大森兵蔵と大森安仁子(アニー)の生涯

NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」の実在のモデルを紹介する実話シリーズ「大森兵蔵と大森安仁子の生涯-アニー・マイ・ラブ」です。

■大森兵蔵と大森安仁子(アニー)の生涯

大森安仁子は本名を「アニー・バローズ・シェプリー」と言い、1857年(江戸時代の安政3年)にアメリカ・ミネソタ州セントクラウドで生まれた。

シェプリー家は、イギリスのヨークシャーからアメリカへと渡ってきた開拓民で、ニューイングランドの名門という家柄だった。サーの称号を与えられていたが、既にサーの称号を失っていた。

大森安仁子は子供の頃から画家になりたいという夢を持ち、絵の勉強をするため、アメリカ東部へ行きたいと考えていたが、17歳の時に父が殺害されるという悲劇があり、夢を断念しようとしていた。

しかし、従兄弟の支援により、大森安仁子はボストンの美術学校へ入学することができた。

大森安仁子は、絵の才能があったようで、翌年には、ニューヨークで絵の教師となり、絵を教えながら、自分のアトリエを持ち、絵の勉強のためにパリへも渡った。

その後、両親や兄弟を亡くし、アメリカのコネチカット州ウッドストックに家を買って画家を続けていた。

そして、大森安仁子は49歳の時に、絵に専念するために料理人を雇おうと考え、国際YMCAトレーニング・スクールを訪れて、アルバイトの斡旋を頼んだ。

しかし、夏休みに入っていたので、生徒はほとんど残って居らず、アルバイトに応募してきたのは日本人・大森兵蔵だけだった。

大森兵蔵は岡山県岡山市の出身で、同志社普通校(同志社大学)を途中で退学して、東京の京高等商業学校(一橋大学)に入学したが、京高等商業学校(一橋大学)も中退して渡米して、カリフォルニアのスタンフオード大学で経済学を学んでいた。

しかし、大森兵蔵は、日本人の中でも貧弱な体格だったことから、日本人とアメリカ人の体格差に驚き、日本人の体格の向上には体育が必要だと考え、スタンフオード大学を中退し、国際YMCAトレーニング・スクールで専門的な体育を学んでいた。

このとき、大森兵蔵は30歳であり、大森安仁子の方が19歳も年上の49歳だった。

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■2人の結婚

さて、アルバイトの面接に来た大森兵蔵は、大森安仁子から仕事内容の説明を聞くと、見る見るうちに顔が青ざめていった。

大森安仁子も、「サイゾーに料理が出来るのかしら」と不安に思ったが、アルバイトに応募してきたのは大森兵蔵だけだったので、そのまま雇った。

こうして、大森兵蔵は料理人として住み込みで働くようになったのだが、2人の不安は的中。大森兵蔵は大森安仁子の満足するような料理は作れず、2日もすれば、大森安仁子は自分で料理を作るようになった。

すると、大森兵蔵は、それを苦にしてアルバイトを辞めたいと申し出た。

しかし、大森兵蔵は痩せた体型で、髭を蓄えており、どことなくイエス・キリストのような面持ちがあっため、大森安仁子は大森兵蔵のことが気になっていた。

そこで、大森安仁子は、新たに見つけた黒人の家政婦を雇い、「料理は黒人の家政婦に任ればいい。他にも仕事はあるので、使用人として残って欲しい」と頼み、大森兵蔵を使用人のアルバイトとして留め置いた。

すると、大森兵蔵は苦痛が消えた。大森兵蔵は武家の家系に生まれ、教養があり、話や趣味が合ったので、大森安仁子は次第に惹かれていった。

そして、大森兵蔵が日本人の体格向上のために日本で体育を広める夢や、日本でセツルメント事業を行う夢を語ると、大森安仁子はその夢を応援したいと思ったが、19歳も年上だということを意識することで、自分を苦しめたのだった。

