とと姉ちゃん-データ偽装と公開商品試験のモデルと実話のネタバレ

朝ドラ「とと姉ちゃん」で最後の山場となる「公開商品試験」の実話とモデルについて紹介します。

■とと姉ちゃん-公開商品試験までの実話と経緯

大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治が創刊した雑誌「暮しの手帖」は、創刊号から全く売れず、第3号の時には倒産の危機を迎えたが、第5号に東久邇成子(照宮)の手記を掲載したことを切っ掛けに売り上げを伸ばしていった。

このようななか、大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治は、闇市で綺麗なミシンを購入したが、そのミシンは外観が綺麗なだけで、動かなかった。

このため、大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治は、「みんなが、このような物を購入してはいけない」と考え、雑誌「暮しの手帖」の第6号で「買物の手帖」という企画を開始する。

暮しの手帖の「買物の手帖」は使用者の声を掲載する企画だったが、それがやがて、独自に商品をテストする「商品テスト」へと発展することになる。

雑誌「暮しの手帖」の「商品テスト」は、アメリカの非営利団体が発行する商品試験雑誌「コンシューマー・レポート」を参考にしたものである。

花森安治は、早い段階から「商品テスト」という構想を持っていたが、商品批判をしても社会に影響力が無ければ意味が無いと考え、発行部数が伸びるのを待った。

そして、花森安治は、雑誌「暮しの手帖」の発行部数が伸びてくると、東京都港区東麻布3丁目に土地を買い付け、2階建ての社屋を建築し、昭和28年(1953年)11月に「暮しの手帖研究室」を発足させ、昭和29年(1954年)発売の雑誌「暮しの手帖」第26号から「商品テスト」を開始したのである。

暮しの手帖の「商品テスト」は商品者に商品を紹介するための企画だと思われがちだが、本当の目的は生産者に良い商品を作って貰うための企画だった。

花森安治は「商品を批判して悪い商品が売れなくなれば、悪い商品は店頭に並ばなくなる。店頭に並ぶのが良い商品ばかりになれば、後は消費者が好みで商品を選べば良い」と考えていたのである。

さて、雑誌「暮しの手帖」は次第に売り上げを伸ばしていき、商品テストも大きな影響力を持つようになっていた。

雑誌「暮しの手帖」は、社名を公表してテスト結果を掲載していたため、商品テストで評価された商品は売れ、商品テストで酷評された商品は売れなくなるという社会現象が起きるようになった。

実際に倒産寸前の会社が商品テストで評価されて復活するような事もあったし、反対に商品テストで酷評された大手企業が倒産寸前に追い込まれるという事もあった。

さて、朝ドラ「とと姉ちゃん」でも、雑誌「あなたの暮らし」は実話と同様に、次第次第に販売部数を伸ばし、企画「商品試験」は大きな影響力を持って行いった。

雑誌「あなたの暮らし」の企画「商品試験」で批判されたアカバネ電器製造の社長・赤羽根憲宗(古田新太)は、雑誌「あなたの暮らし」に泣きついたり、お金を積んだりしたが、小橋常子(高畑充希)や花山伊佐次(唐沢寿明)に完全に拒否されてしまう。

そこで、アカバネ電器製造の社長・赤羽根憲宗(古田新太)は、小橋常子(高畑充希)らに嫌がらせを開始する。

このようななか、雑誌「あなたの暮らし」の商品試験に対し、試験結果偽装疑惑が浮上。小橋常子(高畑充希)は苦悩の末、商品試験の公開試験を行うことを決断したのであった。

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■とと姉ちゃん-公開商品試験の実話はストーブの水掛け論争

さて、ドラマ「とと姉ちゃん」で偽装疑惑が浮上し、公開試験が行われることになるのだが、この公開試験のモデルは「ストーブの水掛け論争」事件である。

雑誌「暮しの手帖」の編集長・花森安治は、「ストーブの火は水を掛ければ消える」と発表し、ストーブの消火方法について東京消防庁と対立した。

マスコミがおもしろおかしく書き立てた影響で、大勢が消防庁に問い合わせが殺到し、消防庁が昭和43年にストーブの消火に関する公開実験を行うこなった。世に言う「水掛け論争事件」である。

