とと姉ちゃん-スタイルブックで大儲けするあらすじとネタバレ
NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」のモデルとなる大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯を紹介する実話「とと姉ちゃん」のあらすじとネタバレです。
このページは「とと姉ちゃん-大橋鎮子が花森安治と出会うあらすじとネタバレ」からの続きです。
■とと姉ちゃん-出版社の設立へ
大橋鎭子(大橋鎮子)が出版社を立ち上げて雑誌を販売することを家族に話すと、家族は賛成してくれたので、日本読書新聞を退社し、出版社設立の準備にかかります。
大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治は、打ち合わせを進めていきます。
このころ、女性の服は全て「モンペ」という作業着でした。戦時中に大政翼賛会の号令で、女性の服は全てモンペになったのです。
花森安治は大政翼賛会の宣伝部に居たので、女性の服を全てモンペに変えてしまった事に罪悪感を抱いていました。
そこで、花森安治は、女性に美しくなってもらうため、「衣」をテーマとしたファッション誌「スタイルブック」を発売する事にしました。
ファッション誌「スタイルブック」は、アメリカのファッション誌を参考にした雑誌です。
こうしてファッション誌「スタイルブック」を発売する事が決まると、花森安治は「これから作る出版物は日本中に売るものだ。その編集室は銀座がいい」と言い、大橋鎮子(大橋鎭子)に事務所を探すように命じます。
当時の銀座は空襲で焼けていましたが、銀座7丁目と銀座8丁目あたりは焼け残っていました。
前後の混乱期なので、ビルはあっても、所有者が疎開して、どこに居るか分からないという事もあり、事務所は簡単には見つかりませんでした。
しかし、大橋鎮子(大橋鎭子)の妹・大橋晴子(横山晴子)が銀座の保険会社で働いており、昼休みや仕事の後に銀座のビルを廻ってくれ、銀座八丁目の日吉ビル3階の一室に借りられそうな部屋があることを見つけてくれました。
さらに、大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治は設立資金の事など考えていなかったのですが、保険会社で働いている妹・大橋晴子(横山晴子)が担当していた秋元という人が2万円(4~500万円)を出資してくれることになりました。
その後、出版社名も「衣装研究所」と決まり、大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治は、昭和21年(1946年)に銀座八丁目の日吉ビル3階の一室で、出版社「衣装研究所」を設立しました。
社員は、花森安治と大橋鎭子(大橋鎭子)・大橋晴子・三女・大橋芳子の三姉妹の計4人で、少し遅れて横山啓一が経理として加わり計5人となり、出版社「衣装研究所」は5人でスタートを切りました。
言い出しっぺの大橋鎮子(大橋鎭子)が社長となりますが、形だけのもので、誰も大橋鎮子(大橋鎭子)を社長とは呼びません。みんなが名前で呼び合う家族のような会社です。
また、母・大橋久子(宮原久子)は、色々と協力してくれることになりますが、衣装研究所の社員にはなっていません。
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■とと姉ちゃん-スタイルブックを創刊
こうして出版社「衣装研究所」を設立した大橋鎮子(大橋鎭子)は、昭和21年(1946年)5月に雑誌「スタイルブック」を発刊します。
花森安治が全国紙や地方紙に広告を出したおかげで、雑誌「スタイルブック」の創刊号は爆発的に売れました。
全国から毎日、郵便為替が山のように届きます。開封作業だけでも大変です。嬉しい悲鳴です。大儲けです。ウハウハです。
ところが、大橋鎮子(大橋鎭子)らは毎日、毎日、大量の郵便為替を郵便局に持ち込んでいたため、終いには郵便局から「人手が足りない」という理由で郵便為替の換金を拒否されてしまいました。
困った大橋鎮子(大橋鎭子)が以前に務めていた日本興業銀行へ相談に行くと、同期入社した北岡文一が預金を条件に郵便為替の換金を引き受けてくれました。
郵便為替問題を解決した大橋鎮子(大橋鎭子)は、順調に雑誌「スタイルブック」の発売を続けます。
翌年の昭和22年(1947年)になると、大橋三姉妹だけでは人手が足りなくなり、大橋鎮子(大橋鎭子)の第六高等女学校時代の同級生・中野家子、知人の娘・清水洋子に雑誌作りを手伝ってもらうようになりました。
ところが、雑誌「スタイルブック」は1年で売れなくなってしまいます。
「銀座の小娘がファッション誌を出して大儲けしている」という噂が直ぐに広まり、ファッション誌「スタイルブック」を模倣した雑誌が30誌も40誌も販売されるようになったからです。
このようななか、昭和天皇に事件が起きます。世いう「昭和天皇のフグ事件」です。しかし、昭和天皇のフグ事件は秘密裏に処理されてしまいます。
■とと姉ちゃん-花森安治の服装デザイン講座
雑誌が売れなくなり、苦境に立たされた花森安治は、雑誌「スタイルブック」の販売促進と赤字解消のため、「服装デザイン講座」を開始します。
花森安治の「服装デザイン講座」は、花森安治が衣装について語り、雑誌「スタイルブック」で取り上げた直線裁ちの服を紹介し、社員・中野家子がその場で直線裁ちの生地を縫い、大橋鎭子らがモデルとなって中野家子が縫った服を着るというものです。
花森安治の「服装デザイン講座」は話題になり、福島県・山形県・栃木県や四国でも開催されました。
しかし、栃木県宇都宮市で開催された「服装デザイン講座」は、チケットが完売しても客が1人も入らないという事件もありました。
直線裁ち流行すると、洋裁学校に生徒が集まらなくなるため、宇都宮市の洋裁学校が「服装デザイン講座」のチケットを買い占めていたのです。
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■とと姉ちゃん-スタイルブックを廃刊に
花森安治の「服装デザイン講座」は話題となり、花森安治は服装評論家として有名になっていきますが、事業の柱になるまでは成長しませんでした。
このようななか、大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治は昭和22年(1947年)10月にファッション誌「スタイルブック」の第5号を発売します。
第5号は、大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治が一番言いたかった「働いている女性こそ美しく権利がある」というテーマで、一番力を入れて作ったのですが、全く売れませんでした。
このため、大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治は、ファッション誌「スタイルブック」を廃刊にして、スタイルブックの「衣」に「食」と「住」を加えた新しい雑誌「暮しの手帖」を作る事にしたのです。
「とと姉ちゃん-女装の編集長・花森安治が誕生するあらすじとネタバレ」へ続く。
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