細川忠興の妻・細川ガラシャ(明智珠/明智玉)の生涯

本能寺の変を起こした明智光秀の娘にして、戦国大名・細川忠興の妻として数奇な運命をたどった細川ガラシャ(明智珠/明智玉)の生涯です。

■細川ガラシャと細川忠隆の結婚

明智珠(後の細川ガラシャ)は、永禄6年(1563年)に越前で、明智光秀の3女(4女という説もある)として生まれた。明智珠(細川ガラシャ)の誕生日は不明である。母親は、妻木範熙の娘・妻木煕子である。

父・明智光秀は越前の朝倉義景に仕えていたが、重用されず、非常に貧しい暮しをしていたので、朝倉義景の元を離れて、織田信長に使えるようになった。

そして、父・明智光秀は織田信長の元で活躍し、台頭していった。

一方、後に義父となる細川藤孝は、15代将軍・足利義昭の側近だったが、足利義昭が織田信長の庇護を受けて15代将軍に就任した関係で、織田信長に仕えるようになっていた。

さて、織田信長の婚姻政策によって関係を強化を図っており、家臣・明智光秀と家臣・細川藤孝に婚姻を命じた。

こうして、明智珠(細川ガラシャ)は、織田信長の婚姻政策により、天正6年(1578年)8月に、細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚した。祝言は8畳間と6畳間の2間で行われ、質素なものだった。

結婚後、明智珠(細川ガラシャ)は勝竜寺城(京都府長岡京市勝竜寺)で新婚生活を送り、結婚した翌年の天正7年(1579年)に長女・細川長を出産し、その翌年の天正8年(1580年)に長男・細川忠隆を出産した。

天正8年(1580年)、細川忠興の父・細川藤孝は、明智光秀の助けを得て、丹後(京都府北部)南部を平定し、織田信長から丹後を拝領し、丹波の大名となった。

このため、夫・細川忠興も丹波へと入り、宮津城(京都府宮津市)を気づいて居城とし、明智珠(細川ガラシャ)も宮津城へと入った。

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■本能寺の変とガラシャの幽閉

天正10年(1582年)6月、父・明智光秀が本能寺の変を起こし、主君・織田信長を討つと安土城を占領し、諸大名に上洛を求めたが、織田信長の首を示せなかったこともあり、ほどんとの大名は上洛しなかった。

親族である細川藤孝は、明智光秀から「100日のうちに近畿を平定したら、私は隠居して全てを細川忠興に譲る」と協力を求められたが、明智光秀の要請を拒絶し、剃髪して名を「細川幽斎」と改め、家督を嫡男・細川忠興に譲って隠居した。

細川忠興も明智光秀への協力を拒否し、「御身の父親は主君(織田信長)の敵なれば、同室叶うべからず」と言い、正室・明智珠(細川ガラシャ)に離縁を言い渡した。

そして、明智珠(細川ガラシャ)を丹後国の味土野(京都府京丹後市弥栄町)という山奥へ流し、味土野で幽閉したのである。

(注釈:明智珠は絶世の美女で、細川忠興は正室・明智珠を異常なまでに愛しており、明智珠を救うために味土野に幽閉したという説もある。)

このとき、キリスト教の知識を持つ侍女頭「清原いと(後の清原マリア)」が、幽閉された明智珠(細川ガラシャ)に付き従ったと言う説があるが、この説には否定派も居る。

■細川忠興との再婚

その後、中国の毛利を攻めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、明智光秀を討ち、明智光秀の謀反は失敗に終わりる。

この間、明智光秀からの要請を拒否した細川忠興は、明智光秀に組みした丹波北部の一色義清を討ち取り、丹波の一揆を鎮圧した。さらに、山崎の合戦にも家臣を派遣し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に味方していた。

細川忠興は明智光秀の縁者であったが、こうした功績が認められ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から丹波を安堵された。さらに、謀反人の娘となった明智珠(細川ガラシャ)も罪に問われなかった。