さて、この水掛け論争事件の発端は、昭和35年(1960)まで遡る。

花森安治は、昭和35年(1960)の「暮しの手帖」第57号でストーブの商品テストを行った。

花森安治は初め、国産ストーブ6社のストーブを商品テストする予定だったが、登山家・浦松佐美太郎のアドバイスにより、イギリスのアラジン社のストーブ「ブルーフレーム」をテストに加え、計7社のストーブを商品テストした。

このとき、1酸化炭素を排出する国産ストーブがあった。

花森安治らは雑誌「暮しの手帖」での発表前にテスト結果を漏らすことを禁じていたが、一酸化炭素は人命に関わるため、雑誌「暮しの手帖」の発売前にストーブ製造会社に連絡した。

そして、製造会社立ち会いの下で再試験を行ったが、はやり一酸化炭素を排出していたので、雑誌「暮しの手帖」で公表に踏み切った。

これに激怒したストーブ製造会社は、花森安治や大橋鎮子(大橋鎭子)に罵詈雑言を並べ立てたうえ、脅迫めいたことを行った。

このエピソードの詳細は伝わっていないが、大橋鎮子(大橋鎭子)はこの件で、とても心を痛めた。

こうしたエピソードから、朝ドラ「とと姉ちゃん」に登場するアカバネ電器製造の社長・赤羽根憲宗(古田新太)のモデルは、一酸化炭素を排出していたストーブの製造会社だと考えられている。

ところで、花森安治はストーブの商品テストの最後に、火の付いたストーブを倒すように命じており、従業員は倉庫で火の付いたストーブを倒した。

すると、アラジン社のストーブ「ブルーフレーム」は転倒しても火が燃え広がらなかったのに対し、国産ストーブは転倒すると、全て、火の手が天井まで上がり、倒れれば火事になる危険性がある事が分かった。

しかも、国産ストーブはあらゆる試験でブルーフレームに惨敗しており、花森安治は昭和35年(1960年)発売の雑誌「暮しの手帖」第57号で、アラジン社のブルーフレームを推奨し、「おすすめできるものは、国産ストーブ6種類のなかにはありませんでした」と発表した。

それから2年後の昭和37年(1962年)に、雑誌「暮しの手帖」は第2回ストーブ商品テストを行った。

第2回ストーブ商品テストで、雑誌「暮しの手帖」が推薦したのはアラジン社のブルーフレームだけだったが、国産ストーブは前回のテストよりも好成績を収めたので、大橋鎮子(大橋鎭子)は安心した。

さて、第2回ストーブ商品テストから4年後の昭和41年2月、花森安治の自宅から出火し、花森安治の自宅が全焼。花森安治は火事によって貴重な資料やレコードを全て失ってしまった。

花森安治は、子供の頃にも火事で自宅を失っており、これが2度目の火事である。

クーラーが普及し始めるのは昭和40年代後半からで、それまではストーブが暖房の主力だったため、冬になると火事が頻繁に起きており、火事は大きな問題であった。

火事は一瞬にしてみんなの「暮し」を奪うものであり、みんなの暮しを守る事を念頭に置いていた花森安治は、「火事をテストする」と言い出し、昭和41年(1966年)12月に東京消防庁の協力を得て、ストーブを使って家一軒を火事にする火事のテストを行い、雑誌「暮しの手帖」87号で「火事のテスト」を発表した。

ところで、当時の家は不燃材などを使用していなかったので、現在よりも燃えやすく、火事を経験した花森安治は、あまりにも火の手が早く、消防署へ連絡していては間に合わず、ストーブ火災は自分で消火するしかないと確信した。

そして、花森安治は複数回にわたるストーブの商品テストを通じて、ストーブ火災の火が水で消える事を知っていた。

ところが、ストーブに水を掛けると火が燃え広がるというのが常識となっており、ストーブの火が水で消えると言っても誰も信じてくれなかった。えらい学者ですら、その常識を信じていたのである。

花森安治は、「ストーブの火は水で消える」という事実を雑誌「暮しの手帖」で発表するため、5日間にわたる検証試験を行い、その結果、「ストーブの火は水で消える」という説が正しいことが証明された。

