真田幸村(真田信繁)の生涯の最終回
NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村の生涯を描く「真田幸村の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村編の最終回「大坂夏の陣-真田幸村(真田信繁)の生涯の最終回」です。
このページは「大坂夏の陣-木村重成と桑名弥次兵衛が討死」からの続きです。
真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。
■大坂夏の陣-天王寺の戦いの布陣
豊臣軍は慶長20年(1615年)5月6日、江戸幕府軍が兵を展開する前に迎撃しようとしたが、迎撃に失敗し、道明寺方面で後藤又兵衛(後藤基次)・薄田隼人(薄田兼相)を失い、八尾・若江方面で戦国最強のイケメン木村重成を失い、大きな損害を出してしまった。
慶長20年(1615年)5月7日、豊臣軍は大阪城の南部で江戸幕府軍を迎え撃つため、真田幸村が茶臼山に布陣し、その東の四天王寺の東門には毛利勝永が布陣した。
真田幸村の背後に豊臣家の大野治長・七手組が布陣し、真田丸が在った場所の少し南の岡山口には豊臣家の大野治房らが布陣した。
前日の「八尾・若江の戦い」で大敗した長宗我部盛親は大阪城に残り、大阪城の西の船場にはキリシタン牢人の明石全登(明石掃部)が布陣した。
茶臼山に布陣した真田幸村は、赤いのぼりを立て、武具一式を赤で統一した赤備えを着用しており、真田の赤備えは茶臼山に咲いた花のように見えたので、江戸幕府軍の松平忠直は「これこそ真田の備えなり」と感心したという。
慶長20年(1615年)5月7日早朝、大野治長・毛利勝永・真田幸村が茶臼山で軍議を開いた。
そこで、真田幸村は「天王寺を主戦場と定め、城内の諸将を皆、天王寺に配置し、江戸幕府軍を誘い込んで決戦に及ぶ。そして、明石全登(明石掃部)が南方より迂回して徳川家康の背後を突き、挟み撃ちにする」という作戦を提案した。
真田幸村の作戦が受け入れられ、大野治長は豊臣全軍に、抜け駆けを禁じ、江戸幕府軍が攻めてきても、茶臼山・岡山より前に出て戦う事を禁じた。
対する徳川家康は、大和(奈良県)から迂回させた大和方面軍と合流して西へと進み、豊臣軍の南方に布陣した。
主戦場は天王寺方面と予想されたため、徳川家康は天王寺方面に布陣し、徳川秀忠に岡山方面への布陣を命じた。徳川秀忠は天王寺方面を希望したが、徳川家康が譲らなかったため、岡山方面に布陣する。
江戸幕府軍の先鋒・藤堂高虎は、前日の「八尾・若江の戦い」で木村重成・長宗我部盛親と激戦を繰り広げて兵を消耗していたため、徳川家康に先鋒の辞退を申し入れ、これを認められた。
これを受けて徳川家康は、前日の「八尾・若江の戦い」で疲弊した藤堂高虎・井伊直孝を下げて徳川秀忠の前衛を命じ、前田利常に岡山口の先鋒を命じた。
また、徳川家康は前日の「道明寺の戦い」で疲弊した水野勝成も後方へと下げ、本多忠朝に天王寺口の先鋒を命じた。
真田幸村の兄・真田信之は、大坂冬の陣に引き続き、大坂夏の陣も病気を理由に出陣しておりらず、嫡男・真田信吉と次男・真田信政を出陣させていた。そして、真田信吉は、天王寺口の先鋒・本多忠明の東に布陣した。
