いだてん-可児徳(かに・いさお)の生涯
NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する可児徳(古舘寛治)のモデルとなる実話のネタバレです。
■可児徳の生涯
実在の可児徳(かに・いさお)は、明治7年(1874年)11月6日に岐阜県恵那群苗木町で、苗木藩士・可児吉右衛門の次男として生まれた。
岐阜県恵那群苗木町に、わずか1万石の苗木藩があり、父の可児吉右衛門は、苗木藩士だったが、明治維新を迎えて、帰農していたようである。
可児徳は、斐太郡尋常小学校を卒業後、体育を志して体操練習所(日本体育会体操学校)に入学し、普通体操と兵式体操の免許を得た。
明治30年7月に体操練習所を卒業して、同年10月に群馬県尋常中学校の教授となり、明治31年6月に生理科の免許を取得し、同年10月に沖縄県尋常師範学校の助教授として転任した。
しかし、東京高等師範学校に体操専修科が開設されることになり、可児徳と津崎玄九生は東京高等師範学校に招かれ、明治32年6月に東京高等師範学校の助教授となった。
そこで、可児徳は、職務の重大性を認識し、日本の体育を発展させるためにはドイツの体育を研究する必要があると考え、昼間は教鞭を執りながら、夜は官立外国語学校へ通ってドイツ語を学び、努力の結果、2年間で官立外国語学校を卒業した。
そのようななか、明治35年に川瀬元九臓が留学から帰国して、日本でスウェーデン体操を広め、明治36年にも井口あぐりが留学から帰国してアメリカ式のスウェーデン体操を広めた。
こうした状況に負けじと、留学から戻ってきた坪井玄道が、ヨーロッパのスポーツを日本で紹介して広めた。
坪井玄道は「日本初の体育教師」と言われる人で、サッカーや卓球を日本に持ち帰り、ソフトテニス(軟式テニス)を考案した。また、可児徳とともにドッジボールを日本に紹介した人である。
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■永井道明の台頭
さて、学校の体育教師は、文部省主導の普通体操と、陸軍省主導の兵式体操を教えていたところに、スウェーデン体操が加わり、様々なスポーツまで氾濫したため、何を指導して良いのかわからなくなり、体育界は混乱期を迎えた。
そこで、文部省は、普通体操とスウェーデン体操を統合するため、調査委員会を設置して、調査委員を任命した。
普通体操派の可児徳は、調査員の1人に選ばれたが、普通体操派とスウェーデン体操派の派閥争いがあり、このときの報告書は問題を多く残し、体操の統合はできなかった。
そこで、文部省は昭和38年12月、姫路中学校で校長をしていた永井道明を海外留学に派遣したのだった。
さて、文部省は、体操の統廃合を機に、陸軍省の支配下にある兵式体操を、単なる体操の1つとして文部省の支配下に移し、体操を統廃合することによって、陸軍省を排除しようと考えていた。
こうした動きを察知した陸軍省は、軍人が兵式体操を指導すれば、体育教師は不要と主張し、体操を兵式体操に統一する案を掲げ、文部省に圧力をかけたのである。
こうして、文部省と陸軍省による調査委員会が発足し、可児徳も調査員に選ればれたが、文部省と陸軍省の主導権争いがあり、議論はまとまらなかった。
そこで、欧米留学に出ている永井道明の帰国を待って、調査委員会を仕切り直すことになった。
そして、永井道明が帰国後、第2回・調査委員が任命されるのだが、可児徳はメンバーから外れてしまった。
しかも、可児徳は10年近く、東京高等師範学校で助教授を務めているのに、洋行帰りの永井道明が東京高等師範学校の教授に就任し、上司となってしまった。
しかも、本場でスウェーデン体操を学んできた永井道明が、スウェーデン体操を支持して、スウェーデン体操が軍隊のためにもなると言って陸軍省を説得し、大正2年に日本初の「学校体操教授要目」の制定に成功した。
このため、学校体育の授業内容は、スウェーデン体操が中心となってしまったのである。
■オリンピックに向けて
ところで、東京高等師範学校の校長・嘉納治五郎は、明治42年に東洋初の国際オリンピック委員に就任していた。