天正12年(1584年)、明智珠(細川ガラシャ)は、羽柴秀吉の取りなしによって幽閉を解かれ、2年間にわたる幽閉生活を終える。

明智珠(細川ガラシャ)は、細川忠興の居城・宮津城に戻り、細川忠興と再婚した。明智珠(細川ガラシャ)が22歳の事である。

そして、幽閉から解かれた翌年の天正13年(1585年)、明智珠(細川ガラシャ)が3男・細川忠利を産んだ。

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■細川忠興の異常な愛情

その後、大阪城を築いた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、大阪城の付近を各大名に屋敷を作らせ、大阪の屋敷に大名の妻子を住まわせた。妻子は実質的な人質であった。

細川忠興は、大阪城の南にある玉造という場所に屋敷を作り、明智珠(細川ガラシャ)を玉造の細川屋敷に住まわせた。

細川忠興の明智珠(細川ガラシャ)への異常なまでの愛情はますます増大しており、細川忠興は明智珠(細川ガラシャ)は屋敷の奥に閉じ込め、家臣2人に監視させた。侍女も奥向き用の侍女と、それ以外の侍女に分けられた。

明智珠(細川ガラシャ)の外出が許されたのは、本国・丹後と大阪・玉造の細川屋敷の移動だけで、それ以外は外出を禁止された。

■ガラシャの苦悩-高山右近との出会い

明智珠(細川ガラシャ)は、夫・細川忠興の異常な愛情・嫉妬心により、屋敷の奥に押し込められ、自宅に監禁されていた。

こした監禁生活に苦悩する明智珠(細川ガラシャ)は、禅宗を信仰していたので、禅宗に救いを求めたが、禅宗を信仰しても救われないことを密かに悟るようになった。

そのようななか、苦悩する明智珠(細川ガラシャ)は、夫・細川忠興から、キリシタン大名・高山右近の話を聞いた。

夫・細川忠興は茶道家としても有名で、高山右近とは茶飲み友達だったため、細川忠興は高山右近から聞いたキリスト教の事を明智珠(細川ガラシャ)に話すようになっていたのである。

禅宗では救われないと気づいた明智珠(細川ガラシャ)は、細川忠興からキリスト教の話を聞いて、密かにキリスト教の本質について考えるようになった。

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■細川ガラシャが教会へ行く

そのようななか、豊臣秀吉(羽柴秀吉から改名)が天正14年(1586年)7月に九州征伐を開始し、夫・細川忠興も豊臣軍の一員として九州へと下った。

夫・細川忠興が不在になっても、正室・明智珠(細川ガラシャ)には厳しい監視が付いており、正室・明智珠(細川ガラシャ)は幽閉同様の生活を続けていた。

さて、大阪の天満にキリスト教の教会がったので、救いを求めていた明智珠(細川ガラシャ)は、信頼する侍女に「監視に気づかれることなく、教会へ行く方法は無いか」と相談する。

ちょうど彼岸の時期であり、この時代は、彼岸の時期に寺院へ行く風習があったので、侍女は彼岸の風習を利用して明智珠(細川ガラシャ)を細川屋敷から連れ出すことにした。

天正15年(1587年)2月11日、数人の侍女が彼岸の風習を理由に、寺院へ行くと言って細川屋敷を出た。明智珠(細川ガラシャ)は数人の侍女に囲まれて、監視の目をかいくぐり、玉造の細川屋敷を抜けだすと、その日の昼に教会へ入った。

その日は、復活祭にあたり、教会で高井コスメ修道士が説法をしていた。明智珠(細川ガラシャ)は個室へ通され、個室で高井コスメ修道士の説法を聞いた。

説法を聞いた明智珠(細川ガラシャ)は、高井コスメ修道士に様々な質問をしたり、禅宗の教えを持って反論したりして、議論を交わした。明智珠(細川ガラシャ)はこの議論に非常に満足していたという。

明智珠(細川ガラシャ)は非常に聡明で、高井コスメ修道士が「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはない」と驚くほどであった。