大坂夏の陣で江戸の留守を命じられていた黒田長政・加藤嘉明は、大坂夏の陣で参陣が許され、徳川秀忠の近くに布陣した。
大坂夏の陣で江戸の留守を命じられていた豊臣恩顧の福島正則・平野長泰は、大坂冬の陣に引き続き、大坂夏の陣でも江戸の留守を命じられている。
こうして、両軍は布陣を終えた。豊臣軍5万5000に対して江戸幕府軍は16万5000で、両軍を併せて22万。関ヶ原の戦いをしのぐ、大規模な決戦が始まろうとしていた。
■大坂夏の陣-天王寺の戦いの開戦
ところで、豊臣軍は守りを固めて敵を待ち構えていたので、徳川家康は「このような事態になったが、豊臣秀頼は縁者なので捨てがたいところがある。和睦して大和(奈良県)に領地を進呈したい」と言い、豊臣秀頼に和睦を持ちかけたていた。
真田幸村は大野長治を通じて豊臣秀頼の出陣を懇願しており、豊臣秀頼は真田幸村の懇願を受けて出陣の準備をしていた。
しかし、徳川家康から和睦の使者がきたため、城内の者が和睦に期待して豊臣秀頼の出陣を反対したため、豊臣秀頼の出陣は実現しなかった。
さて、豊臣軍は、迂回部隊のキリシタン明石全登(明石掃部)が挙げる狼煙を合図に攻撃を開始する作戦になっており、茶臼山に布陣した真田幸村はキリシタン明石全登(明石掃部)の合図を待った。
そのようななか、天王寺方面に布陣した江戸幕府軍の越前福井藩主・松平忠直が、赤備えの真田幸村が布陣する茶臼山に向かって前進し始めた。
越前福井藩主・松平忠直は、徳川家康から嫌われており、先鋒から外されていたが、前年の「真田丸の戦い」で大敗していたので、先手の功をあげるため、徳川家康の命令を無視して、赤備えの真田幸村が布陣する茶臼山に向かって勝手に進軍を開始したのである。
これに驚いたのが、天王寺口の先手を務める江戸幕府軍の本多忠朝である。
本多忠朝は徳川四天王・本多忠勝の次男で、大坂冬の陣のとき、酒を飲んでいたため、豊臣軍に大敗して徳川家康から叱責されていた。
このため、本多忠朝は、大坂夏の陣で討ち死にして汚名を晴らそうと思い、小笠原秀政と討ち死を誓い合い、この「大阪夏の陣(天王寺の戦い)」に臨んでいたのである。
ところが、左後方に陣取っていた第2陣の松平忠直が茶臼山に向かって前進し始めたので、先鋒の本多忠朝は松平忠直に先手の功を奪われると思い、慌てて天王寺へと兵を進めた。
この結果、慶長20年(1615年)5月7日正午ごろに、江戸幕府軍・本多忠朝と天王寺を守る豊臣軍・毛利勝永の軍勢とが鉄砲の撃ち合いを開始する。
これに驚いたのが、豊臣軍の真田幸村と毛利勝永である。豊臣軍は迂回部隊のキリシタン明石全登(明石掃部)の合図により、攻撃を開始する作戦だった。
真田幸村と毛利勝永は、作戦に支障を来すため、毛利勢に攻撃の中止を命じたが、銃撃戦は勢いを増す一方であった。
豊臣軍の毛利勝永は作戦の破綻を感じて方針を変更し、本多忠朝の先手である鉄砲衆70人を撃破すると、毛利勢を2手に分け、右手は本多忠朝の西に布陣している秋田実季らを攻め、左手は本多忠朝の東に布陣している真田信吉・真田信政を攻めた。
さらに、毛利勝永の本隊は本多忠朝を攻めた。
江戸幕府軍の先鋒・本多忠朝は、毛利勝永に一歩も引かず、馬上で槍を振るって2~3人を切り捨てたが、鉄砲で撃たれて落馬してしまう。
本多忠朝は鉄砲を撃った者を切り捨て、さらに7~8人を切り捨てたが、自身も20余りの傷を負った。
