福山雅治の実家の不動産屋と父親の家系図のネタバレ

ミュージシャンの福山雅治の実家の不動産屋と父親アキラの家系図をネタバレします。

福山雅治の家系図

福山雅治の家系図
説明:福山雅治の家系図です

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福山雅治の父方の家系

福山雅治の福山家は、幕末に生まれた曾祖父の福山茂市(ふくやま・もいち)が福岡県柳川市で、明治時代の初めに仏壇職人となったところから始まる。

福山茂市の三男・福山敬一(福山雅治の祖父)は、仏壇作りを手伝っていたが、20歳頃に海軍に入り、通信士となって朝鮮半島南部の鎮海に渡った。

そして、福山敬一は鎮海で石田久と出会い、日本へ戻って、大正13年(1924年)に福岡県の柳川で結婚した。

昭和7年に、福山敬一と石田久の間に次男の福山明(あきら/福山雅治の父)が生まれる。

福山家は昭和20年の建物疎開で引っ越しを余儀なくされ、長崎県長崎市にある稲佐山の麓へと引っ越した。

昭和20年8月9日午前11時2分、長崎に原爆が投下された。

石田久と福山明は爆心地から約3kmの場所に居たが、石田久はとっさに近くの溝に伏せたため、怪我は無かった。福山明も近くの防空壕に逃げ込んだため、助かった。

福山家は、稲佐山の丘で爆風が弱まったので、全員が無事だった。建物疎開で引っ越したため、助かったのである。

戦後、福山明は工場で働いたが、やがて父・福山敬一が経営する「まるふく不動産」で働くようになる。

福山雅治の母・山口勝子の家系

山口勝子の母・高田貞子は、福岡県大川市でもトップクラスの繁盛していた商店を営む高田家の長女として生まれた。

母・高田貞子は、昭和18年に縁談が持ち上がり、長崎県大草村でミカン農家を営む遠縁の山口力磨(やまぐち・りきま)に嫁いだ。

しかし、山口力磨が煩っていた腎臓が悪化して40歳という若さで死んだため、高田貞子は女手一つでミカン農家を切り盛りしながら、子供達を育てた。

福山雅治の母となる山口勝子は、高田貞子と山口力磨の長女として生まれ、母・高田貞子の苦労を見て育ったので、手に職を付けようと思い、長崎にある洋裁の専門学校へ通い始め、稲佐山の麓にある叔母の駄菓子屋に通っていた。

福山雅治の父となる福山明は、この駄菓子屋に通っており、駄菓子屋で山口勝子に出会って一目惚れし、昭和42年に山口勝子と結婚し、昭和44年に次男の福山雅治が生まれた。

福山明は不動産屋を営んでおり、非常に明るい性格だったので、笑いの絶えない家庭だったが、仕事よりも麻雀に熱を入れており、50歳の時に麻雀の全国大会で準優勝するほどの腕前だった。

福山雅治は、実家の不動産屋に電話がかかってきても、「社長は今、居ません」と答えるように言われていたので、父親を遊び人だと思っていた。

そんな、父・福山明だったが、昭和60年、52歳の時に体調を崩して入院し、肺がんが見つかり、10ヶ月の闘病生活の末、昭和60年12月に死去した。福山雅治が17歳のことだった。

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福山雅治がスターダムにのし上がる

福山雅治は中学3年生の時に兄・福山一明に誘われてバンドを結成して以来、音楽に打ち込んでいたが、母・山口勝子を安心させるため、高校卒業後は長崎の電子計測器会社に就職する。

しかし、福山雅治は5ヶ月で会社を退職して、プロのミュージシャンを目指して上京した。

そして、福山雅治は、アルバイト生活を送りながら、昭和63年(1988年)にオーディションに合格し、アミューズに所属して、映画「ほんの5g」で俳優としてデビューする。

さらに、平成2年(1990年)にシングル「追憶の雨の中」で歌手デビューを果たした。

その後、福山雅治は平成5年(1993年)に大人気ドラマ「ひとつ屋根の下」に出演して全国的な知名度を得て、同年に「MELODY」で紅白歌合戦に出場し、スターダムにのし上がったのだった。

そして、福山雅治は平成27年(2015年)に女優の吹石一恵と結婚した。

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