12月に徳川家康と豊臣秀頼の間で和睦が成立した。
この和睦によって、大阪城は本丸を残して「二の丸」「三の丸」が破壊され、内堀も外堀も埋めたてられ、丸裸となった。
その後、豊臣秀頼は牢人を扶持放し(解雇)したが、行く当ての無い牢人は大阪城に留まり、豊臣衆・主戦派の大野治房・長宗我部盛親・毛利勝永らが戦の準備を開始した。
徳川家康は豊臣秀頼に「牢人の扶持放し(解雇)」か「大和か伊勢への転封」を突きつけたが、豊臣秀頼はこれを拒否した。
このため、大坂冬の陣の和睦からわずか5ヶ月後の慶長20年(1615年)4月に大坂夏の陣が勃発するのであった。
■大坂夏の陣-松平忠輝の出陣
大坂夏の陣(豊臣征伐)を発動した徳川家康は、京都の二条城に入ると、豊臣秀頼に使者を派遣して、牢人を抱え続けている件や戦の準備を始めている件について問いただし、「疑いを晴らすまで、大和の郡山城へと移ってください。大阪城を修復してお返しします」と提案した。
一説によると、徳川家康が問題としたのは大阪城に居座る大量の牢人であり、徳川家康は豊臣秀頼が大和の郡山城へ移っている間に、大阪城の牢人を一掃し、豊臣秀頼に大阪城を返そうとしたという。
しかし、豊臣秀頼からの返答は無かった。
そこで、徳川家康は、京都近郊に集まった17万の江戸幕府軍を2手に分け、まずは、松平忠輝を総大将とした大和口方面軍3万5000を出陣させた。大和口方面軍は大和(奈良県)を経由して大阪城を目指す迂回部隊である。
大和口方面軍・松平忠輝を大和(奈良県)から迂回させたのは、徳川家康が豊臣恩顧である和歌山藩主・浅野幸長の裏切りを警戒していたからである。
続いて、徳川家康・徳川秀忠を総大将とした江戸幕府軍本隊13万5000が京都を出陣する予定だったが、京都で放火があるという噂が聞こえてきたため、徳川家康は出陣を延期した。
一説によると、豊臣衆の御宿政友が、江戸幕府軍の京都に足止めするため、京都所司代・板倉勝重に偽りの放火計画を密告したのだという。
なお、大坂夏の陣で江戸の留守を命じられていた黒田長政・加藤嘉明は、大坂夏の陣で出陣が許されたが、福島正則・平野長泰は大坂冬の陣に引き続き、大坂夏の陣でも江戸の留守を命じられている。
■大坂夏の陣-郡山城の戦い
さて、大坂冬の陣で、事実上の豊臣軍の総大将だった大野治長は、大坂冬の陣で徳川家康と和睦した後、求心力を失っていたが、大坂冬の陣で徳川家康との決戦が決定すると、再び豊臣軍の事実上の総大将として豊臣軍を指揮した。
慶長20年(1615年)4月27日深夜、大野治長は、牢人・後藤又兵衛(後藤基次)ら2000を率いて大和(奈良県)の郡山城を攻めた。
徳川家康は豊臣秀頼に「疑いを晴らすまで、大和の郡山城へと移ってください。大阪城を修復してお返しします」と提案しいたが、豊臣家はこれに対して返事をしていなかった。
大野治長が最初に大和(奈良県)の郡山城を攻めたのは、徳川家康に対する明確な意思表示だったと考えられる。
大和・郡山城の守将・筒井定慶は農民などを含めて1000人で籠城しようとしたが、兵士が豊臣の大軍が攻めてきたと勘違いして逃げ出してしまったため、郡山城の守将・筒井定慶も城を捨てて逃げることを余儀なくされた。
空となった大和・郡山城を攻め落とした大野治長は、奈良の竜田や法隆寺へと兵を進めて各地を放火していたが、江戸幕府軍・大和方面軍の先鋒・水野勝成が大和(奈良県)へと入ったため、大野治長は大和・郡山城を捨てて撤退した。