それでも、本多忠朝は毛利軍を追撃し、堀を飛び越えようとしたが、転倒してしまう。
家臣・大屋作左衛門は倒れた本多忠朝を守って毛利勝永の軍勢と戦ったが、終いには家臣・大屋作左衛門は討たれ、本多忠朝も首を取られてしまった。
そのころ、毛利勢の右手は江戸幕府軍・秋田実季らを撃破していた。
毛利勝永は、江戸幕府軍の本多忠朝を討ち取ると、毛利勢の左手とともに江戸幕府軍の真田信吉・真田信政を攻めた。
真田信吉・真田信政は奮闘したが、毛利勝永の勢いは凄まじく、真田信吉・真田信政は大敗。真田家の家臣・森佐野右衛門は盾となって鉄砲に討たれ、真田信吉・真田信政と逃がした。
一方、茶臼山に布陣していた赤備えの真田幸村も、毛利勝永の軍勢が勝手に戦い始めてしまったため、作戦の破綻を悟り、軍監の伊木遠雄に対して、「事ごとにみな食い違って、ついに為すことなし。これはもはや我が命の終わる秋(とき)である」と漏らした。
そして、真田幸村は嫡男・真田大助を呼び、豊臣秀頼に出陣を要請する使者として、大阪城へ向かうように命じた。
嫡男・真田大助は「一門の恥なり」と言い、残って一緒に戦いたいと懇願したが、終いには真田幸村の説得を受けて大阪城へと向かった。
嫡男・真田大助が大阪城に向かうのを見た豊臣軍は、「真田幸村が味方の負けを知って、嫡男・真田大助を大阪城へ入れた」と動揺した。
真田幸村は嫡男・真田大助を大阪城に送り出すと、兵を進めて小高い丘に布陣して、江戸幕府軍の松平忠直の軍勢と銃撃戦を開始し、激しく激突した。
越前藩主・松平忠直は、前年の大坂冬の陣において「真田丸の戦い」で真田幸村に大敗した恨みがあるので、赤備えの真田幸村に激しく攻めかかった。
松平忠直ら越前衆の戦い振りは凄まじく、「かかれかかれの越前衆、たんだかかれの越前衆、命知らずの嬬黒の旗(つまぐろのはた)」と歌われた程であった。
さて、徳川家康は松平忠直の後まで陣を進めており、江戸幕府軍の先陣を打ち破った豊臣軍の毛利勝永は、徳川家康の本陣を目指した。
一方、岡山口の第2陣に布陣していた江戸幕府軍の藤堂高虎・井伊直孝は、天王寺口の先手・本多忠朝が破られたと知ると、兵を西に進めて、徳川家康の本陣を目指す毛利勝永を抑えた。
豊臣軍・大野長房は、藤堂高虎・井伊直孝が居なくなった隙を突き、鉄砲隊を率いて、岡山口の総大将・徳川秀忠の本陣を目指した。
豊臣軍・大野長房は関東勢を蹴散らして徳川秀忠の本陣へと迫ったが、豊臣軍・大野長房の前に江戸幕府軍の黒田長政・加藤嘉明が立ちはだかった。
さて、徳川家康の護衛に向かった江戸幕府軍の藤堂高虎・井伊直孝は、豊臣軍の毛利勝永の前に立ちはだかり、毛利勝永を押し返した。
藤堂高虎・井伊直孝は、毛利勝永を追撃したが、後方に居た豊臣軍の遊撃軍・七手組が出てきたので、江戸幕府軍の藤堂高虎・井伊直孝は反対に押し戻され、毛利勢も盛り返した。
このとき、紀伊街道の後方(江戸幕府軍の西側の最後尾)に布陣していた江戸幕府軍の紀州藩主・浅野幸長が、諸将の活躍に触発されて兵を前進させた。
すると、誰が言い出したということはないが、江戸幕府軍の間に「紀州殿(浅野長晟)が裏切り致され候」という噂が流れた。
江戸幕府軍は背後から紀州藩主・浅野幸長に攻められる事を恐れて、後方から崩れていき、大混乱に陥った。これは「裏崩れ」と言って、最悪の事態だった。