(注釈:セツルメントは、説明が難しいのだが、貧困層や貧困地域に根付いて支援していく社会事業で、日本語で「善隣事業」「隣保事業」と呼ばれている。)

さて、大森安仁子は大森兵蔵に惹かれながらも、ピューリタンとして厳格に育ってきたことから、使用人の大森兵蔵と一緒に食事をすることはなく、雇主と使用人という関係を崩さなかった。

しかし、食事以外の時は親しく話し合っており、少し奇妙な関係だったが、大森兵蔵も次第次第に大森安仁子に惹かれており、口には出さなかったものの、その思いは体から溢れ出ていた。

大森安仁子はそうした思いをヒシヒシと感じながらも、夏休みが終われば、大森兵蔵は居なくなる。夏の間だけ、楽しい話し相手が出来た。それだけのことよ。大森安仁子は自分に言い聞かせたのであった。

やがて、夏休みも終わりに近づいたころ、大森兵蔵はアルバイトを終える前に、庭のベンチのペンキを塗り直しておこうと考え、作業に取りかかった。

ところが、大森兵蔵は、ベンチに絡みついていたツタウルシにかぶれて体中が腫れ上がってしまい、大森安仁子に手当と看病をしてしもらった。

この「ツルウルシ事件」が切っ掛けで、2人は交際に発展し、結婚を誓い合い、夏休みが終わって大森兵蔵が国際YMCAトレーニング・スクールに戻ると、2人は文通を始めた。

さて、大森安仁子はニューイングランドの名門という家柄なので、日本人との結婚を親族に告げると、親族は驚いた。地元の新聞が取り上げるほどの騒動になったという。

しかし、大森安仁子の決意が固かったので、最終的に親族は祝福して送り出すことにした。

そして、2人は、大森安仁子の親族に祝福されながら、明治40年(1907年)10月1日にアメリカで結婚式を挙げた。大森安仁子が50歳、大森兵蔵31歳のことである。2人とも初婚だった。

■帰国と帰化

大森兵蔵は大森安仁子と伴って明治41年に日本に帰国して、東京YMCAの初代体育部主事に就任すると、バスケットボールの指導を開始。さらに、日本女子大学の教授となって衛生学や体育学を教えながら、「バスケットボール」「バレーボール」「テニス」なども指導した。

日本に初めてバスケットボールとバレーボールを伝えた人物が大森兵蔵なのだが、残念ながらバスケットボールやバレーボールが普及するのは大森兵蔵の死後である。

さて、アメリカでは児童遊園協会が組織されており、児童や青少年の運動場やクラブハウスが設備されていた。

そこで、大森兵蔵は、日本人の体格を向上させるには子供のことからの運動が必要だといい、児童遊園の必要性を訴えたが、アメリカのマネごとに過ぎないという批判があがり、森兵蔵の情熱は日本のYMCA幹部に受け入れられず、翌年の明治42年6月に東京YMCAの体育部主事を辞した。

これに平行して、大森兵蔵と大森安仁子は、有志の婦人を集めて「有隣婦人」を組織しており、明治44年8月に東京都新宿区で念願の児童福祉施設「有隣園」が完成し、セツルメント事業の第1歩を踏み出した。

「有隣園」という名前の由来は論語の「子曰徳不孤必有隣(子曰く、徳は孤ならず。必ず隣有り)」である。

児童福祉施設「有隣園」は、成子天神で遊んでいた子供に遊びを指導したりする施設で、裏手にあった成子天神の境内で遊んでいる子供を指導することから始まり、後に保育園も加えられた。

さて、大森兵蔵の岡山の士族という家系で、アメリカ人との結婚は反対されたようだが、ようやく理解が得られたようで、大森兵蔵は大森安仁子を連れて岡山の実家を訪れ、親族に受け入れられた。そして、大森安仁子は明治44年に日本に帰化した。