このとき、東洋からオリンピックに参加している国は無かったことから、国際オリンピック委員会の委員長クーベルダンが、明治43年に嘉納治五郎は日本のオリンピック参加を要請する。
このころ、スポーツは遊びの延長と考えられており、スポーツを統括する全国的な部署は無かった。
そこで、嘉納治五郎は、文部省や日本体育会に、日本オリンピック委員会の設置を要請したが、スポーツは体育ではなく、遊びの延長だったので、断られてしまった。
このため、嘉納治五郎は、スポーツに理解のある東京帝国大学・東京高等師範学校・早稲田大学・慶応義塾大学・明治大学などに協力を要請し、大日本体育協会を発足して、その傘下に日本オリンピック委員会を設置した。
可児徳は、永井道明とともに大日本体育協会を設立する話し合いの段階から参加しており、日本のオリンピック初参加のために尽力している。
そして、東京高等師範学校の学生・金栗四三が長距離の日本代表、東京帝国大学の学生・三島弥彦が短距離の日本代表に選ばれ、日本初参加となる明治45年のストックホルム・オリンピックに参加した。
ただ、可児徳と金栗四三に関する個人的なエピソードは残っていない。
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■念願の留学
可児徳は、オリンピックに参加するために尽力する一方で、ドイツ留学を夢見て、明治44年9月から明治45年11月まで、ドイツ協会付属ドイツ専修学校高等科で、再びドイツ語の勉強を開始した。
そして、宿願が叶って、大正4年に留学のチャンスを得たが、第1次世界大戦が勃発しており、念願のドイツ留学は叶わず、2年間のアメリカ留学を命ぜられてしまう。
こうして、可児徳はアメリカで体育を研究し、帰国するとき日本政府に留学延長とドイツ留学を願い出て、これを許可されたが、第1次世界大戦の影響でヨーロッパの状況は悪化しており、文部省から渡欧禁止の電報が届き、涙を飲んで大正6年11月に帰国したのだった。
■永井道明との対立
大正5年のベルリンオリンピックは第1次世界大戦の影響で中止になったが、日本はストックホルム・オリンピックや極東大会への出場により、スポーツへの注目が集まり始めていた。
そのようななか、大正6年11月に、アメリカでスポーツを学んで帰国した可児徳が帰国。大正7年4月には、44歳にして、念願の教授に昇進する。
しかし、永井道明の主導によって大正2年に制定された「学校体操教授要目」により、学校体育の内容は、スウェーデン体操が中心となっていたたため、可児徳はアメリカで学んだスポーツを教育に生かすことができなかった。
このため、嘉納治五郎や可児徳らスポーツ派が、スウェーデン体操派の永井道明と対立。やがて、スポーツ派が派閥争いに勝利し、永井道明を東京高等師範学校から排除することに成功したのである。
その結果、スポーツ派が主導権を握り、大正15年に「学校体操教授要目」に、第1次改正が行われ、スウェーデン体操を排除して、スポーツを大幅に採用することになったのである。
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■可児徳のその後
可児徳は、スウェーデン体操派の親玉・永井道明の排除に成功し、派閥争いに勝利したが、大正10年9月に東京高等師範学校の教授を退官し、講師として学校に残っていた。
しかし、大正12年4月に国華高等女学校を創設して、理事長兼校長に就任したため、東京高等師範学校の講師からも退いて、国華高等女学校で、女子体育の普及に力を注いだ。
その後、体育界体操学校の副校長や体育界の会長事務取締役などの要職を勤め、戦後も国華高等女学校の校長として女子体育の発展に尽力して、昭和41年(1966年)9月8日に死去した。享年93だった。
なお、NHK大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のモデルは「大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のキャストとモデルの実話」をご覧ください。
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