こうした混乱のなか、江戸幕府軍の伊達政宗は、豊臣軍に敗れて逃げてきた味方の先鋒を一斉射撃して、江戸幕府軍の神保相茂勢270人を壊滅させた(伊達政宗の見方撃ち)。
この伊達政宗の味方撃ちにより、江戸幕府軍の間に「伊達政宗も豊臣家に寝返った」という噂が広がり、江戸幕府軍はさらに混乱していく。
なお、後に神保相茂の遺臣が伊達政宗を訴えると、伊達政宗は「確かに味方と知って撃ったのは事実です。しかし、伊達家の軍法には敵、味方の差別は無い。神保隊が崩れかかれば、共倒れになる」と釈明した。
伊達政宗は60万石に対し、神保相茂は外様旗本7000石だったので、争いにならず、伊達政宗に咎めは無かった。
■目指すは徳川家康の首ひとつ
さて、江戸幕府軍は「紀州殿(浅野幸長)が裏切り致され候」という噂により、後方から崩れる「裏崩れ」で、大混乱に陥った。
徳川家康は混乱を収めるため、旗本を差し向けたが、全く効果は無いどろこか、旗本までも混乱に巻き込まれてしまう。
松平忠直と戦っていた赤備えの真田幸村は、この好機を逃さず、鉄砲を乱射しながら、徳川家康の本陣をめがけて突撃する。
真田幸村は松平忠直の抵抗を受けたが、松平忠直の陣営を突破して、徳川家康の本陣に3度、突撃した。
真田幸村の突撃を受けて、徳川家康の陣営は、旗本が散り散りに逃げてしまい、徳川家康の側には騎馬武者の小栗忠左衛門が居るだけであった。
真田幸村の突撃を受けた徳川家康は、日本の作法に則って切腹しようとしたが、金地院崇伝らに止められて、思いとどまったという。
■真田幸村の最期
松平忠直の抵抗を受けながらも、真田幸村は徳川家康の本陣に3度の突撃を敢行して、、徳川家康に自害を口走らせるほどの窮地に追い込み、徳川家康の旗を倒した。
徳川家康の旗が倒れたのは、元亀3年12月(1573年1月)に武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」以来のことで、島津忠恒は真田幸村を「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と評価した。
(注釈:島津忠恒は大坂夏の陣に参加していないので、真田幸村の活躍を直接、見たわけでは無い。)
このとき、江戸幕府軍の藤堂高虎・井伊直孝は、混乱して逃げてくる味方に邪魔されながらも、徳川家康の東側で、豊臣軍の毛利勝永と戦闘を続けていた。
そのようななか、真田幸村が徳川家康の陣営に突撃して、徳川家康の旗を倒した。
徳川家康の旗が倒れたのを見て驚いた藤堂高虎・井伊直孝は、慌てて徳川家康の援軍に向かい、真田幸村の左側から攻め掛けた。
さらに、真田幸村の背後では、江戸幕府軍・松平忠直の越前勢が制を立て直し始めていた。
このままでは敵に包囲されると考えた真田幸村は、徳川家康の首を諦め、茶臼山へと撤退する。
豊臣軍は善戦したが、江戸幕府軍は大混乱に陥ったといえど、大軍であった。江戸幕府軍は次第に落ち着きを取り戻して兵を立て直すと、反撃に転じた。
松平忠直は兵を立て直すと、茶臼山の真田幸村を攻め立て、やがては茶臼山に旗を立てたが、それでも真田幸村は激しく抵抗した。