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■オリンピック選手団の監督に就任

柔道の創始者として有名な嘉納治五郎は、東京高等師範(筑波大学)の校長を務めており、マラソンや水泳を教育に取り入れていた。

その一方で、嘉納治五郎は、明治42年に日本初・東洋初の国際オリンピック委員(IOC委員)にも就任していた。

まだ、東洋(アジア)からの参加国は無かったので、国際オリンピック委員会の会長・クーベルタン男爵は、明治43年に嘉納治五郎に対して、明治45年のストックホルム・オリンピックに参加するように要請した。

この要請を受けた嘉納治五郎は、日本オリンピック委員会を設置するため、文部省に掛け合うが、オリンピックに対する理解は無く、文部省の協力を得られなかった。

このため、嘉納治五郎は、運動に理解のある東京帝国大学・早稲田大学・慶応大学・明治大学などと協議し、明治44年に「大日本体育協会」を設立して会長に就任すると、日本オリンピック委員会を設置した。

大森兵蔵は運動に関する論文を発表しており、外国の運動事情を知る第一人者として嘉納治五郎に認められおり、「大日本体育協会」の設立に参加し、早い段階から、嘉納治五郎の右腕となっており、オリンピック出場を実現するために奔走した。

さて、オリンピック予選の結果、短距離は東京帝国大学の三島弥彦、長距離は東京高等師範の金栗四三の2人が日本初の日本代表に選ばれた。

しかし、三島弥彦も金栗四三も、簡単に日本代表を引き受けられなかった。

当時はスポーツに対する理解が無く、スポーツは遊びの延長という扱いを受けていた。学生の本分は学業なので、三島弥彦も金栗四三も、スポーツのために学業を数ヶ月も中断しなければならないことに、悩んだのである。

しかも、同様の理由で文部省がオリンピックへの参加に異を唱え、補助金を打ち切っており、オリンピックに参加する費用は全額、選手の自己負担となっていた。

こうした問題から、三島弥彦も金栗四三も、日本代表を辞退しようとしたが、それぞれの校長の説得を受けて、日本のスポーツ発展のために、オリンピックへの参加を決意する。

さて、大森兵蔵は帰国後に肺結核を患っていたが、日本スポーツ界の発展のため、嘉納治五郎の右腕として多忙な日々を送っていた。

妻の大森安仁子も、金栗四三に英会話やテーブルマナーを教えるなどして、オリンピック出場のために貢献した。

ところで、日本はオリンピックに参加することが決まったが、日本選手団の監督を引き受けてくれる人が居なかったようだ。

このため、金栗四三によると、大森兵蔵は見るからに体調が悪化していたが、監督のなり手が居ないので、無理を言って大森兵蔵に日本選手団の監督を引き受けてもらったのだという。

そして、選手団監督の大森兵蔵、妻の大森安仁子、日本代表選手の三島弥彦と金栗四三、この4人で明治45年5月にストックホルム・オリンピックに参加するため、日本を出発した。

選手団長の嘉納治五郎は、オリンピック参加に反対する文部省との交渉が残っていたので、後から現地へ向かうことにしており、同行はできなかった。

なお、TBSのドラマ「天皇の料理番」のモデルとなった秋山徳蔵が、フランスで料理の修業をするために日本を発ったのは3年前の明治42年(1909年)のことである。

(注釈:秋山徳蔵について知りたい方は、実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレをご覧ください。)

さて、大森兵蔵が率いる日本選手団は、船でウラジオストックに渡り、シベリア鉄道を使って、スウェーデンの首都ストックホルムへと入った。40日をかける長旅だった。

ストックホルムへ着くと、日本代表選手の三島弥彦と金栗四三は休息して旅の疲れを取った後、練習を開始する。

しかし、選手団監督の大森兵蔵は長旅の間に結核がぶり返して吐血しており、練習には参加できず、妻・大森安仁子の看病を受けていた。

やがて、選手団長の嘉納治五郎が到着し、ストックホルム・オリンピックの開会式を間近に控えたころ、ストックホルムのオリンピック開催事務局から、プラカードの表記について問い合わせがあった。

