大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」-金栗四三のモデルと実話
NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する金栗四三(中村勘九郎)のモデルと実話のネタバレの後編です。
このページは「いだてん-金栗四三(中村勘九郎)のモデルと実話のネタバレ」からの続きです。
■アントワープオリンピックに向けて
金栗四三はマラソン選手としての絶頂期に、大正5年のベルリンオリンピックが中止になってしまったが、大正9年のアントワープ・オリンピックを目指すため、高等師範学校研究科を卒業すると、地理の教師となり、教師として働きながらトレーニングやマラソンの普及に努めた。
そして、大正6年には、箱根駅伝の前身となる日本初の駅伝「東海道五十三次駅伝競走」の開催に尽力。さらに「東海道五十三次駅伝競走」に出場して、関東勢の優勝に貢献する。
また、金栗四三は、足袋屋「ハリマヤ」の主人・黒坂辛作と二人三脚でマラソン足袋の改良を続けており、大正8年にゴム底を採用したマラソン足袋「金栗足袋」を完成させる。
そして、金栗四三は、大正8年7月に、この「金栗足袋」を履いて、下関から東京まで1200㎞を20日間かけて走破。さらに、大正8年11月には日光から東京までの130kmを20時間で走破した。
そして、予選大会で優勝して、日本代表を勝ち取り、大正9年のアントワープ・オリンピックに出場したが、36㎞地点で足を痛めて16位という結果に終わった。
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■パリ・オリンピックと引退
金栗四三は、アントワープ・オリンピックの帰りにドイツを視察しており、ドイツでスポーツに励む女性を見て、女性にもスポーツが必要だと痛感し、帰国後は女子体育の新興に励んでテニス大会などを開催して、関東女子体育連盟の創立に尽力した。
そして、オリンピック予選で優勝し、大正13年(1924年)のパリ・オリンピックに出場したが、33㎞付近で意識を失って失格となった。
このとき、金栗四三は33歳で、大正13年のパリ・オリンピックを最後に現役を引退して、第一線を退いた。
金栗四三は12年間にわたり、日本マラソン界の頂点に立ち続け、3度のオリンピックに出場したが、メダルを取得する事は出来なかった。
その後は教師として教鞭を執りながら女子体育の普及と発展に尽力していたが、体育嫌いの校長と対立。女学生がストライキを起こすなど、大問題に発展したが、校長の排除に失敗。これを機に金栗四三は東京を去り、故郷の熊本に帰ることにした。
■幻の東京オリンピック
金栗四三が昭和6年(1931年)7月に熊本県玉名郡の養子先・池部家に戻ると、各地から校長就任の要請が相次いだ。
しかし、養母・池部幾江がようやく戻ってきた金栗四三を手放さすはずもなく、養母・池部幾江は金栗四三に、働かずにマラソンをするように勧めた。
金栗四三は、こまで自由にさせてもらっていたので、養母・池部幾江に恩返しするため、校長の話は全て断り、熊本県でマラソンの普及に励んだほか、地元農業の発展の為に尽力した。
一方、日本マラソン界は、昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックで、日韓併合中の朝鮮半島出身の孫基禎が日本代表として出場し、マラソンで日本初の金メダルを取得。同じく朝鮮半島出身の日本代表・南昇竜が銅メダルを取得するという快挙を成し遂げていた。
そのうようななか、日本は昭和11年11月にオリンピックの誘致を勝ち取り、東京オリンピックの開催が決定する。
すると、同年12月に恩師・嘉納治五郎から、上京して東京オリンピックのために働いて欲しいと要請を受ける。
金栗四三は、2度と上京の野心を抱かないと決めていたので、迷うのだが、養母・池部幾江は「私も寂しいけれど国家のためだと思ってがまんします」と言い、上京を促した。
さらに、妻の金栗スヤも「私には子どもたちの学校のこともあります。すぐに上京というわけにもいきませんから、とにかくあなただけはさきに上京なさって下さい。子どもたちのことは何もご心配なさらない」と言い、上京を勧めた。
こうして、金栗四三は上京して教師をやりながら、オリンピック選手の育成に励んだ。
しかし、昭和13年、日本は日中戦争の影響から、東京オリンピックを返上してしまう。
金栗四三は現役時代に、第1次世界大戦の勃発によってベルリンオリンピックが中止になったことを経験していたので、その時の悔しさを思い出し、選手達の無念を嘆いた。
さて、上京の約束は東京オリンピックまでということだったので、金栗四三は熊本に帰ろうと考えたが、子供達が既に東京の学校に通っていたので、養母・池部幾江の許可を得て東京に残った。
しかし、日本は昭和16年12月に真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入。戦況の悪化から、スポーツ界は軍の統制下に置かれ、スポーツは禁止された。
金栗四三は戦況の悪化から、昭和19年に家族を熊本の実家・池部家へ疎開させると、自身も昭和20年に熊本へ疎開し、熊本で昭和20年(1945年)8月15日の終戦を迎えた。
