女城主・井伊直虎(次郎法師)と椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)
奇しくも、戦国時代の遠江(静岡県西部)に、椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)と井伊直虎(男性の名前だが、性別は女性)という2人の女城主が誕生した。
1人目の椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)は、一説によると、天文19年(1550年)に宇津山城の城主・小原鎮実として生まれ、曳馬城(静岡県浜松市中区)の城主・飯尾連竜の妻となり、城主・飯尾連竜の死後、女城主となって曳馬城を守った。
一方、井伊直虎(次郎法師)は、井伊谷城(静岡県浜松市北区)の城主・井伊直盛の長女として生まれ(生まれ年は不明)、井伊家の男系が途絶えたため、男性の名前で井伊家の当主となり、後に徳川四天王の1人となる井伊直政を養育した人物である。
■遠州錯乱
さて、遠江(静岡県西部)に井伊直虎と椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)という2人の女城主が誕生した背景には、「遠州錯乱」と呼ばれる混乱期が関係する。
永禄3年(1560年)5月、駿河・遠江・三河の三国を支配する今川義元は、尾張(愛知県西部)へと侵攻したが、尾張(愛知県西部)の織田信長の奇襲攻撃を受けて死去する(織田信長の野望-桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いにより、尾張(愛知県西部)の織田信長が台頭し、今川義元の傘下に居た徳川家康も三河(愛知県東部)を回復して今川家から独立した。
こうして、桶狭間の戦い以降、今川家は衰退の一途をたどり、遠江(静岡県西部)での支配力を失い、三河(愛知県東部)で独立した徳川家康は織田信長と同盟を結び、遠江(静岡県西部)へと勢力を伸ばし始めた。
このため、今川家に属していた遠江(静岡県西部)の国人が相次いで徳川家に寝返り、遠江(静岡県西部)は「遠州錯乱」という混乱期を迎えたのである。
■井伊家の混乱
こうした混乱期のなか、井伊家の19代当主・井伊直親(井伊直虎の許嫁)は今川家に属していたが、井伊家の家老・小野道好が主家の今川家に対して「謀反の兆しがある」と讒言し、今川氏真を激怒させる。
19代当主・井伊直親(井伊直虎の許嫁)は釈明のために今川氏真の駿府城へ向かったが、途中で今川家の重臣で掛川城の城主・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に襲われ、井伊直親(亀之丞)と家臣19人は殺された。
このため、井伊家の男児は、19代当主・井伊直親(井伊直虎の許嫁)の嫡男・虎松(井伊直政)だけとなり、隠居していた16代当主・井伊直平(井伊直虎の曾祖父)が虎松(井伊直政)の後見人となり、井伊家の当主に復帰する。
■2人の女城主の誕生のあらすじとネタバレ
このようななか、遠江(静岡県西部)にある犬居城(静岡県浜松市)の城主・天野景貫が遠州錯乱に乗じて、今川家に反旗を翻し、三河の徳川家康に寝返ったのである。
今川家に属する井伊谷城の城主・井伊直平(井伊直虎の曾祖父)は、今川氏真の命令で、天野景貫の居城・犬居城(静岡県浜松市)を攻めることになる。
そして、犬居城攻めに向かう16代当主・井伊直平(井伊直虎の曾祖父)は、道中にある今川家の家臣・飯尾連竜の居城・曳馬城(ひくま城)に立ち寄った。
ところが、味方であるはずの曳馬城の城主・飯尾連竜の妻・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)が、お茶に毒を入れて井伊直平(井伊直虎の曾祖父)を殺害したのである(椿姫の毒入り茶事件)。
曳馬城の城主・飯尾連竜は、井伊直平を殺害して遠江(静岡県西部)で勢力を伸ばそうとしたとも、既に徳川家康に寝返っていたともいう。ただし、井伊直平(井伊直虎の曾祖父)は75歳という高齢だったため、単なる自然死という説もある。
いずれにしても、曳馬城の城主・飯尾連竜が徳川家康に寝返ったという流言があり、今川氏真は曳馬城を攻めた。
しかし、今川氏真は曳馬城(ひくま城)を攻め落とせなかったうえ、曳馬城攻めに参加していた井伊家は大勢の家臣を戦死させてしまった。
ところが、曳馬城の城主・飯尾連竜は徳川家康に寝返ったという疑惑を否定していたので、今川氏真は曳馬城の城主・飯尾連竜に和睦を持ちかけ、曳馬城の城主・飯尾連竜を呼び寄せて殺害したのである。
すると、飯尾連竜の家臣は混乱して曳馬城を捨てて逃げたので、城主・飯尾連竜の妻・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)が亡き夫・飯尾連竜の後を継ぎ、200~300の兵を従えて女城主となった。
一方、井伊家は16代当主・井伊直平(井伊直虎の曾祖父)が毒殺されたことにより、井伊家の男性は幼い虎松(井伊直政)だけとなった。
しかし、虎松(井伊直政)の母・奥山氏は、虎松(井伊直政)を守るために、松下源太郎清影と再婚して、虎松(井伊直政)を松下家に入れ、井伊家から除籍させたので、井伊家の男系は途絶え、出家した女の次郎法師(井伊直虎)だけが残った。
