チアダンの実話(モデル)のあらすじとネタバレ

ドラマや映画「チア☆ダン」の実話(モデル)となる福井商業高校チアリーダー部「JETS(ジェッツ)」のあらすじとネタバレです。

このページには「チアダン」の実話(モデル)のネタバレが含まれてします。ネタバレを知りたくない方は閲覧にご注意ください。

■「チア☆ダン」のあらすじとネタバレ

後に福井商業高校チアリーダー部「JETS」の顧問となる五十嵐裕子は、ドラマ「スクールウオーズ」や「3年B組金八先生」に憧れて教師になる。

その五十嵐裕子が最初に赴任したのは、ルールの守れない生徒がいる荒れた高校「福井県立坂井農業高校」(推定偏差値40)だった。

五十嵐裕子は、生徒に徹底してルールを守ることを教えていき、生徒指導の教師として生徒から「悪魔」と恐れられた。

五十嵐裕子は、生徒に自分の目標を書く「夢ノート」を書かせたが、生徒は家庭の事情などにより、夢すら描くことが出来なかった。

そのようななか、生徒が夢ノートに、真面目に勉強している自分たちまで馬鹿にされるので、この学校の制服を着て登校するのが恥ずかしいという苦悩を書いた。

これを読んだ五十嵐裕子は、職員会議で「生徒が悪いのは先生が悪いからです」と主張したので、他の教師と対立。間に入った校長に「他の先生も決して諦めている分けではない」と諭された。

ある年、五十嵐裕子は卒業生に教師としての通信簿をつけてもらうと、「教師に向いていない」「うざい」など散々な評価だった。

五十嵐裕子は坂井農業高校で、保健体育を担当する一方で、バレー部や剣道部のも顧問を受け持ち、11年を頑張ったが、成果は出ず、他の学校でやり直そうと考え、2004年3月に異動願いを出した。

2004年の春、次の赴任先が決まるのを待っていた五十嵐裕子は、テレビのニュースで、神奈川県立厚木高校ダンインピシシユスドリル部「IMPISH」が全米チアダンス選手権大会で、日本人として初めて優勝したことを知る。

そして、衝撃を受けた五十嵐裕子は「いつか、こんなチームを作ってアメリカへ行く」という夢を持つのだった。

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■新天地は福井商業高校

五十嵐裕子はスポーツの強豪校「福井県立福井商業高等学校」(推定偏差値55)に異動が決まり、福井商業高校に着任すると、バトン部の顧問を希望した。バトン部をチアダンス部に変えようと考えたのである。

福井商業高校のバトン部は大会などには出場してないが、他の運動部の試合で選手を応援しており、その存在は有名で、部員たちの目的は、かわいい衣装を着てテレビに映ったり、野球部の彼氏を作ることだったりで、練習に熱心ではなかった。

そこで、五十嵐裕子がバトン部にチアダンスを提案すると、新入部員は興味を示したが、上級生は乗り気ではなかった。

翌年の2005年9月、フジテレビ番組「奇跡体験!アンビリバボー」で、神奈川県立厚木高校ダンインピシシユスドリル部「IMPISH」が放送された。

五十嵐裕子は、放送を観て、神奈川県立厚木高校ダンインピシシユスドリル部「IMPISH」の顧問・伊藤早苗はチアダンスの経験はなく、指導は前田千代に依頼し、練習メニューは生徒に任せていることを知って驚くのだった。

2005年11月、3年生の引退後に行われた校内発表会で、バトン部の2年生が簡単なチアダンスを初披露し、同月に東京で開催された全日本チアダンス選手権大会トライアル部門に出場する。

東京までの交通費は自費だったので、出場できない1年生は直前になって法事を理由に参加を取りやめたり、参加する2年生も派手な服で来たりして、問題は山積みだった。

しかも、リハーサルの時に、ルーズソックスは禁止されていないが、印象が悪いというアドバイスを受け、慌ててソックスを買いに走るという有様だった。

さらに、福井商業高校のバトン部は2006年1月に、フジテレビが主催するチアダンス選手権ゴリエ杯に出場したが、見事に予選落ちした。

(注釈:お笑いコンビ「ガレッジセール」のゴリが松浦ゴリエというキャラクターを演じており、第56回NHK紅白歌合戦にも出場し、ゴリエを真似るというゴリエブームが起きていた。ゴリエはチアダンスが得意という設定だった。)