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■国際舞台への復帰
終戦を迎えると、金栗四三は熊本県体育協会の発足させて会長に就任し、スポーツの復興を開始する。
昭和21年には全国的にスポーツが復興していき、陸上大会やマラソン大会が開催され、昭和22年には朝日新聞と日本陸連の共催で、「第1回金栗賞マラソン大会」が熊本県で開催された。また、関東では箱根駅伝も始まった。
しかし、昭和23年に開催されたロンドン・オリンピックへの参加は、イギリスの強い反対に遭い参加出来なかった。
そこで、日本水泳界を率いる田畑政治は、ロンドンオリンピックと同じ日に神宮プールで日本選手権を開催し、古橋廣之進と橋爪四郎が、日本選手権の1500メートル自由形で世界新記録を樹立した。
この記録は、同日に開催されたロンドン・オリンピックの優勝者を上回る記録だったこともあり、国際オリンピック委員会は昭和24年、日本がオリンピックに参加する条件として、各競技の国際連盟への復帰を勧告した。
これを受けた水泳界の田畑政治は、戦前からの交友を活かして、国際水泳連盟に復帰。その後、日本のスポーツ界は続々と国際連盟に復帰していく。
さらに、田畑政治が率いる水泳陣は昭和24年(1949年)8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に参加し、古橋廣之進と橋爪四郎が同大会で数々の世界記録を樹立。古橋廣之進は「フジヤマのトビウオ」として全米を震撼させた。
こうした日本水泳界の活躍に驚いた国際オリンピック委員会(IOC)は、態度を一転させ、「日本を除名した事実は無い」と表明したので、日本は国際オリンピック委員会に復帰して、オリンピックへの参加資格を得たのである。
そのようななか、金栗四三は昭和25年に佐賀県で行われた西部マラソン20キロ大会で手応えを感じ、強化合宿を計画。ボストン・マラソンへの参加が認められたので、西田勝雄や田中茂樹などの有力選手を集めて強化合宿を開始した。
そして、日本初参加となる昭和26年4月のボストン・マラソンで、田中茂樹が2時間18分22秒という大記録で優勝して、世界を驚かせた。田中茂樹は広島出身だったことから、「原爆少年」と呼ばれれるようになった。
しかし、昭和27年のヘルシンキ・オリンピックでは、西田勝雄は25位、山田敬蔵が26位、内川義高は棄権という結果に終わり、世界を失望させたのだった。
■悲願のメダル
ヘルシンキ・オリンピックでの惨敗を受けた日本陸上連盟は弱腰になり、ボストン・マラソンへの参加を見送ろうとしたが、金栗四三は反対を押しきって、昭和28年のボストン・マラソンに参加した。
そして、原爆少年の山田敬蔵が2時間18分51秒という世界最高記録で優勝した。
余りにも凄い記録だったので、記録を聞いた記者が聞き間違いかと思って、記録の確認を問い合わせた程で、山田敬蔵の活躍は映画「心臓破りの丘」にもなった。
さらに、昭和30年のボストン・マラソンでは、金栗四三は監督を務めていないが、浜村秀雄が2時間18分22秒で優勝し、「マラソン日本」を世界に印象づけた。
しかし、昭和31年のメルボルン・オリンピックでは、川島義明が2時間29分19秒で5位に終わり、メダルには届かず。昭和35年のローマ・オリンピックでも、広島庫夫が31位と日本マラソンは惨敗に終わるのだった。
このようななか、昭和39年の東京オリンピックという晴れ舞台で、円谷幸吉が3位に入賞し、マラソン界で戦後初・日本人初となる銅メダルを取得した。
円谷幸吉は昭和43年のメキシコオリンピックでの活躍を期待されたが、「世間からの期待」「腰痛」「許されなかった結婚」「信頼するコーチの左遷」などが重なり、昭和43年1月9日に自殺した。
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■記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3
昭和42年、スウェーデンのオリンピック委員会は、明治45年にスウェーデンで開催したストックホルム・オリンピックの55周年記念事業を開催することになり、昔の資料を調べていると、金栗四三が「行方不明」という扱いになっている事が分かった。
そこで、スウェーデンのオリンピック委員会は、金栗四三に完走を要請して、55周年記念事業に招待。こうして、76歳になった金栗四三は、54年ぶりにストックホルムを訪れてゴールを切った。記録は54年8ヵ月6日5時間32分20秒3だった。
その後も、金栗四三はマラソンの普及にかかわり、昭和58年11月13日に熊本市地域医療センターで死去した。享年92だった。数々の功績が認められ、昭和30年にはスポーツ人としては初の紫綬褒章を受章し、昭和36年には勲四等旭日双光章を受章している。
なお、NHK大河ドラマ「いだてん」のキャストとモデル一覧は、「大河ドラマ『いだてん(韋駄天)』のキャストとモデル」をご覧ください。
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