ただ、明智珠(細川ガラシャ)には時間が無く、全ての疑問を解決することは出来なかったので、洗礼を受けてキリスト教の教本を持ち帰り、残りの疑問を解決したいと考えた。

夫・細川忠興に厳しく外出を禁じられている明智珠(細川ガラシャ)は、2度と教会には来れないことを覚悟しており、何度も「洗礼を授けて欲しい」と懇願した。

しかし、明智珠(細川ガラシャ)が身分を明かさなかったため、宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスは「豊臣秀吉の側室ではないか」と疑い、「洗礼は次の機会にしてはどうか」と言い、洗礼を与えなかった。

結局、夕方になっても外出した侍女たちが細川屋敷に戻らなかったため、監視役の家臣に明智珠(細川ガラシャ)の外出が発覚してしまい、家臣によって明智珠(細川ガラシャ)は細川屋敷に連れ戻され、洗礼を受けることは出来なかった。

このとき、宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスは、下僕に明智珠(細川ガラシャ)を尾行させ、明智珠(細川ガラシャ)が細川忠興の正室であることを知り、豊臣秀吉の側室でないことを大いに喜んだ。

■明智珠(細川ガラシャ)が信仰を深める

夫・細川忠興に外出を禁じられている明智珠(細川ガラシャ)は、天正15年(1587年)2月11日に教会を訪れて以降、教会に行くことは出来なかった。

そこで、明智珠(細川ガラシャ)は、ことある毎に理由を付けて侍女を教会へ派遣し、キリスト教に関する質問をするようになった。

そして、明智珠(細川ガラシャ)は侍女を通じて教会から書物を受け取り、キリスト教への信仰を深めていくと同時に、侍女に洗礼を受けるように勧め、侍女・清原いと(清原マリア)など計17人に洗礼を受けさせた。

自宅に監禁されていた明智珠(細川ガラシャ)は、苦悩して鬱病を発症していたが、キリスト教への信仰を深めて行くことにより、忍耐強く、穏やかになっていったという。

明智珠(細川ガラシャ)は周りの人間に洗礼を受けさせることはできたが、明智珠(細川ガラシャ)自身は洗礼を受けることが出来ず、洗礼への欲求はより一層、強くなっていった。

■小笠原秀清(小笠原少斎)の改宗

細川忠興の家老に小笠原秀清(小笠原少斎)という人が居た。小笠原秀清(小笠原少斎)は、大阪・玉造の細川屋敷で明智珠(細川ガラシャ)を警備・監視する任務を任されていた。

明智珠(細川ガラシャ)は、侍女を教会へ派遣し、キリスト教への親交を深めていったが、頻繁に監視の目をかいくぐって侍女を派遣するのも限界があると考え、監視を担当している小笠原秀清(小笠原少斎)をキリスト教へ改宗させようと考えた。

そこで、明智珠(細川ガラシャ)は小笠原秀清(小笠原少斎)に「父・明智光秀の年忌です。私たちの習慣では、父上の霊前に供物を差し上げることになっていますが、キリスト教では、私たちの習慣は無益であり、偽りであると、侍女から聞きました。父上がお喜びにならない事をするのは、道に外れた行為です。貴方は教会へ行って司祭から話を伺い、貴方の意見も添えて報告して下さい」と頼んだ。

小笠原秀清(小笠原少斎)は明智珠(細川ガラシャ)の命令に従って教会を訪れた。

教会は侍女を通じて明智珠(細川ガラシャ)の計画を聞いていたのであろう。教会は、小笠原秀清(小笠原少斎)に説法をする日本人の宣教師を用意していた。

その結果、説法を聞いた小笠原秀清(小笠原少斎)は妻子にキリスト教の洗礼を受けさせ、小笠原秀清(小笠原少斎)自身もキリスト教の洗礼を受けることを決めた。

ところが、その直後、豊臣秀吉がバテレン追放令(キリスト教禁止令)を出したため、小笠原秀清(小笠原少斎)が洗礼を受けたかは不明である。

■豊臣秀吉のバテレン追放令

明智珠(細川ガラシャ)が屋敷を抜け出して教会へ行った日から4ヶ月後、九州を平定した豊臣秀吉が、天正15年(1587年)6月19日に筑前の箱崎(福岡県福岡市東区)で、突如として「バテレン追放令」を発令した。