(注釈:大坂の陣の解説本でも「郡山城の戦い」は省略される事が多いが、大坂夏の陣は「郡山城の戦い」から始まる。)
■大坂冬の陣-樫井の戦い
ところで、豊臣家の大野治長は、豊臣恩顧の和歌山藩主・浅野幸長を味方に付けるため、使者を送っていた。
和歌山藩主・浅野幸長は、父・浅野長政が高台院(豊臣秀吉の正室)の義弟にあたり、豊臣家の一族であった。そして、父・浅野長政は豊臣政権で五奉行の筆頭を務めた豊臣恩顧中の恩顧であった。
そこで、大野治長は、和歌山藩主・浅野幸長が豊臣家に寝返れば、他の豊臣恩顧も豊臣家に寝返ると考えたのである。
しかし、徳川家康も和歌山藩主・浅野幸長の裏切りを警戒しており、大坂夏の陣を前に、9男・徳川義直と和歌山藩主・浅野幸長の娘・春姫(高原院)との結婚させ、浅野長政の嫡男・浅野長晟と振姫(徳川家康の3女)を結婚させるという二重の婚姻関係で浅野家との関係を強化していた。
このため、和歌山藩主・浅野幸長は豊臣家に寝返らなかった。
ところで、豊臣家の大野治長は、和歌山藩主・浅野幸長に内応を求める一方で、紀伊国(和歌山県)で一揆の扇動をしていた。
和歌山藩主・浅野幸長は一揆の兆しがあったため、出陣を見合わせていたが、江戸幕府からの催促を受け、慶長20年(1615年)4月28日に大阪城へ向けて出陣した。
浅野幸長の出陣を知った豊臣家の大野治長は、浅野幸長の説得を諦め、浅野幸長を迎え撃つため、牢人の御宿政友・塙団右衛門(塙直之)・岡部大学(岡部則綱)など3000を率いて出陣し、和歌山を目指して南下した。
和歌山に向かう道中に岸和田城がある。岸和田城は豊臣恩顧にありながら、大坂冬の陣の時に徳川に味方した裏切り者なので、豊臣家の大野治長は岸和田城を攻めた。
しかし、岸和田城は堅く守っていたので、大野治長は岸和田城を攻め落とすのを後回しにし、一部の兵を岸和田城の押さえにに残して先を急いだ。
また、堺は豊臣秀吉の恩受けていたにもかかわらず、大坂冬の陣では徳川家康を支援した恩知らずなので、大野治長は裏切った堺の街を焼き払い、町民を惨殺しながら、和歌山を目指した。
このようななか、豊臣軍の先陣・塙団右衛門(塙直之)と岡部大学(岡部則綱)は、先手の巧を争って、大野治長から離れて、勝手に南下していた。
塙団右衛門(塙直之)は、前年の大坂冬の陣で江戸幕府軍の蜂須賀至鎮に夜討を掛けて成功させ、「夜討ちの大将 塙団右衛門(塙直之)」としてその名をとどろかせた牢人である。
一方、泉佐野に本陣を置いていた浅野幸長は、豊臣軍が2万の大軍で南下する準備を始めているという報告(誤報)を受けて軍議を開いた。
ちょうど、泉佐野から1里南に樫井(かしい)という場所があって、樫井には林と沼地があり、1度に大軍が通る事が出来ないので、大軍を迎え撃つには最適な場所だった。
そこで、浅野幸長の家臣・亀田高綱が、樫井(かしい)で豊臣の大軍を迎え撃つ作戦を提案すると、浅野幸長は亀田高綱の献策を受けて、1里後退して樫井まで退き、豊臣軍を迎え撃つ準備を整えた。
慶長20年(1615年)4月29日、豊臣家の先陣・塙団右衛門(塙直之)は、泉佐野に至ったが、既に浅野幸長は撤退した後だったので、更に南下し、浅野幸長が待ち構えていた樫井で交戦となる(樫井の戦い)。
