大坂夏の陣-木村重成と桑名弥次兵衛が討死

NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村の生涯を描く「真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村編「大坂夏の陣-木村重成と桑名弥次兵衛が討死」です。

このページは「大坂夏の陣-塙団右衛門と後藤又兵衛が討死」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■大坂夏の陣-道明寺の戦い-午後
江戸幕府軍の大和方面軍は、後藤又兵衛(後藤基次)を撃破すると、残兵を追って西へと進み、石川を超えて道明寺へと迫る。

ちょうど、後藤又兵衛(後藤基次)が討ち死にした頃になり、ようやく豊臣軍・先鋒隊の薄田隼人(薄田兼相)・キリシタン明石全登・山川賢信らが道明寺に到着し、江戸幕府の大和方面軍を迎え撃った。

薄田隼人(薄田兼相)は大阪冬の陣のとき、大阪城の西に作った博労淵の砦を任されていたが、遊郭で女とチョメチョメしている間に、博労淵の砦を攻め落とされ、味方からも橙武者(見かけ倒し)と馬鹿にされるようになっていた。

しかし、元々、薄田隼人(薄田兼相)は諸国を巡り、剣術や柔術の修行をした豪傑である。押し寄せる敵をなぎ倒し、戦国無双の活躍で、大和方面軍を石川より東へと押し戻して奮闘した。

しかし、所詮は多勢に無勢である。薄田隼人(薄田兼相)は江戸幕府軍の水野勝成・伊達正宗・本多忠政・松平忠明に攻められ、やがて討ち死にしてしまう。

(注釈:薄田兼相が討ち死にしたときの状況は、「薄田隼人(薄田兼相)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

さて、豊臣軍の後陣である真田幸村(真田信繁)・毛利勝永・大谷吉治らも、後藤又兵衛(後藤基次)の死から1時間後に合流地点の道明寺付近に到着した。

真田幸村(真田信繁)は霧で夜明けが分からずに出発が遅れたと言い、後藤又兵衛(後藤基次)の討ち死にを聞いて「これで秀頼様の運命は尽きた」と嘆いたという。

さて、後藤又兵衛(後藤基次)の死を知った真田幸村(真田信繁)は、敗走してきた兵を吸収しつつ、誉田へ向けて進軍し、江戸幕府軍の伊達政宗の先鋒・片倉重長と銃撃戦となる。

伊達政宗の軍勢は後藤又兵衛(後藤基次)との戦いで疲れており、真田幸村(真田信繁)に苦戦し、後退を余儀なくされた。

真田幸村(真田信繁)は伊達政宗の軍勢を道明寺まで押し返すと、兵を立て直すため、藤井寺まで撤退した。

大和方面軍の先鋒・水野勝成は攻撃を主張したが、真田幸村(真田信繁)に苦戦した伊達政宗は、朝からの戦いで兵が疲労していると言い、攻撃に反対したので、豊臣軍と江戸幕府軍は、にらみ合ったまま膠着した。

このようななか、真田幸村(真田信繁)の元に、豊臣軍の別部隊である木村重成と長宗我部盛親が「八尾・若江の戦い」で徳川軍に大敗したという知らせが届く。

■大坂冬の陣-八尾・若江の戦い
徳川家康・徳川秀忠は、京都で放火の風説があったため、京都に留まっていたが、慶長20年(1615年)5月5日に江戸幕府軍の主力部隊を率いて京都を出陣して河内口から大阪へ入り、星田・砂に布陣していた。

そして、徳川家康・徳川秀忠は、翌日の5月6日に東高野街道を南下し、迂回させた大和方面軍と道明寺で合流する予定になっていた。

大阪城の警備をしていた豊臣軍の木村重成と長宗我部盛親は、徳川家康の動きを掴み、道明寺で徳川家康を迎え撃とうと考えたが、既に豊臣軍の後藤又兵衛(後藤基次)や真田幸村が道明寺に向けて出陣していた。

そこで、木村重成と長宗我部盛親は、道明寺へは向かわず、東高野街道を通過する徳川家康・徳川秀忠を側面から攻撃する作戦に出た。

木村重成は出陣する日の前夜、風呂に入って身を清め、髪を洗い、香を炊き込め、江口の曲舞「花の春の朝」を静かに舞い、余念無く小鼓を打った。

こうして、木村重成4500は慶長20年(1615年)5月6日午前2時に若江村へ向けて出陣した。また、同日午前4時頃に長宗我部盛親5000も八尾村へ向けて出陣した。

同日の午前4時頃に、豊臣軍の後藤又兵衛(後藤基次)が道明寺方面で、江戸幕府軍の大和方面軍と戦闘を開始しており、木村重成が進軍していると、鉄砲の音が聞こえてきた。

道明寺へと向かった牢人・後藤又兵衛(後藤基次)が小松山に布陣し、江戸幕府軍の大和方面軍と戦闘を開始したのである。

さて、徳川家康の先鋒・藤堂高虎は同日午前4時ごろ、物見から「人馬の足音が近づいてきているようだが、霧でよく分からない」と報告を受け、敵らしき者が居ることを知るが、霧が邪魔をして敵の状況を把握できない。