日本代表の金栗四三は漢字で「日本」と書くことを主張したので、大森兵蔵は外国人にも日本が参加していることが分かるように「JAPAN」と書くべきだと指摘した。

しかし、金栗四三が「日本」という表記を主張して譲らなかったので、嘉納治五郎が間に入って「NIPPON」というローマ字表記を提案し、ブラカードの表記は「NIPPON」となった。

なお、「NIPPON」を使用したのは、ストックホルム・オリンピックだけで、その後は「JAPAN」を使用している。

さて、静養に努めた大森兵蔵は、開会式に出席する事が出来た。

日本代表の三島弥彦は、外国人との体格の違いに圧倒されたうえ、白夜という悪条件が重なってノイローゼ気味になっていたが、男子100メートルの予選ではいくらか体調を回復しており、予選5位で敗退したものの、自己ベストを更新する11秒8という記録を出した。

その後、三島弥彦は200メートルでも敗退。400メートは棄権が相次ぎ、スウェーデンの選手と三島弥彦の2人だけの出場だったので、三島弥彦は最下位だったが、2位だったので予選に通過できた。

しかし、三島弥彦は実力の違いから、決勝への進出を辞退した。

これを受けた監督・大森兵蔵は、日本人の体格では短距離では勝ち目無いと考え、金栗四三に出場予定の1000メートルを棄権し、マラソン1本に絞ることを提案した。

こうして、金栗四三は力を温存してマラソンに出場したが、マラソンは炎天下の中で行われたため、68人中、半分の34人しかゴールできないという過酷なレースとなり、金栗四三も26㎞付近で熱中症になって倒れて棄権するという結果に終わった。

■大森兵蔵の死

病を押してマラソンを応援した監督・大森兵蔵は、再び体調が悪化し、医者から絶対安静を言い渡されていた。金栗四三が帰国するときに挨拶に行ったが、妻の大森安仁子が面会を断る程だった。

大森兵蔵は、金栗四三ら日本選手団が帰った後、ストックホルムに残って静養し、文部省から頼まれていたアメリカの体育施設を視察するために、アメリカへと向かった。

しかし、大森兵蔵は、ボストンに住む大森安仁子の親族を訪ねたときには、視察が不可能なほど様態が悪化しており、医者に旅行を禁止され、入院を勧められた。

大森安仁子は入院する病院を探していたが、大森兵蔵が「有隣園」のことを心配して、日本に帰りたいと言うので、アメリカ東部のボストンから、アメリカ西部のサンフランシスコへ向かい、サンフランシスコから船で日本へ帰国することにした。

ところが、大森兵蔵の様態は目に見えて悪化していき、船旅に絶えられないと判断した大森安仁子は予定を変更して、サンフランシスコの近くにあるサバディアナの病院に大森兵蔵を入院させた。しかし、入院の甲斐は無く、大正2年(1913年)1月15日に死去した。享年38だった。

アメリカで夫に先立たれた大森安仁子は、故郷のニューイングランドに帰るという選択肢もあったが、亡き夫・大森兵蔵の遺志を引き継ぐため、夫の仕事を引き継いで、文部省から頼まれていた体育施設の視察を行い、報告書を完成させると、日本へと帰国したのだった。

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■松田竹千代との出会い

大正2年の春に帰国した大森安仁子は、夫の遺志を受け継ぎ児童福祉施設「有隣園」に尽力する。「有隣園」には子供の遊び場とクラブの他に、保育園が加わっており、大正2年には第1回生12人が卒業した。

そして、大森安仁子は「有隣園」の仕事に邁進する一方で、児童問題の講演会を主催したり、児童福祉施設の必要性を説いてまわっていた。

そのようななか、大森安仁子は松田竹千代と出会う。

松田竹千代は、雑誌で見た新天地アメリカに魅了され、14歳の時に単身でアメリカへ渡り、苦学してニューヨーク大学を卒業した。最初は実業家を志していたが、アメリカの富豪カーネギーの影響を受けて社会事業家を志して、大正3年に日本に帰国した。