しかし、それでも花森安治は「ストーブの火は水で消える」という事実の発表を迷い、苦悩した。

この事実を発表し、万が一にも、1 件でも水でストーブの火が消えなかったという事例が発生すれば、雑誌「暮しの手帖」は虚偽を掲載したことになり、信用が失墜し、誰も雑誌「暮しの手帖」を買ってくれなくなる危険があった。

読者が雑誌「暮しの手帖」を買ってくれなければ、暮しの手帖社は即、倒産する。それは、雑誌に広告を掲載しないゆえの弱点だった。

しかし、こうした倒産のリスクを背負いながらも、花森安治は雑誌「暮しの手帖」で「ストーブ火災の火は水で消える」と発表することに踏み切った。

花森安治は「ストーブの火は水で消えるという事実を知っていれば、1件でも火事が減るかもしれない」と考えたからである。

こうして、花森安治は、昭和43年(1968年)2月に発売した雑誌「暮しの手帖」の第93号で「ストーブの火はバケツの水で消える」と発表し、記事の中で、石油ストーブの火を消すのは水が最も適切であり、これまでの常識とされていた「毛布を掛ける」という方法を非推奨とした。

このとき、雑誌「暮しの手帖」は80万部ほどを発行しており、かなりの影響力を持っていたうえ、花森安治は電車の中刷り広告などにもバンバンと広告を打ちまくったので、雑誌「暮しの手帖」を読まない人も、広告を通じて「ストーブの火はバケツの水で消える」という事を知っていく。

さらに、週刊誌が「ストーブの火はバケツの水で消える」という説に便乗しておもしろおかしく書き立てたので、さらに大きな騒ぎになっていく。

これに怒ったのが、東京消防庁である。

当時、東京消防庁は、「油火災には水を掛けてはいけない」として、ストーブの火災には毛布を掛けるように指導していたので、こうした事態を見過ごすわけには行かず、雑誌「暮しの手帖」の記事を「実験室内の小理屈」と批判した。

この対決に新聞・テレビ・週刊誌が便乗しておもしろおかしく書き立てたため、これが「ストーブの水かけ論争」として世間を賑わせ、大勢の人が消防庁に、「どちらが本当なんだ」と問い合わせる事態となった。

ストーブ火災には水を掛けるか、毛布を掛けるかは消防署員の間でも意見が分かれており、消防庁は昭和43年2月、事態を収拾するため、公開実験を行った。

公開実験で消火活動を行ったのは、消防庁が依頼した主婦4人で、2日間わたる大がかりな公開実験だった。

その結果、ストーブ火災には水を掛ける方が有効という事が証明され、雑誌「暮しの手帖」は火事の専門家である東京消防庁に勝利したのである。

■石油ストーブに水をかけると火が消える理由のネタバレ

石油ストーブの燃料となる灯油は、灯油の温度が40度以上にならなければ燃えない。

(注釈:難しい話になるので詳しい説明は省略しますが、簡単に説明すると、実際に燃えているのは灯油が蒸発して気体になった部分なのです。)

こうした燃料が燃えるか燃えないかのボーダーラインを専門用語で「引火点」と言い、灯油の引火点が40度なので、40度以上なら燃え、40度より低ければ燃えないのである。

したがって、40度より低い灯油に火を近づけても、灯油は燃えない。反対に、灯油に火が付いていても、灯油の温度を40度よりも下げてやれば、灯油の火が消える。

石油ストーブ火災に水が有効だという理由は、水を掛ける事により、灯油の温度が下がり、40度よりも低くなるからなのである。

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■暮しの手帖の功績

実は、「ストーブの火は水で消える」という事実は科学的に考えれば当たり前の事なのだが、当時の人は「ストーブ火災に水を掛けると、水で灯油が押し流されて火が燃え広がる」と教えられていた。

そして、それが常識として定着しており、誰1人として検証をしておらず、科学者ですら、その常識を疑わず、「ストーブ火災には水を掛けてはいけない」と思っていた。

雑誌「暮しの手帖」は、水掛け論争で東京消防庁に勝利したというだけでなく、常識と考えられていたことにも裏付けが必要で有り、常識と思われていることについても再検証が必要である事を示し、科学界にも大きな影響を与えたのである。

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