先鋒・藤堂高虎は軍議で攻撃を禁じられていので、徳川家康に指示を仰ぐため、徳川家康の本陣へと向かっていると、次第に霧が晴れてきて、玉串川の西に豊臣軍の木村重成と長宗我部盛親が布陣しているのが見えた。

先鋒・藤堂高虎は一刻の猶予も無いと考え、徳川家康の本陣へ行くのを止め、自陣に戻って戦の準備を始めていると、藤堂良勝が来て「豊臣軍は我らの方ではなく、若江へと向かっている。徳川家康・徳川秀忠の本陣を突こうとしているのではないか。横槍を入れるべきだ」と攻撃を主張した。

これを受けた藤堂高虎は、八尾村に布陣する豊臣軍の長宗我部盛親と、その北の若江村に布陣する木村重成への攻撃を開始する。

さて、木村重成は前年の大坂冬の陣で見事な初陣を果たし、豊臣秀頼から「日本無双の勇士」と評価されたが、実戦経験が少ないことが仇となっていた。

木村重成は午前2時に大阪城を出たが、霧の影響で道に迷い、ようやく、若江村に付いたのが、午前5時であった。

木村重成は若江村に着くと、軍を3つに分けて布陣し、右翼に攻めてきた江戸幕府軍・藤堂高虎を防がせた。

藤堂高虎の右先手の藤堂良勝・藤堂良重は、木村重成の右翼を攻めて激しく戦ったが、木村重成の右翼の反撃に遭い、藤堂良勝・藤堂良重は討ち死にしてしまう。

木村勢は大勝ちしたので、飯島三郎右衛門が「この手柄をもって大阪城へ引くべし」と意見したが、木村重成は「徳川家康と徳川秀忠の首を取っていない」と言いて飯島三郎右衛門の意見を退けた。

すると、藤堂高虎の北に居た江戸幕府軍の先鋒・井伊直孝は、藤堂高虎からの連絡を受けて西へと転進し、豊臣軍の木村重成への攻撃を開始した。

豊臣軍の木村重成は、鉄砲360丁と伏兵を用意して、敵をおびき寄せて攻撃を仕掛け、井伊直孝の先手を撃破したが、井伊直孝が本隊を率いて攻めてくると、木村重成の軍勢は大勢が討ち死にして劣勢になった。

家臣・木村四郎右衛門は木村重成を撤退させようとしたが、木村重成は意見を聞かず、槍を持って敵陣に突っ込み、討ち死にした。木村重成は享年19とされる。

その日、木村重成の首を検分した徳川家康は、木村重成の首から僅かに香の薫りがしたので、「5月の初めだというのに、僅かな悪臭もなく、香を焚き込んでいるのは勇者の良い嗜みである」と賞賛した。

(注釈:木村重成の様々な逸話や討ち死にの様子は、「戦国最強のイケメン!木村重成の生涯」をご覧ください。)

さて、江戸幕府軍の藤堂高虎は、右先手で木村重成を攻める一方で、左先手で木村重成の南に布陣している長宗我部盛親を攻めていた。

藤堂高虎の左先手・藤堂高刑は、長宗我部盛親の先手を破り、南側から長宗我部盛親の本陣へ迫った。また、別部隊の藤堂氏勝も長宗我部盛親の本陣へ迫った。また、別部隊の藤堂氏勝も北側から長宗我部盛親の本陣へ迫った。

これに対し、長宗我部盛親は皆を下馬させると、槍を持たせて長谷川の堤防に伏せておき、藤堂高虎の軍勢が攻めてくると、一気に伏兵を起こして攻撃させた。

藤堂高虎の軍勢は伏兵に対応できず、大打撃を受け、藤堂軍の藤堂高刑・藤堂氏勝・桑名弥次兵衛(桑名一孝)などが次々に討ち死にした。

さらに、長宗我部盛親は藤堂高吉を追撃して散々に討ち取った。

このとき、討ち死にした藤堂高虎の家臣・桑名弥次兵衛(桑名一孝)は、元は長宗我部盛親の家臣である。

桑名弥次兵衛(桑名一孝)は、関ヶ原の合戦で長宗我部盛親が改易されたため、浪人
なるが、その後、藤堂高虎に家老として仕え、2000石を食み、京都で蟄居していた旧主・長宗我部盛親を密かに支援していた。

京都で蟄居していた長宗我部盛親が豊臣秀頼の要請を受けて大阪城に入ると、大勢の旧臣が駆けつけた。

桑名弥次兵衛(桑名一孝)も長宗我部盛親の元へと駆けつけたいと思っていたが、藤堂高虎への恩義もあるので、藤堂高虎の元に留まり、長宗我部盛親と藤堂高虎の両方に忠義を尽くすため、大坂冬の陣で討ち死にする事を決めていた。