そして、松田竹千代は、神田のYMCの前を通りかかったところ、偶然、児童問題の講演会をしていたので、講演会を聞き、講演会の主宰者・大森安仁子と出会ったのである。

以降、松田竹千代は、「有隣園」でボランティアとして働き、大森安仁子の右腕として活躍することになる。

このようななか、大森安仁子は東京に公園が2~3しかなかったので、上野に1つ、日本橋に1つ公園を作ることを主張した。

土一升金一升の都心にそのよう場所を作るのは不可能と反対する人も居たが、大森安仁子は「川に蓋をすれば良い」と言い、公園の必要性を訴え続け、「東京児童遊園協会」を発足することに成功した。

しかし、東京市長は目下の問題となっている住宅不足が急務としており、一向に公園を作る気配は無かった。

このため、大森安仁子は失望して、公園を作ることを諦め、「有隣園」の事業に専念したのだった。

■セツルメント事業への発展

大正5年、大森安仁子は、ハワイの婦人から1000円の寄付に私財4000円を加えて、有隣園の隣接地120坪を借り、80坪の会館を建てた。

この会館の完成を機に、初期から事業推進にあたっていた「有隣婦人」は、協賛金の支払い能力が無いとして解散し、「有隣園」は大森安仁子の個人事業となった。

そこで、大森安仁子は松田竹千代に運営資金を相談し、「有隣同志会」を組織したほか、月1円の寄付をしてくれる維持会員の募集に奔走して、300人の維持会員を集める事が出来た。

一方、スタッフは、松前重広や松田竹千代の他にも、学生や外国人のボランティアが集まっており、「有隣園」は着実に事業を拡大していき、勤労青年の夜学部として「徒弟夜学校」を開設するなど、児童福祉事業からセツルメント事業へと発展していくのだった。

(注釈:セツルメント事業は、貧困層や貧困地域を支援する社会事業のこと。)

しかし、この時代は世間にセツルメント事業が浸透しておらず、資金集めは順調とは言えなかった。

このようななか、第一次世界大戦の影響で物価が高騰していることにより、庶民は苦しんでいたことを受け、松田竹千代は社会事業の必要性を痛感し、再度、渡米してアメリカの社会事業を研究することを提案した。

大森安仁子は、松田竹千代の考えに同意し、大正7年に松田竹千代をアメリカへと送り出した。
そのようななか、日本の社会事業は大きな転換点を迎える。

大正8年、第5回全国社会事業大会が「我が国の労働問題解決の補助作用として、いかなる社会事業の施設を緊切とするか」という議題を取り上げたとき、特別委員会は「第一にセツルメントをもってすべき」を議決し、総会も満場一致で可決たのである。

これにより、低所得者の貧困問題に注目が集まり、内務省の補助金を受けて、セツルメント事業「マハヤナ学園」「善隣館」「興望館」「隣保会館」「親隣館」が建設された。

「有隣園」は、東京でのセツルメント事業の事実上の先駆者だったので、「有隣園」と大森安仁子の名前は次第に世間に広まって評価されるようになり、「有隣園」の事業にも、内務省・東京都・東京市から補助金、宮内庁からの御下賜金が出るようになった。

こうして、「有隣園」が軌道に乗り始めると、診療所の開設を目指す大森安仁子は、アメリカ遊学中の松田竹千代に帰国を要請し、大正11年に「済生会東京府淀橋診療所」を開設する。

■有隣園と関東大震災

大正12年9月1日に関東大震災が発生する。「有隣園」は被害は少なく、罹災者用のバラックが建てられると、バラック数100戸の管理を引き受け、生活必需品の配給などに務めた。

