ハリマヤと黒坂辛作の生涯

NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する黒坂辛作(ピエール瀧)の実在のモデルと実話のネタバレです。

ピエール瀧は、TBSのドラマ「陸王」では、スポーツ用品大手「アトランティス」の部長・小原賢治を演じ、マラソン足袋「陸王」を潰す張本人だったのですが、大河ドラマ「韋駄天」では一転して、マラソン選手・栗四三とともにマラソン足袋を開発する側にまわるのです。

では、大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する黒坂辛作(ピエール瀧)にモデルが居るのか。というと、同姓同名のモデルが実在しているので、モデルの生涯をネタバレします。

■黒坂辛作の生涯

実在のモデル黒坂辛作(くろさか・しんさく)は、明治14年(1881年)に兵庫県姫路市で生まれ、21歳の時に大志を抱いて上京し、明治36年(1903年)に東京・大塚仲町の市電停留所前で足袋店「播磨屋(ハリマヤ)」を創業した。

兵庫県姫路市は、その昔、「播磨国」という名前だったので、故郷を偲んで足袋屋の「播磨屋(ハリマヤ)」という名前にしたのである。

さて、黒坂辛作は普通の足袋職人で、「播磨屋」も普通の足袋屋だったのだが、「播磨屋」の裏側に東京高等師範学校(筑波大学)があったことで、運命が大きく変わる。

東京高等師範学校の校長は、嘉納治五郎だった。嘉納治五郎は柔道の創始者としても有名が、教育者としても有名で、学業にスポーツを取り入れており、東京高等師範学校でマラソン大会を開催していた。

そのころ、日本にはランニングシューズなど無く、長距離には靴は軽い方が有利だと言う事で、東京高等師範学校の生徒は、学校の裏にある「播磨屋」で足袋を買って、普通の足袋を履いて走っていた。

そのようななか、校長の嘉納治五郎が、明治42年に国際オリンピック委員に就任したことから、明治43年に日本のオリンピック参加を要請される。

そこで、嘉納治五郎は、大日本体育協会を設立して会長に就任すると、日本オリンピック委員会を発足し、ストックホルム・オリンピックの日本代表を選ぶため、明治45年11月に予選会を開催した。

その結果、日本代表に選ばれたのが、東京高等師範学校の金栗四三(長距離)と、東京帝国大学の三島弥彦(短距離)である。

さて、日本代表に選ばれた金栗四三は、予選のときに普通の足袋で走っていたのだが、普通の足袋では25マイルという距離には絶えられずにボロボロになり、最後は裸足でゴールしていた。

そこで、金栗四三は、オリンピックで勝つため、学校の裏にある「播磨屋」の亭主・黒坂辛作に足袋の改良を依頼し、底を3重にした足袋が完成した。

これまでは、マラソンで使用していた足袋は普通の足袋であり、金栗四三の依頼によってマラソンのために初めて改良が加えられたので、これが「マラソン足袋」の始まりとなる。

しかし、日本の道路は土道路とは違い、ストックホルムの道路は舗装されており、底を3重に補強しただけは衝撃が吸収できず、金栗四三はストックホルムで練習中に膝を痛めてしまう。

しかも、炎天下のため、金栗四三はストックホルム・オリンピックのマラソン本番で、26㎞付近で意識を失って脱落してしまう。

そこで、帰国した金栗四三は、4年後のベルリンオリンピックに向けてトレーニングを開始するとともに、足袋屋「播磨屋」の主人・黒坂辛作にマラソン足袋の改良を依頼した。

こうして、黒坂辛作は金栗四三のために、マラソン足袋を改良することを決意し、金栗四三と二人三脚でマラソン足袋の開発を進めたのだった。

最初は自転車のタイヤを裂いて足袋の裏に貼り付けたりしていたのだが、大阪で良いゴムを見つけたので、靴の裏に貼り付けた。

しかし、ゴムを貼り付けただけでは滑るので、ナイフでゴムに溝を付けてみると、滑らないことが分かった。

こうして、黒坂辛作は大正8年(1919年)に足袋の裏にゴムを採用したマラソン足袋が完成せると、金栗四三の名前をもらって「金栗足袋」として大々的に売り出し、昭和13年ごろまで学校の定番足袋となった。

(注釈:ドラマ「陸王」で、マラソン足袋「陸王」が学校に採用されるエピソードがありました。これも、この辺の実話がモデルになったものだと思われます。)

さて、金栗四三は世界新記録を出し、12年間にわたり、日本マラソン界の頂点に立ち続け、3度のオリンピックに出場したが、メダルは取れずに、大正13年のパリ・オリンピックを最後に現役を引退した。

しかし、日韓併合中の朝鮮半島出身・孫基禎が、日本から昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックに出場し、「金栗足袋」で走り、日本マラソン界初の金メダルを取得。ついに「金栗足袋」が世界の頂点に輝いた。

戦後、黒坂辛作は「金栗足袋」に改良を加え、足袋の「こはぜ(金具)」を取り外して、ランニングシューズのように、甲の部分を紐で結ぶ「カナグリシューズ」を開発した。

この「カナグリシューズ」が日本初の国産ランニングシューズである。

そして、金栗四三の門下生・山田敬蔵が、昭和28年(1953年)4月のボストン・マラソンで「カナグリ・シューズ」を履き、2時間18分51秒という驚異的な世界新記録で優勝し、世界を驚かせた。

ところで、国産初のランニングシューズ「カナグリ・シューズ」は、マラソン足袋「金栗足袋」を進化させた物であり、つま先が2つに割れていた。

しかし、外国に足袋などないので、大記録を出した山田敬蔵は、アメリカ人から好奇の目でみられるようになり、恥ずかしい思いをする。

そこで、戦後に創業したオニツカタイガー(アシックス)が、昭和34年(1959年)につま先が割れていないランニングシューズ「スーパーマラップ」を発売する。

(注釈:バスケットシューズやバレーシューズなど、他のシューズは最初から、つま先は割れていない。足袋から発達したという経緯から、ランニングシューズだけ、つま先が割れており、オニツカタイガーもマラソン足袋「Aマラソンタビ」を作っていた。)

さらに、オニツカタイガー(アシックス)が、ランナーが足にマメが出来て苦しんでいることに着目し、昭和35年(1960年)にマメのできない「マジックランナー」を開発すると、ハリマヤは「マジックランナー」にシェアを奪われていく。

オニツカタイガーの「マジックランナー」を履いた君原健二が、昭和43年(1968年)のメキシコ・オリンピックで銀メダルを取得し、マラソン足袋時代は終焉を迎える。

ハリマヤは「カナグリ・シューズ」を進化させた「ニュー・カナグリ」を発売したが、ランニングシューズ専門だったため、スポーツ用品を全般的に扱う「オニツカタイガー(アシックス)」や「ミズノ」に負けていく。

それでも、マラソン界のレジェンド金栗四三の名前を冠したいたので、金栗効果もあってある程度のシェアは死守。体育館シューズではシェアを持っていたので、それなりの売上げはあった。

しかし、ハリマヤは、バブル期に多角経営に乗りだし、不動産などにも手を出していたらしく、バブル崩壊の煽りを受けて事業を停止(倒産か自主廃業は不明)した。

なお、NHK大河ドラマ「いだてん」のモデルと実話の紹介は、「大河ドラマ『いだてん(韋駄天)』のキャストとモデル」をご覧ください。

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