とと姉ちゃん-女装の編集長・花森安治のあらすじとネタバレ
NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」のモデルとなる大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯を紹介する実話「とと姉ちゃん」のあらすじとネタバレです。
このページは「とと姉ちゃん-スタイルブックで大儲けするあらすじとネタバレ」からの続きです。
■とと姉ちゃん-暮しの手帖を出版へ
雑誌「スタイルブック」が売れなくなったため、大橋鎭子(大橋鎮子)と花森安治は、出版社「衣装研究所」から「暮しの手帖社」へと改名し、昭和23年(1948年)9月23日に雑誌「美しい暮しの手帖」を創刊します。
本当は「暮しの手帖」という雑誌名で販売したかったのですが、取次店から評判が悪かったため、頭に「美しい」という言葉を付け加え、雑誌「美しい暮しの手帖」として創刊しましした。
雑誌「美しい暮しの手帖」は、一流人に専門分野ではなく、普段は書かない「生活」について書いてもらう雑誌です。
花森安治は一流志向があったので、一流の作家に原稿を書いてもらっています。
大橋鎮子(大橋鎭子)は、日本読書新聞時代に人気作家・川端康成に原稿を書いてもらった縁で、川端康成から可愛がられており、雑誌「美しい暮しの手帖」の創刊号でも川端康成に原稿を書いてもらっています。
雑誌「美しい暮しの手帖」は蒼々たるメンバーが原稿を書いているのですが、全く売れませんでした。
当時の婦人誌業界は「主婦の友」「婦人倶楽部」「主婦と生活」「婦人生活」の4誌が婦人誌の四天王として君臨していました。また、農村部では「家の光」が根付いて不動の地位を築いていました。
雑誌「美しい暮しの手帖」創刊号は1万部を刷りましたが、なんとか頼み込んで取次店に8000部を引き取ってもらう始末で、在庫の山です。
そこで、大橋鎭子(大橋鎭子)・大橋晴子・大橋芳子・中野家子・清水洋子の女性5人が、雑誌「美しい暮しの手帖」をリュックに入るだけ入れ、本屋へ行って頭を下げ、雑誌「美しい暮しの手帖」を置いてくれるように頼んでまわりました。
大橋鎭子(大橋鎭子)らにとって慣れない仕事であり、大変な苦労をしました。思い出したくないような事もありました。
そして、大橋鎭子(大橋鎭子)らが出版社「衣装研究所」に戻ってくると、いつも、女装の花森安治がストーブで焼き芋を焼いて待っていてくれました。
ところで、このころ、兵庫県神戸市で小さなベビーショップが産声を上げます。「ベビーショップ・モトヤ」です。
ベビーショップ・モトヤは、坂野惇子(ばんの・あつこ)が靴店「モトヤ靴店」のショーケース2台を借りただけの小さな小さなお店です。
この坂野惇子(ばんの・あつこ)が、NHKの朝ドラ「べっぴんさん」のモデルです。
■とと姉ちゃん-女装の花森安治
さて、雑誌「美しい暮しの手帖」が全く売れずに困るなか、「服装デザイン講座」で衣装評論家として有名になっていた花森安治は、東京芸術大学の依頼を受けて、衣装について講義をします。
花森安治は雑誌「美しい暮しの手帖」を作る一方で、他にも色々と仕事を引き受けています。全ては雑誌「美しい暮しの手帖」の赤字を埋めるためだと言われます。
ところで、花森安治は戦後から女装を開始しており、この頃になると、長髪にパーマをかけ、スカートを履くという本格的な女装をしていました。
花森安治が女装しているという噂は直ぐに広まり、花森安治は女装の衣装評論家として話題となっていき、花森安治に出演依頼が舞い込むようになりました。
花森安治が女装した理由は色々とあるのですが、ひとつは雑誌「美しい暮しの手帖」を売るためです。
しかし、雑誌「美しい暮しの手帖」は全く売れませんでした。
花森安治の女装は話題にとなり、花森安治は女装の衣装評論家として有名になっていきましたが、雑誌「美しい暮しの手帖」は話題にならなかったのです。
そこで、花森安治はNHKラジオ番組に出演したとき、アナウンサーに自分の事を「暮しの手帖の編集長」と紹介させるようになりました。
これ以降、花森安治は「女装の衣装評論家」から「暮しの手帖の編集長」として認知されていくようになりました。
なお、花森安治は女装作戦を失敗だと思ったのか、後年、大橋鎮子(大橋鎭子)に「自分を売るな、雑誌を売れ」と語っています。
「とと姉ちゃん-暮しの手帖社が倒産目前のあらすじとネタバレ」へ続く。
スポンサードリンク