とと姉ちゃん-商品テストを開始するあらすじとネタバレ

大橋鎮子(大橋鎭子)の花森安治の生涯を描く「実話・とと姉ちゃん」のあらすじとネタバレ編「とと姉ちゃん-暮しの手帖社が倒産目前のあらすじとネタバレ」です。

このページは「とと姉ちゃん-暮しの手帖社が倒産目前のあらすじとネタバレ」からの続きです。

■とと姉ちゃん-美しい手帖の転換期
雑誌「美しい暮しの手帖」は東久邇成子(昭和天皇の第一皇女・照宮)の手記を掲載した第5号を切っ掛けに売り上げを伸ばしていきました。

暮らしの出版社は、昭和21年(1946年)に「衣装研究所」として金座8丁目の日吉ビル3階の一室で発足したが、昭和26年(1951年)から27年頃になると、日吉ビル3階のフロア全てを借りるまでに成長していました。

しかし、それでも手狭になっていました。

そこで、花森安治は知人の紹介で東京都港区東麻布3丁目に土地を買い付け、2階建ての社屋を建築し、昭和28年(昭和28年)11月に「暮しの手帖研究室」を発足させました。

さらに、花森安治は雑誌「美しい暮しの手帖」第22号から、雑誌名を「暮しの手帖」へと変更します。

雑誌名の変更は会議で決定したわけではなく、表紙を描いていた花森安治が表紙に「美しい」を書き忘れたためです。

花森安治は、第23号に「美しい」を描くと、読者に描き忘れに気づかれてしまう、と言言うので、雑誌「美しい暮しの手帖」から表紙から「美しい」が消えたのです。

しかし、その真相は花森安治しか知りません。

なお、雑誌「暮しの手帖」は第22号で雑誌名を変更したことになっていますが、中表紙では「美しい暮しの手帖」となっており、第22号以降も、しばらくは「美しい暮しの手帖」と「暮しの手帖」が混在し、最終的に「暮しの手帖」に統一されました。

また、雑誌名の変更にともない、雑誌の内容も、随筆を前面に押し出したレイアウトから、写真を多用したレイアウトへと変更しています。

出版社の機能は日吉ビル3階の本社に残っていたのですが、社員が本社と「暮しの手帖研究室」の往復が大変になったため、やがて、本社も「暮しの手帖研究室」へと移ります。

こうして、雑誌「暮しの手帖」は「暮しの手帖研究室」の発足を切っ掛けに、婦人誌から生活情報誌へと転換し、昭和29年(1954年)発売の雑誌「暮しの手帖」第26号から「商品テスト」が始まるのです。

■とと姉ちゃん-商品テスト開始のあらすじとネタバレ
雑誌「暮しの手帖」で「商品テスト」を開始した切っ掛けは、大橋鎭子が闇市で買った会社用のミシンでした。それは、とても美しいミシンでしたが、動きませんでした。

これが切っ掛けで、雑誌「美しい暮しの手帖」の第6号で「買物の手帖」という企画が生まれました。

「買物の手帖」は使用者の声を掲載する程度でしたが、それがやがて、数々の伝説を生み出した「商品テスト」へと発展したのです。

商品テストは、昭和29年(1954年)発売の雑誌「暮しの手帖」第26号から始まりました。

雑誌「暮しの手帖」の「商品テスト」は、アメリカの非営利団体は発行する月刊誌「コンシューマー・レポート」を参考にしたものです。

しかし、最初から商品のテスト方法が確立していたわけではありません。花森安治は試行錯誤の中で、「実際に人の手で商品をテストする」「人間が実際に商品を使う」というテスト方法を確立していきました。

■とと姉ちゃん-商品テストの目的
雑誌「暮しの手帖」の商品テストは、消費者に良い商品を紹介するのが目的ではありません。メーカーに良い商品を作ってもらうのが目的です。

良い商品が売れ、悪い商品が売れなくなれば、メーカーが良い商品だけを作るようになります。

そして、店頭に並んでいるのが良い商品だけになれば、後は消費者が好みで商品を選べば良いのです。花森安治は、そう考えていました。

さて、雑誌「暮しの手帖」の商品テストは、単なるテスト結果を発表するだけでなく、記事として読めるようにショーアップされていました。

これが読者の間で話題となり、雑誌「暮しの手帖」の商品テストは、次第次第に影響力を持っていきます。

雑誌「暮しの手帖」の商品テストは会社名を公表していたので、商品テストで酷評されば、売れなくなり、商品テストで好評されれば、商品が飛ぶように売れるという社会現象が起きるようになりました。

「いくら払えば商品を掲載してくれるのか」と尋ねられる事もありました。「会社名だけは公表しないでください」と泣きつかれることもありました。「火を付けるぞ」を脅されることもありました。

商品テストで批判した会社が経営不振に陥り、商品テストする社員は予想外の事態に苦悩するようになりました。

■商品テストは命がけだよ、とと姉ちゃん
花森安治は命がけで、雑誌「暮しの手帖」の商品テストに取り組んでいました。花森安治は、商品テストで失敗すれば、会社が潰れるいう覚悟で臨んでいました。

製造業者が命がけで作った物を批評するのですから、批評する方も命がけでテストしなければならないのです。

このため、雑誌「暮しの手帖」の商品テストは厳格に行われていました。

電化製品であれば、商品に個体差があるので、必ず2つ購入します。1つはデパートで、もう1つは街の電気屋です。秋葉原のような量販店では購入しません。必ず定価で購入します。

そして、購入した2つのうち、成績の良い方を商品テストに使用します。

これはメーカーから「またまた不良品にあたった」と批判されるのを避けるためです。
商品テストは暮しの手帖社の社員によって行われており、新入社員は編集能力よりも、優秀なテスターとしての能力が求められました。

社員が失敗すれば、花森安治は「クビだ」と言って怒鳴りました。

その一方で、花森安治は社長の大橋鎭子(大橋鎮子)に、商品テストが成功するか失敗するかは、大橋鎭子(大橋鎮子)にかかっていると言いました。

そして、花森安治は、社員が幸せに働けるように気にかけ、社員を大事し、会社が危なくなれば、全財産を出して社員を守れと言い、大橋鎭子(大橋鎮子)に社員の「とと姉ちゃん」になるように命じました。

こうして行われる雑誌「暮しの手帖」の商品テストは、読者が想像するよりも遙かに厳格にして過酷でした。メーカー側が花森安治のテスト方法を参考にする程です。

花森安治は、同窓会などに出席すると、商品テストに情が入る可能性があるため、同窓会などには一切出席しませんでした。

ある意味、花森安治は狂人的に商品テストへのめり込んでいき、ストーブの商品テストを切っ掛けに、家一軒を燃やす「火事テスト」を行い、さらには東京消防庁との「水かけ論争」へと発展していくのです。

「とと姉ちゃん-暮しの手帖がバックナンバーの廃止するあらすじとネタバレ」へ続く。

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