4時間に渡る激戦の中で、豊臣軍の塙団右衛門(塙直之)や淡輪重政が戦死し、豊臣軍の岡部大学(岡部則綱)も負傷して敗走した。
このとき、豊臣軍の大野治長は、貝塚に布陣していた。大野治長は、和歌山で起きる一揆を合図に浅野幸長を挟み撃ちにする作戦を立てていたので、先陣の塙団右衛門(塙直之)らが勝手にで南下し、和歌山藩主・浅野幸長と戦っている事など知らなかった。
豊臣軍の大野治長は、塙団右衛門(塙直之)の敗戦を聞いて驚き、急いで御宿政友・長岡正近を救援に差し向けた。
しかし、既に紀州藩主・浅野幸長は撤退した後だったので、大野治長は塙団右衛門(塙直之)らの遺体を埋葬すると、体勢を立て直すため、大阪城へと引き上げた。
なお、大野治長は塙団右衛門(塙直之)らを死なせたため、御宿政友らから反感を買い、求心力を低下させた。
■大坂夏の陣-道明寺の戦い
慶長20年(1615年)4月29日、大阪城に戻った大野治長は軍議を開いた。大阪城は丸裸になったとはいえ、川や湿地帯を利用した天然の要害だっただめ、大軍を配置できるのは大阪城の南方だけだった。
豊臣軍は少数のうえ、徳川家康は野戦の名人と言われていたため、野戦は明らかに不利だった。そこで、豊臣軍は江戸幕府軍が兵を展開する前に迎撃する作戦に出る。
このとき、江戸幕府軍は、大和方面軍の総大将・松平忠輝が伊達政宗ら3万5000の軍勢を率いて京都を出陣していたが、徳川家康・徳川秀忠は京都で放火計画があるという噂を受けて出陣を延期しており、未だに京都に留まっていた。
そこで、豊臣家の軍議では、大和(奈良県)方面が重要視されたようだ。
軍議では、豊臣家の七手組が天王寺で江戸幕府軍を迎え撃つ作戦が出たが、後藤又兵衛(後藤基次)が大和方面で江戸幕府軍を迎え撃つ作戦を主張すると、真田幸村・木村重成・薄田隼人(薄田兼相)らが後藤又兵衛(後藤基次)に賛同し、豊臣軍は大和方面で江戸幕府軍を迎え撃つことになった。
別説では、後藤又兵衛(後藤基次)が大和方面での迎撃作戦を主張したが、聞き入れられなかったので、功を焦って勝手に大和方面へと出陣した。このため、真田幸村らが後藤又兵衛(後藤基次)を支援するため、後陣として出陣したという。
いずれにせよ、後藤又兵衛(後藤基次)・薄田兼相・キリシタン明石全登(明石掃部)らが6400が先陣として大阪城を出陣し、真田幸村・毛利勝永・大谷吉治ら1万2000が後陣として大阪城を出陣した。
慶長20年(1615年)5月5日、後藤又兵衛(後藤基次)らは平野に宿営して軍議を開き、5月6日夜明けに道明寺で合流して、江戸幕府軍が兵を展開する前に国分村の狭隘地で江戸幕府軍を迎え撃つ作戦が決定した。
慶長20年(1615年)5月6日午前0時、後藤又兵衛(後藤基次)は手勢2800を率いて平野を出発し、藤井寺を経て道明寺に入るが、濃い霧の影響で豊臣軍は誰1人として道明寺に来ていなかった。
(注釈:一般的に、他の豊臣軍が霧で遅刻したとされるが、後藤又兵衛(後藤基次)は味方から裏切りが噂されていたので、手柄を挙げるため、先駆けして1人で進軍したという説もある。)
道明寺に入った後藤又兵衛(後藤基次)が物見を送ると、既に江戸幕府軍の水野勝成が国分村の狭隘地に兵を展開し、攻撃態勢に入っていた。