豊臣秀吉がバテレン追放令を発令した理由は、諸説あるが、「九州で勢力を拡大するキリスト教に脅威を感じた」「ポルトガル人が日本人を奴隷として海外に販売していた」というのが主な理由とされる。

さて、豊臣秀吉はバテレン追放令でキリスト教の布教活動を禁止したが、豊臣秀吉は南蛮貿易を重視していたので、バテレン追放令はキリスト教を厳しく取り締まるような法律ではなかった。

また、キリスト教(イエズス会)の宣教師も表向きにはバテレン追放令に従い、長崎へ移ったので、キリシタンを弾圧するような事は起きなかった。

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■ガラシャの洗礼

しかし、バテレン追放令や高山右近の改易を知った明智珠(細川ガラシャ)は、バテレン追放令を深刻に受け取り、宣教師オルガンティーノに無念と同情の手紙を何度も送った。

そして、明智珠(細川ガラシャ)は、侍女と共に殉教(信仰のために死ぬこと)の準備をして、「豊臣秀吉が帰国し、キリシタンへの迫害が過熱するような事があれば、キリシタンの侍女らと共にキリシタンだと名乗り出て、十字架の死を迎える」と宣教師オルガンティーノに殉教の決意を伝えた。

京都に潜伏していた宣教師オルガンティーノは、大阪へ行き、明智珠(細川ガラシャ)を諫めたが、明智珠(細川ガラシャ)の決意は固かった。

宣教師オルガンティーノは、バテレン追放令に従って、長崎へ向かう事になっていたため、明智珠(細川ガラシャ)が洗礼を受ける最後の機会だった。

このため、宣教師オルガンティーノは、明智珠(細川ガラシャ)に洗礼を与えることを決断したが、明智珠(細川ガラシャ)は外出が厳しく禁じられていたので、教会へ来ることは出来なかった。

そこで、宣教師オルガンティーノは、既に洗礼を受けている侍女頭・清原マリア(清原いと)を教会に呼んで洗礼の方法を教え、清原マリア(清原いと)に洗礼(代理洗礼)させることにした。

こうして、天正15年(1587年)7月ごろ、明智珠(細川ガラシャ)は玉造の細川屋敷で清原マリア(清原いと)から代理洗礼を受け、「ガラシャ」という洗礼名を受けた。ガラシャとは、ラテン語で「恩寵」「恩恵」という意味である。明智珠(細川ガラシャ)が25歳の事であった。

■次男・細川興秋の洗礼

天正15年(1587年)、次男・細川興秋が大病を患い、危篤状態となった。キリスト教では、洗礼を受けずに死んだ者の魂は救われないため、細川ガラシャ(明智珠)は病床の次男・細川興秋に洗礼を受けさせた。

すると、洗礼を受けた次男・細川興秋は奇跡的に一命を取り留めて回復したので、細川ガラシャ(明智珠)の信仰はさらに深まった。

(注釈:洗礼を受けたのは、次男・細川興秋ではなく、天正14年に生まれた三男・細川忠利という説もある。)

■細川ガラシャ(明智珠)の離婚騒動

夫・細川忠興は、豊臣秀吉に忠実だったので、九州征伐から帰国すると、キリシタンを激しく嫌い、キリシタンの弾圧を始めた。

夫・細川忠興の残虐性は以前よりも増しており、些細な落ち度でも躊躇することなく、キリシタンの侍女の耳や鼻をそぎ落としたり、首をはねたりして、厳しくキリスト教を弾圧した。

さらに、細川ガラシャの入信を知った夫・細川忠興は、細川ガラシャに冷たく当たり、側室を5人持つと言い出し、絶世の美女といわれる侍女頭ルイザに側室になる事を強要した。