そして、桑名弥次兵衛(桑名一孝)は「八尾の戦い」で長宗我部盛親と戦う事になったので、長宗我部盛親の旗を見つけると、元同僚に討たれるため、長宗我部盛親の旗を目指して突き進み、長宗我部盛親の軍勢に取り囲まれた。

長宗我部盛親の家臣は、桑名弥次兵衛(桑名一孝)が密かに長宗我部盛親を支援していたことなど知らなかったので、桑名弥次兵衛(桑名一孝)を裏切り者として激しく攻めたてて桑名弥次兵衛(桑名一孝)を討ち取った。

その後、長宗我部盛親は、桑名弥次兵衛(桑名一孝)が討ち死にしたことを知り、大いに悲しんだ。

(注釈:大坂夏の陣で討ち死にした桑名弥次兵衛(桑名一孝)の生涯は「桑名弥次兵衛(桑名一孝)の生涯」をご覧ください。)

さて、江戸幕府軍の先鋒・藤堂高虎は、木村重成や長宗我部盛親に大敗し、玉串川の東へと退き、長宗我部盛親とにらみ合った。

このようななか、長宗我部盛親の元に、北方で戦っていた木村重成の敗報が届いたので、長宗我部盛親は孤立する事を恐れて大阪城へ撤退を開始した。

すると、藤堂高虎の家臣・渡辺勘兵衛(渡辺了)は、退却する長宗我部盛親を追撃して、散々に討ち取り、長宗我部盛親に大打撃を与えた。

なお、長宗我部盛親は大打撃を受けたので、その後に行われる「天王寺・岡山の戦い」には参加していない。

■関東勢100万と候え、男はひとりもなく候
さて、道明寺方面に進軍していた真田幸村(真田信繁)ら豊臣軍は、後藤又兵衛(後藤基次)を撃破して西進してきた江戸幕府軍の大和方面軍を押し戻し、大和方面軍と対峙していた。

このようななか、真田幸村(真田信繁)の元に、8km北で起きた「八尾・若江の戦い」で豊臣軍の木村重成・長宗我部盛親が江戸幕府軍に惨敗したという知らせが届く。

北から江戸幕府軍の主力部隊が来れば、真田幸村(真田信繁)ら豊臣軍は挟み撃ちにされてしまうため、豊臣軍は毛利勝永の陣営で撤退について協議する。

この軍議で問題となったのは、殿(しんがり=軍の最後尾)であった。殿は追撃してくる敵を防ぎ戦いながら撤退する重要な役割で、殿を務めるのは武士の名誉であった。

このため、豊臣軍はくじ引きで殿を決めようとしたが、真田幸村(真田信繁)が「それには及ばない」と言い、殿に名乗りを上げると、諸将は「真田が残るなら私も残る」と言いだした。

そこで、キリシタン牢人の明石全登が仲裁に入り、真田幸村(真田信繁)が殿を務めることなった。

こうして、豊臣軍は真田幸村(真田信繁)を殿に撤退を開始する(注釈:毛利勝永が殿を務めたという説もある)。

これに対し、江戸幕府軍の大和方面軍では、遅刻してきた大和方面軍の総大将・松平忠輝が、疲れている諸将に変わって自分が追撃すると言い、追撃に名乗りを上げた。

しかし、伊達政宗が「戦は今日だけではありません」と言って総大将・松平忠輝を諫めた。

大和方面軍の先鋒・水野勝成と一柳直盛も追撃を主張したが、真田幸村(真田信繁)に苦戦した伊達政宗が兵の疲労を理由に追撃を拒否したので、他の諸将も追撃に賛同せず、大和方面軍は豊臣軍の撤退を見送った。

すると、豊臣軍の殿を務める真田幸村(真田信繁)は、「関東勢100万と候え、男はひとりもなく候」(意味:関東勢は100万も居るのに、勇気のある者は1人も居ない)と言い放ち、悠々と引き上げていった。

この撤退で真田幸村(真田信繁)は江戸幕府軍から賞賛されて名前を挙げたので、牢人衆は真田幸村(真田信繁)を恨みに思い、「評議など破り、思う存分に働こう」と言いだした。

このため、キリシタン牢人・明石全登(明石掃部)は「武功を好むのは武士の本意ではないか。そう恨むものではない」と言って諸将を宥めた。

こうして、江戸幕府軍の迎撃に出ていた豊臣軍は大阪城へ撤退し、江戸幕府軍に最期の決戦「天王寺の戦い」に挑むことになる。

なお、道明寺の戦いで矛を交えた真田幸村(真田信繁)と片倉小十郎(片倉重綱)は、お互いに実力を認め合い、後に真田幸村(真田信繁)は娘を片倉小十郎(片倉重綱)を託すことになる。

真田幸村(真田信繁)の生涯の最終回」へ続く。

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