そして、「有隣園」は職業紹介所を開いて就職先を斡旋したので、「有隣園」の管理していたバラックの住人は、他のバラックの住人よりも早く社会復帰することが出来た。

また、「有隣園」は、託児所を儲けたり、迷子を預かったりして、罹災者の支援に奔走した。

その後、バラックが撤去されると、内務省の委託で幡ヶ谷本町に簡易宿泊所「労働クラブ」を開いたが、労働意欲を失った社会の底辺を救う事が難しい事を痛感し、苦学生のための宿舎に転用した。

昭和恐慌が訪れると、無料宿舎事業を始めたほか、古着・政府払下米・日用品を低価格で販売して、貧困層を支援した。

■大森安仁子の晩年

関東大震災に伴う支援事業の赤字は有名画家から寄付してもらった色紙を売ることによって補填できたが、長引く不況の影響で寄付金や物推し物の状況は悪化していく。

それでも、大森安仁子は老人ホーム事業を開始したいと思っていたが、日米関係の悪化から資金繰りが悪化していき、昭和6年(1931年)ごろから「有隣園」は事業の縮小を余儀なくされる。

大森安仁子の「有隣園」は、宗教や学校などの運営母体を持たず、各国の大公使夫人や外国の通信社員夫人などの支援によって支えられていたため、対米感情の悪化が「有隣園」の資金繰りに大きく影響したのだ。

また、大森安仁子の右腕である松田竹千代が政界に進出したため、松前重広が「有隣園」の運営にあったっていたが、松前重広も昭和10年に「有隣園」を去ってしまう。

こうして「有隣園」は、厳しい時期を迎えるが、全国的にはセツルメント事業の重要性が認識されており、セツルメント施設は昭和10年の時点で、全国に189施設、東京だけでも68施設が出来ていた。

さて、昭和6年以降の「有隣園」は規模を縮小して低迷したが、大森安仁子の功績は大きく評価されており、内務省は、対米感情が悪化するなかでも、昭和15年に行われた紀元二千六百年記念の社会事業大会で、大森安仁子を表彰した。当時の反米感情を考えると、異例中の異例とも言える表彰である。

しかし、大森安仁子は84歳になっており、昭和16年の春ことから体が弱り初めたため、河口湖の別荘へと移り、第一線を退いて静養した。

河口湖は、故郷アメリカに似ていたのか、旅行に来た時に気に入って別荘を購入していたのもで、大森安仁子が書いた夫・大森兵蔵の肖像画を飾っており、大森安仁子は昭和16年(1941年)8月3日に、夫の肖像画や親族に見守られ死去した。死因は老衰。享年85だった。

大森安仁子は、夫・大森兵蔵の死後、黒い服(喪服)しか着ず、夫の命日は、人に会わず、部屋に籠もって亡き夫を忍び、愛を貫き通した。

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■死後の「有隣園」

大森安仁子の死から4ヶ月後の昭和16年12月8日未明に、日本は真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦争に突入し、「有隣園」は空襲を受け手焼失してしまう。

「有隣園」は、運営母体が無く、後継者を育てていなかったため、戦後も再開されることはなかった。

ただ、政界へ進出した松田竹千代が、政界引退後、ベトナム戦争中にベトナムでビエンホア孤児職業訓練センター「有隣園」を設立し、孤児の救済に尽力している。

■大森兵蔵と大森安仁子の子供と子孫

2人が結婚したときに、大森安仁子は50歳という高齢であり、2人の間に子供は生まれていない。

大森兵蔵の死後、大森兵蔵の姪・松田澄江が「有隣園」を通じて松田竹千代と出会い、松田竹千代と結婚する。

このとき、松田澄江は、両親に結婚を反対され、絶縁されたため、大森安仁子の籍に入り、大森家から松田竹千代に嫁ぐという形を取った。

そこで、松田澄江と松田竹千代は、長男が生まれると、長男を「兵蔵」と名付け、大森安仁子の養子とした。大森安仁子は、喜んで、養子・兵蔵を溺愛していたが、養子・兵蔵も戦死した。

なお、大河ドラマ「いだてん」にキャストや実在のモデルの一覧は「大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のキャストとモデル」をご覧ください。

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