細川ガラシャは、大阪に潜伏しているキリシタンの助けを借り、侍女頭ルイザを逃がすと、夫・細川忠興と離婚して、宣教師オルガンティーノらの居る長崎で暮らす事を強く希望した。

しかし、キリスト教は離婚を認めていなかったし、細川ガラシャが離婚して長崎に来ると、細川忠興を怒らせることになり、キリスト教への弾圧が強まる恐れがあった。

このため、長崎に居た宣教師オルガンティーノは、細川ガラシャのために、大阪を訪れ、「苦難に立ち向かってこそ、信仰心が示せる」と説いて、細川ガラシャに離婚を思いとどまらせた

なお、細川ガラシャ(明智珠)は離婚騒動を起こした翌年の天正16年(1588年)に次女「細川たら」を出産する。

■夫・細川忠興の変化

細川忠興の弟・細川興元が高山右近や細川ガラシャ(明智珠)の影響を受けて、文禄4年(1595年)に洗礼を受け、家臣にも洗礼を受けさせた。

父・細川幽斎(細川藤孝)が「個人の問題」として細川興元の改宗を黙認したので、細川忠興も弟・細川興元の訴えを受け入れる形で、キリスト教への弾圧を止め、2人の女に洗礼を受けさせることを許した。

夫・細川忠興は豊臣秀吉の影響でキリスト教を嫌っていたが、細川ガラシャ(明智珠)からキリスト教の話を聞いているうちに考えも変わっていき、バテレン追放令があったので、改宗こそしなかったが、キリスト教に理解を示すようになった。

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■サン=フェリペ号事件

豊臣秀吉は文禄元年(1592年)に朝鮮出兵(文禄の役)を開始したが、文禄2年(1593年)に明・李氏朝鮮連合軍と和睦し、唐入り(文禄の役)は休戦となった。

そのようななか、文禄5年(1596年)7月、マニラを出向してメキシコを目指していたスペイン船「サン=フェリペ号」が台風の被害を受け、土佐沖(高知県沖)に流れ着き、浦戸湾で座礁した。

知らせを受けた豊臣秀吉は、増田長盛を土佐(高知県)へ派遣して、サン=フェリペ号の積荷を押収し、乗組員を拘束した。船長は激しく抗議したが、積荷が返還されたなかった。

そこで、怒った航海長は、増田長盛に世界地図を見せ、「我がスペイン国王の領土は、世界に渡って広大である」と言ってスペイン国王の威武を示して、増田長盛を脅した。

増田長盛は唐入り(朝鮮出兵)の時に石田三成らと共に朝鮮軍事奉行を務めた人物で、スペインが数々の国を植民地化していることに驚き、「どのようにして、これほど多くの国々を領土にしたのか」と尋ねた。

すると、航海長は「まず、宣教師を送り込んで説教させて信者を増やし、その後、軍隊を送り込んで、信者の助けを借りて国を征服する」と答えた。

増田長盛から報告を受けた豊臣秀吉は激怒し、再びバテレン追放令を発令する。そして、豊臣秀吉は石田三成に、キリシタンの取り締まりを命じたのである。

■日本26聖人の殉教

先に日本で活動していたポルトガル系カトリックのイエズス会の宣教師は、大阪や京都に潜伏していたものの、表面上は豊臣秀吉のバテレン追放令に従い、表だった布教活動は行っていなかった。

しかし、後から日本に進出してきたスペイン系カトリックのフランシスコ会は、日本の事情を把握できていなかったのか、大阪や京都で布教活動を続けていた。

そのようななか、豊臣秀吉はスペイン船「サン=フェリペ号」が座礁した事件を切っ掛けに、再びバテレン追放令を通達し、石田三成にキリシタンの取り締まりを命じたのである。