そこで、井伊家の菩提寺である龍潭寺の和尚・南渓瑞聞は、井伊家の一族・家臣を集めて、出家している女の次郎法師(井伊直虎)を井伊家の当主にすることを提案したのである。
その結果、出家していた女の次郎法師(井伊直虎)が還俗して、井伊直虎という男性名をなのり、井伊家の女当主になった。
こうして、椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)の毒入りお茶事件が切っ掛けで、曳馬城の女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)、井伊谷城の女城主・井伊直虎という2人の女城主が遠江(静岡県西部)に誕生したのである。
しかし、井伊谷城の女城主・井伊直虎は、井伊家の家老・小野道好に居城・井伊谷城を乗っ取られてしまう。
このとき、井伊谷城を失った井伊直虎に味方したのが、井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)であった。
井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)は今川家に反旗を翻し、三河(愛知県東部)の徳川家康を遠江(静岡県西部)へ引き入れて道案内し、井伊直虎に味方して井伊谷城を奪い返し、井伊家の家老・小野道好を追放したのである。
こうして、井伊直虎は、井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)や徳川家康の助力により、再び井伊谷城の女城主に返り咲いた。
このようななか、甲斐(山梨県)の武田信玄が外交方針を転換して、同盟を結んでいた今川氏真と手切り、三河(愛知県東部)の徳川家康と同盟を結び、今川氏真の領土である駿河・遠江へと侵攻したのである。
武田信玄の駿河侵攻に呼応して、遠江(静岡県西部)へと侵攻した徳川家康は、曳馬城の女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)に好条件を提示して降伏を促した。
しかし、女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)は、「城を開きて降参するは、妾の志にあらず」と言って降伏を拒否したのである。
これに怒った徳川家康は曳馬城を攻め、曳馬城の女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)は200~300人の兵で抗戦し、徳川軍の兵300人を討ち取ったが、多勢に無勢で、女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)の兵もほぼ全滅してしまう。
やがて、徳川軍が曳馬城の三の丸、二の丸へと攻め入ったとき、女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)は次男・辰三郎と侍女18人を従えて、徳川軍に切り込み、討ち死にした(自害したとも伝わる)。
これを聞いた徳川家康の正室・築山殿は、女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)の死を悲しみ、翌日、塚を作って女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)を懇ろに弔い、塚の周りに100本の椿を植えた。
このため、女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)は「椿姫」と呼ばれるようになった。
こうして、16代当主・井伊直平(井伊直虎の曾祖父)を毒殺した宿敵の女城主・椿姫(お田鶴の方/田鶴姫)が死に、井伊家は毒殺された16代当主・井伊直平の恨みを晴らしたのであった。
その後、武田信玄・徳川家康の侵攻を受けた今川氏真は、相模の北条氏を頼り、大名としての今川氏は滅び、遠江(静岡県西部)は徳川家康の支配下になった。
それでも、井伊谷城の女城主・井伊直虎に平穏な時間は訪れなかった。やがて、徳川家康と武田信玄が対立し、遠江(静岡県西部)は再び戦乱の渦中に巻き込まれたのである。
こうしたなか、井伊谷城の女城主・井伊直虎は、元許嫁・井伊直親の遺児・虎松(井伊直政)を徳川家康に出仕させるために養育し、徳川家康が三方ヶ原に鷹狩りに出たさい、15歳になった虎松(井伊直政)を徳川家康にお目見せさせた。
虎松(井伊直政)は、虎松(井伊直政)は母の再婚相手・松下源太郎清影の養子になっていたが、徳川家康に許されて井伊家に復帰し、遠江国引佐郡井伊谷(静岡県浜松市)を安堵された。
こうして、虎松(井伊直政)は、徳川家康に300石で出仕して「万千代」と名乗り、徳川家康の小姓となり、天正10年(1582年)に22歳で元服し、井伊直政と名を改めた。
井伊谷城の女城主・井伊直虎は、虎松(井伊直政)が徳川家康に出仕した事を切っ掛けに、虎松(井伊直政)に井伊家の家督を譲ると、出家して「祐圓尼」と名乗り、虎松(井伊直政)の活躍を見守り、虎松(井伊直政)が元服した天正10年(1582年)に死んだ。
その後、井伊直政は武田勝頼との戦いで数々の武功をあげ、徳川家康の養女・唐梅院を正室に迎えて徳川一門となった。
そして、井伊直政は赤備えの精鋭部隊本を率いて数々の武功をあげ、多忠勝・榊原康政・酒井忠次と共に「徳川四天王」と呼ばれる徳川家康を代表する家臣となり、関ヶ原の戦いの後、佐和山藩(彦根藩)18万石の藩主となった。