真田与左衛門・真田勘解由・江原左平太・福岡平三郎・本郷左近・早川平左衛門・青柳清安・高梨主膳・大谷大学らが、真田幸村の危機に駆けつけ、敵に割って入って戦ったが、枕を並べて討ち死にした。
力尽きた真田幸村は茶臼山を降りて、茶臼山の北にある安居天神で休んでいたところを、松平忠直の鉄砲頭・西尾仁右衛門(西尾宗次)に見つかった。
真田幸村は戦う気力も無く、戦わずに「手柄にいたせ」と言い、西尾仁右衛門(西尾宗次)に首を差し出し、西尾仁右衛門(西尾宗次)に討ち取られた。真田幸村は享年49であった。
■大坂夏の陣の最終回
岡山口方面に居た豊臣軍・大野長房は、藤堂高虎・井伊直孝が徳川家康の護衛に向かった隙を突いて、徳川秀忠の本陣へと迫ったが、黒田長政・加藤嘉明に阻まれてしまった。
これによって、岡山口方面の江戸幕府軍は、次第に落ち着きを取り戻し、反撃に転じた。
豊臣軍・大野長房は江戸幕府軍の追撃を受けながらも、負兵を撤収させてながら、大阪城へと引いた。
さて、大阪城では豊臣秀頼が戦場で討ち死にするため、出陣の用意をしていたが、速水守久に「死体を乱戦に晒すことは大将のすることではなく、むしろ本丸を守るべきです。力尽きた後でも自害できます」と説得され、大阪城の本丸へと引いた。
江戸幕府軍が大阪城を包囲するなか、大阪城で火の手が上がる。大阪城内に内通者がいたのであろう。
火が強風に煽られて燃え広がると、江戸幕府軍は大阪城の三の丸の柵を越えて侵攻し、大阪城の二の丸まで落とした。
すると、豊臣家の家臣は最期を悟り、相次いで自害する。
豊臣秀頼も天守閣にのぼり、淀殿と自害しようとしたが、速水守久に自害を止められ、火の手を避けるため、大阪城の北側にある山里曲輪(山里郭/山里丸)にある土蔵の中に隠れた。
一方、豊臣家の大野長房は、自分が大坂夏の陣・大坂冬の陣の責任を取って切腹する事と引き替えに、豊臣秀頼と淀殿の助命を嘆願しようと考えた。
そこで、大野長房は、豊臣秀頼と淀殿の助命を嘆願してもらうため、豊臣秀頼の正室・千姫(徳川秀忠の娘で、徳川家康の孫)に護衛を付けて逃がした。
正室・千姫は大阪城内で火の手に阻まれて難儀していたが、江戸幕府軍の坂崎直盛(宇喜多忠家の長男)に助けられて、無事に大阪城を出る事が出来た。
大阪城を出た正室・千姫は、本多正信に預けられ、本多正信が徳川家康に報告した。
翌日の慶長20年(1615年)5月7日、豊臣家の元重臣・片桐且元が、豊臣秀頼と淀殿の居場所を入手し、徳川家康に報告したため、徳川家康は豊臣秀頼に処分について協議する。
豊臣秀頼の正室・千姫は徳川家康に豊臣秀頼の助命を嘆願したが、徳川家康は「徳川秀忠、次第である」と答えた。
徳川家康は元々、豊臣家との共存共栄路線をとっていたとも言われており、豊臣秀頼の処刑には後ろ向きであったが、最終的な判断は将軍職にある徳川秀忠に委ねたのだ。
徳川秀忠は、正室・千姫(徳川秀忠の娘)が豊臣秀頼と一緒に自害しなかった事に激怒しており、豊臣秀頼の助命嘆願を受け入れなかった。
このため、山里曲輪の土塁を包囲していた徳川軍の井伊直孝・安藤重信が、豊臣秀頼や淀君の隠れている土蔵に向かって鉄砲を撃ちかけた。
土蔵に隠れていた豊臣秀頼や淀君は、発砲を受けて助命嘆願が叶わなかった事を悟り、土蔵の中で自害した。
すると、豊臣秀頼に従っていた片桐且元・速水守久・毛利勝永・真田大助など30人ほどが、豊臣秀頼の後を追って自害した。こうして大坂夏の陣は終結し、大名としての豊臣家は滅亡した。