豊臣秀吉の命令を受けた石田三成は、大阪と京都とで、計24人のキリシタンを逮捕した。逮捕されたのは、フランシスコ会7人と信者14人に、イエズス会3人であった。

石田三成は逮捕したイエズス会3人を助けようとしたが、豊臣秀吉は許さず、逮捕された24人は耳をそぎ落とされ、京都と大阪で市中引き回しとなった。

その後、逮捕されたキリシタン24人は徒歩で長崎へと移送された。その途中で、キリシタンの世話をした2人のキリシタンが捕らえられ、逮捕者は計26人となった。

長崎の役人はキリシタン26人の中に少年が居る事に哀れみ、最年少12歳のキリシタンのルドビコ茨木に「棄教すれば命は助けてあげよう」と持ちかけたが、ルドビコ茨木は役人の申し出を断り、自分の意の命よりも信仰を選んだ。

こうして、キリシタン26人は、慶長元年(1596年)12月に長崎の西坂の丘(長崎県長崎市西坂町)で磔となって処刑された。イエス・キリストがゴルゴタの丘で処刑されたことから、キリシタンが丘での処刑を希望したという。

西坂の丘で処刑されたキリシタン26人は、聖人に認定され、この事件は「日本26聖人の殉教」と呼ばれるようになった。(注釈:殉教とは、信仰のために死ぬこと)。

■細川ガラシャの決意

日本26聖人の処刑を知った細川ガラシャ(明智珠)は、キリシタンの侍女とともに殉教するときの衣装を準備して、宣教師オルガンティーノが処刑を受けるようなことがあれば、昼夜を問わずに駆けつけ、宣教師オルガンティーノとともに殉教する事を決意した。

しかし、幸い、そのような事態にはならなかった。「日本26聖人の殉教」が起きたのは慶長元年(1596年)12月、細川ガラシャが34歳の事であった。

■細川ガラシャと関ヶ原の戦い

第2次朝鮮出兵中の慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去。2度に渡る朝鮮出兵(唐入り)は、豊臣秀吉の死によって終わった。

豊臣秀吉の死後、徳川家康が台頭し、石田三成は徳川家康に隠居に追い込まれ、中央政権から失脚し、佐和山城で隠居した。

そのようななか、会津の上杉景勝に不穏な動きがあり、徳川家康は慶長5年(1600年)6月に上杉討伐(会津討伐)を発令し、諸将を伴って関東へと兵を進めた。

徳川家康に従って関東へと下向する細川忠興は、小笠原秀清(小笠原少斎)・稲富直家・河北石見など数名の家臣を大阪の細川屋敷の警護に残し、「細川ガラシャの名誉に危険が生じるようなことがあれば、細川ガラシャを殺して、みなも自害するように」と命じ、関東へと下向した。

さて、佐和山城で隠居していた石田三成は、近畿から徳川家康の勢力が居なくなった隙を突き、毛利輝元を総大将として大阪城で挙兵した。

慶長5年(1600年)7月12日、石田三成が大阪の屋敷に残っている妻子を人質に取るという噂が聞こえて来たので、細川ガラシャは「石田三成は夫・細川忠興と仲が悪いので、人質を取るときは、最初にここへ来るでしょう。そのとき、どのように対応するのか決めておきなさい」と言い、警護に残った家老・小笠原秀清(小笠原少斎)らに協議させた。

その後、協議を終えた小笠原秀清(小笠原少斎)は、細川ガラシャに「使者が来れば『長男・細川興元と次男・細川興秋は東に出陣しており、三男・細川忠利は江戸の人質になっています。ここには人質になる者が1人も居ません』と答えます。それでも人質を出せと要求されれば、『丹後の細川幽斎(細川藤孝)に使者を送り、細川幽斎に人質になってもらうか、もしくは何かの指図を扇ぎますので、それまで待って下さい』と答えます」と報告した。

それを聞いた細川ガラシャは、「では、そのようにいたしなさい」と答えたので、小笠原秀清(小笠原少斎)は上杉討伐(会津討伐)で東に出陣している細川忠興に手紙で報告した。