先鋒・水野勝成は江戸幕府軍・大和方面軍の先鋒で、大和(奈良県)に布陣していたのだが、後陣が大和に入ってきたので、道明寺付近まで兵を進め、初めは国分村の南にある小高い山「小松山」に布陣しようとして、小松山を検分していた。
しかし、密偵から豊臣軍2万が襲来するという報告を受けたので、小松山に布陣すると豊臣の大軍に包囲される危険があると考え、先鋒・水野勝成は小松山に布陣するのを中止し、狭隘地へ引き込んで豊臣の大軍を迎え撃つため、国分村に布陣していたのである。
豊臣軍は国分村の狭隘地で江戸幕府軍を迎え撃つ作戦を立てていたが、既に江戸幕府軍の先鋒・水野勝成に陣取られていた。
作戦の破綻を悟った後藤又兵衛(後藤基次)は、手勢2800を率いて東へと進み、石川(川の名前)を渡って小高い山「小松山」に陣を敷いた。
それを見た大和方面軍の先鋒・水野勝成は、小松山に布陣した後藤又兵衛(後藤基次)に攻撃を開始する。
その後、江戸幕府・大和方面軍の伊達正宗・本多忠政・松平忠明が駆けつけ、大和方面軍は小松山の後藤又兵衛(後藤基次)を三方から激しく攻め立てた。
なお、伊達政宗は大坂夏の陣のとき、大量の鉄砲を用意し、騎馬隊に鉄砲を持たせた騎馬鉄砲隊を編成していたとされる。
ただし、伊達政宗の手勢に騎馬鉄砲隊が居たとしても、大部隊とは考えにくい。また、ドラマや漫画のように、馬に乗りながら鉄砲を撃つような騎馬鉄砲隊は後世の創作と考えられている。
さて、小松山に布陣した後藤又兵衛(後藤基次)は何度も江戸幕府軍を押し返したが、伊達正宗が鉄砲を撃って小松山を攻め上がり、後藤又兵衛(後藤基次)を小松山から追い落とした。
伊達正宗に攻められた後藤又兵衛(後藤基次)は、平地へ下りて江戸幕府軍に決戦を挑み、江戸幕府軍の1軍、2軍を打ち破ったが、多勢に無勢で、後藤又兵衛(後藤基次)の先鋒が江戸幕府軍に包囲されてしまう。
後藤又兵衛(後藤基次)は単騎で敵軍に切り込み、取り囲まれている味方を撤収させようとしたが、伊達政宗の先鋒・片倉小十郎(片倉重綱)の鉄砲に当たって落馬した。
後藤又兵衛(後藤基次)は腰の上を打ち抜かれて動けなくなり、「無念、この上ない」と悔しがり、槍を振り回して敵がくるのを待っていた。
そこへ、後藤又兵衛(後藤基次)の従兵・金方平左衛門がやってきた。金方平左衛門は肩を貸して後藤又兵衛(後藤基次)連れて引こうとしたが、後藤又兵衛(後藤基次)は大男だったうえ、大指物を指していたので重かった。
しかも、後藤又兵衛(後藤基次)がここで死ぬというので、後藤又兵衛(後藤基次)を連れて撤退するのは難しかった。
後藤又兵衛(後藤基次)が「敵の手にかかるな。私をうち捨てよ」と命じて兜を脱いだので、金方平左衛門は後藤又兵衛(後藤基次)を介錯して、その首を深田に埋めた。
こうして、後藤又兵衛(後藤基次)は8時間に渡る激戦の末、慶長20年(1615年)5月6日午前11時ごろに死んだ。後藤又兵衛(後藤基次)は享年56であった。
後藤又兵衛(後藤基次)の戦いは振りは凄まじく、「源平以来のこと」と褒め称えられた。
なお、別説によると、後藤又兵衛(後藤基次)を介錯したのは家臣・吉村武兵衛で、大阪冬の陣の後、吉村武兵衛は深田に埋めた後藤又兵衛(後藤基次)の首を掘り起こし、伊予(愛媛県)に埋葬した。
「大坂夏の陣-木村重成と桑名弥次兵衛が討死」へ続く。
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