なお、真田幸村(真田信繁)の娘と次男・真田大八(真田守信)は、伊達政宗の家臣・片倉小十郎に保護され、片倉小十郎は真田幸村の娘・阿梅を正室に迎えた。
次男・真田大八(真田守信)は、片倉小十郎の家臣となり、真田幸村(真田信繁)の家系は仙台・真田家として続いた。
また、真田幸村(真田信繁)の三男・三好幸信と四男・真田之親も存続した。
■大坂夏の陣の後-戦後処理
大坂夏の陣によって豊臣家は滅んだが、豊臣家は65万石しかないので、勝利した江戸幕府軍への恩賞はわずかであった。
恩賞は、大坂冬の陣で活躍した蜂須賀至鎮が7万石を加増されたのを筆頭に、大坂夏の陣で活躍した藤堂高虎は5万石の増加、井伊直孝は5万石の増加、水野勝成は3万石が加増された。他にも数人が加増されている。
松平忠直は真田幸村を討ち取る大功をあげたが、松平忠直の父・結城秀康が徳川家康から嫌われていた関係で、松平忠直は領地はもらえず、脇差し「高木貞宗」と茶器「初花肩衝」を拝領しただけであった。
松平忠直は領地をもらえなかった事に激怒し、茶器「初花肩衝」を叩きつけて壊したという逸話も残っている。
さて、徳川家康は大坂夏の陣の後、徹底的に残党狩りを行った。過去の例から見てもかなり厳しい残党狩りだったようである。
大阪城から逃れた長宗我部盛親は、蜂須賀至鎮の従者に捕らえられ、三条河原でさらし首になった。大野治長と豊臣秀頼の子・国松も捕らえられて処刑された。
豊臣秀頼の娘も捕らえられ、千姫(豊臣秀頼の正室で徳川秀忠の娘)の養女となり、東慶寺に入る事を条件に許され、尼となって天秀尼と名乗った。
天秀尼は30年後の正保2年(1645年)2月に死去し、豊臣秀吉・豊臣秀頼の血筋は完全に途絶えた。
さて、大阪牢人5人衆のうち、キリシタン牢人・明石全登だけが捕まらず、徳川家康は明石全登を徹底的に探させた。世に言う「明石狩り」である。しかし、明石全登は見つからなかった。
明石全登の娘・明石レジイナ(明石レジーナ)が捕らえられ、徳川家康が娘・明石レジイナ(明石レジーナ)に明石全登の居場所を尋ねたが、娘・明石レジイナ(明石レジーナ)は明石全登の居場所を知らなかった。
徳川家康はキリシタンを激しく嫌っていたが、娘・明石レジイナ(明石レジーナ)を気に入り、キリスト教を信仰することを許し、自由の身として釈放した。
やがて、徳川家康は、豊臣家の旧臣だった加藤正方を慶長20年(1615年)6月に召し抱えたほか、豊臣家の旧臣だった織田元信・井上利義などを許して召し抱えた。
さらに、豊臣家を滅亡させた徳川家康は、後水尾天皇の即位と大坂夏の陣を理由に、慶長20年(1615年)7月に年号を「元和」と改めた。
徳川家康は、慶長20年(1615年)8月に薩摩藩・島津家に対し、豊臣家の古参(豊臣秀吉時代からの家臣)の旧家臣の召し抱えを認めた。ただし、豊臣家の新参者については召し抱えを認めなかった。
徳川家康が豊臣家の古参の旧家臣を許し、年号を改めたことから、大坂夏の陣の落ち武者狩りに一区切りがつき、落ち武者狩りも収束に向かった。
こうして、豊臣家の滅亡して元和元年(1615年)を迎えたことにより、戦国時代は終わを告げ、日本は幕末まで続く太平の世を迎えるのであった。
スポンサードリンク