さて、慶長5年(1600年)7月、徳川家康の留守を突いて大阪城で挙兵した石田三成は、「諸大名の人質を取れば、味方になる大名の出てくるだろう」と思い、徳川家康の罪を糾弾する「内府ちかひ(違い)の条々」を発表するに先だって、徳川家康に属して上杉討伐(会津討伐)に向かった大名の妻子を人質に取ることにした。

石田三成は細川忠興と仲が悪かったので、石田三成は最初に細川忠興から人質を取って鬱憤を晴らそうと考えた。

ただ、最初の人質は、その後の人質に大きな影響を与えるため、石田三成は細川家に仕えていた事のある「ちやうこん」という名前の比丘尼(びくに=尼僧)を玉造の細川屋敷に派遣し、内々に人質として大阪城の本丸へ入るように要請した。

しかし、細川ガラシャは人質要請に応じなかったので、比丘尼は帰った。

ところが、比丘尼は再び細川屋敷を訪れ、今度は細川ガラシャに西軍・宇喜多秀家(宇喜多八郎)の屋敷へ移って欲しいと頼んだ。

長男・細川忠隆の正室は宇喜多秀家の娘で、細川家と宇喜多家は親戚にあたる。親戚の家に移るのであれば、世間は人質とは思わないので、細川家の面目も立つというのである。

しかし、細川ガラシャ(明智珠)は「宇喜多秀家は石田三成の一味と聞いております。宇喜多秀家の屋敷に移るのは、石田三成の人質になるのと同じです」と言い、受け入れなかった。

このため、石田三成は内々に細川ガラシャを人質に取ることを諦め、慶長5年(1600年)7月17日に正式な使者を派遣し、細川ガラシャに人質を要求したのである。

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■細川ガラシャの自害当日

慶長5年(1600年)7月17日、石田三成は玉造の細川屋敷に使者を派遣し、正式に細川ガラシャを人質に出すように要求した。

細川屋敷の留守を任されている家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は、石田三成の使者に「細川屋敷は大阪城から遠くありません。そのままにしておいてください」と拒否した。

しかし、石田三成から再三にわたり使者が来て「是非是非、人質を出したまえ。さもなければ、押しかけて人質を取るぞ」と圧力を掛けてきたので、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は「あまりの申しようだ。このうえは切腹して申し開きをする」と言って使者を追い返し、細川家の家臣一同は切腹を覚悟した。

これを聞いた細川ガラシャは、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)に「大阪城に入って恥をさらす事はなりません。次ぎに使者がきたら、速やかに自害します」と告げた。

家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は「丹後へ逃げてください」と頼んだが、細川ガラシャは「夫・細川忠興は逃げる事を許しません。出陣前に言い残されたので、私が屋敷から1歩も出る事はありません」と答えた。

すると、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は泣きながら、「私も主・細川忠興から、『細川ガラシャ(明智珠)の名誉に危険が生じるようなことがあれば、細川ガラシャを殺して、みなも自害するように』と命じられています。一方を打ち破って丹後へ逃れる事は簡単ですが、ガラシャ様がそのように決断したのなら、私もお供いたします」と答えた。

すると、細川ガラシャ(明智珠)は、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)に「まことに敵が押しかけてきたならば、小笠原秀清(小笠原少斎)は奥の間に来て、私を介錯するように」と命じた。

長男・細川忠隆の正室・前田千世(前田利家の娘)も細川ガラシャに同調して自害を決断したので、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は2人を介錯する事を約束した。

■細川ガラシャの自害の経緯

慶長5年(1600年)7月17日夜、石田三成は細川ガラシャを力ずくで人質に取るため、大阪・玉造の細川屋敷に兵を派遣し、玉造・細川屋敷を取り囲んだ。

細川屋敷の留守を任された小笠原秀清(小笠原少斎)・稲富直家・河北石見の3人は、敵が来た時の対応を協議しており、稲富直家が表で敵を防ぎ、敵が屋敷内に入ってくるような事があれば、小笠原秀清(小笠原少斎)が細川ガラシャを介錯する手はずになっていた。

一方、熱心なクリスチャンである細川ガラシャは、キリスト教が自殺を禁止していたため、自害が自殺にあたるのかどうかで悩み、大阪に潜伏している宣教師オルガンティーノに手紙を出して、悩みを相談していた。

細川ガラシャは宣教師オルガンティーノの言葉により、安心して自害する事を決断しており、自害の当日は極めて心穏やに礼拝堂で祈りを捧げていた。

さて、長男・細川忠隆の正室・前田千世は、細川ガラシャと共に自害する事を決めていたが、姉・前田豪(宇喜多秀家の正室)から「隣の宇喜多屋敷へ逃げて来なさい」と誘われた。

そこで、前田千世は、細川ガラシャを誘って宇喜多屋敷へ逃げようとしたが、細川ガラシャはあくまでも細川屋敷に残ると言い、1人で逃げるように命じたので、前田千世は1人で隣の宇喜多屋敷へ逃げ、難を逃れた。

■細川ガラシャの自害

さて、事前の取り決めの通り、細川忠興の家臣・稲富直家は表門で石田三成の手勢を防いでいたが、稲富直家が途中で石田三成側に寝返ってしまった。

稲富直家は鉄砲の名人だったので、知らせを聞いた小笠原秀清(小笠原少斎)は、鉄砲の名人が相手では分が悪いと思い、急いで細川ガラシャの元を訪れ、細川ガラシャに「今が最期にございます」と告げた。

それを聞いた細川ガラシャは、礼拝堂での祈りを終え、奥の部屋で自害する準備を始めた。

さて、細川ガラシャの侍女は、細川ガラシャを敬愛していたので、細川ガラシャと一緒に死ぬことを望んだが、細川ガラシャは「細川忠興の言いつけ通り、1人で死にます」と言い、侍女の自害を禁じ、侍女を玉造の細川屋敷から逃がした。

このとき、「霜」と「をく(おく)」という名前の2人の侍女がガラシャと一緒に死ぬことを強く望んだが、細川ガラシャは「夫・細川忠興や長男・細川忠隆は、私の最期を知りたいでしょう」と諭し、侍女「霜」に遺書や形見の品を託して玉造の細川屋敷から逃がした。

そして、細川ガラシャが奥の部屋に入り、髪をキリキリと巻き上げて首を露わにすると、障子を隔てて部屋の外に居る小笠原秀清(小笠原少斎)は「そうではございません」と告げた。

細川ガラシャは心得たりとして、胸元を開くと、小笠原秀清(小笠原少斎)は「もう少し、こちらへお寄り下さい」と告げた。

細川ガラシャが障子の側へ行き、胸元を開くと、小笠原秀清(小笠原少斎)は手にしていた長刀で、障子越しに細川ガラシャの胸を突いて殺した。

こうして、細川ガラシャは夫・細川忠興の名誉を守り、細川家のために壮絶な最期を迎えた。細川ガラシャが死んだのは慶長5年(1600年)7月17日、細川ガラシャが38歳の時の出来事であった。

細川ガラシャの辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」であった。

なお、細川ガラシャは、あくまでも細川家の為に死んだのであり、キリスト教のために死んではいないので、殉教でもないし、キリスト教の聖人にも数えられていない。

■細川ガラシャの死後

細川ガラシャの死後、小笠原秀清(小笠原少斎)は細川ガラシャの遺体に着物を掛け、その上に火薬をばらまき、屋敷中に火薬をばらまいた。

そして、小笠原秀清(小笠原少斎)と生き残っていた家臣らは、細川ガラシャと同じ部屋で死ぬことを遠慮して、別室へ集まり、屋敷を火を放つと、切腹した。

石田三成は、東軍に属する池田輝政・藤堂高虎ら数人の妻子を人質に取り、大阪城の本丸に入れていたが、細川ガラシャの死を受けて、人質を取ることを諦め、人質に取っていた妻子を解放したのであった。

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