■バトン部からチアリーダー部へ

ルールを守れないのはチアダンス以前の問題だと考えた五十嵐裕子は、2006年4月の新入生に対して、アメリカ大会を目指す部活だと告知し、ルール厳守を確認して入部させるとともに、バトン部をチアリーダー部「JETS(ジェッツ)」へと変更した。

しかし、五十嵐裕子が出した「オールバック(おでこを出す)」「恋愛禁止」「挨拶や掃除の徹底」など、強豪校並みの厳しルールに対し、2年生部員は従わなかった。

1年生部員はルール厳守を承知の上で入部してので渋々ながらもルールを守っていたが、2年生部員はあくまでもバトン部として入部しており、野球部やバレー部について全国大会へ行ければ十分だったので、五十嵐裕子に反発してルールを守らなかったのである。

五十嵐裕子は、悪しき風習を断ち切るために、1年生部員を2年生部員から隔離していたのだが、ついに2006年6月にぶち切れ、「オールバックが出来ない人は辞めてもらう」と宣言した。

すると、翌日、2年生部員は全員退部してしまう。中には続けたいという部員も居たのだが、みんなが辞めるというのに、自分だけ残るとは言えず、全員、ユニホームを返却して退部してしまったのである。

五十嵐裕子は、チアリーダー部を理解してくれる仲間がおらず、誰にも相談できずないまま、予定していた坂井農業高校の同窓会に出席すると、坂井農業高校時代に最も対立していた高須マミが「先生の良さは卒業しなければわからない」と言ってくれたので、心が救われた。

さて、退部した2年生の保護者が団結して、学校側に保護者会を申し入れる事態に発展した。

しかし、五十嵐裕子は、最初から最後まで自分の主張を崩さず、話し合いは物別れに終わった。

納得できない保護者は教育委員会に五十嵐裕子を顧問から外すように陳情したが、校長が何度も教育委員会に足を運んで説明して、ようやく事態は収束した。

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■新体制のJETS

2年生の一斉退部により、福井商業高校のチアリーダー部「JETS」は1年生部員だけとなったので、投票で役員が決められ、文倉綾香が部長に選ばれ、山田亜梨紗が副部長に選ばれた。

こうして新体制になると、五十嵐裕子はJETSに、福井農林高校の郷土芸能部の練習を見学させた。郷土芸能部はチアリーダーには全く関係ないが、本気で練習に取り組んでいる姿を見せるためである。

さらに、劇団四季のコーラスラインが来ると、JETSを連れて見に行き、劇団四季のダンサー柴田桃子に頼んでJETSの指導もしてもらった。

また、石川県金沢市の強豪校である遊学館高校・バトントワリング部へ見学に行くと、JETSは自主的に、遊学館高校の良いところを取り入れるようになった。

そして、幸い福井商業高校の運動部は強豪校が揃っていたので、五十嵐裕子は運動部の顧問から強い部を作るアドバイスを受け、チアリーダー部「JETS」に改革を始めた。

■JETS1年目-前田千代の指導

1年生部員はアメリカ大会を目指すことを承知で入部しており、バレエやよさこい経験者など、優秀な部員が集まっていた。

しかし、五十嵐裕子はチアダンスの素人であり、本気でアメリカ大会を目指すためにはプロの指導を受ける必要があった。

そこで、五十嵐裕子は、今しかないと考え、神奈川県立厚木高校ダンインピシシユスドリル部「IMPISH」を指導した前田千代にコーチを依頼したのである。

前田千代は、東京なので福井県に行くためには片道で5時間がかかるが、五十嵐裕子の熱意を受けて指導を承諾した。

ところが、バレエやよさこいなどの経験している優秀な1年部員が次々と辞めていき、18人居た1年生はその年に暮れには半分の9人まで減っていた。

バレエやよさこい経験者は、下地があるので最初は良かったのだが、未経験の部員が上達してくると、バレエやよさいの癖が仇となり、未経験者に逆転されてしまった。それが、面白くなくて、辞めていったのだという。

このため、2009年9月から前田千代の指導が始まり、神奈川県立厚木高校ダンインピシシユスドリル部「IMPISH」と同じ練習メニューをこなすのだが、残っていたメンバーはほとんど素人ばかりになっていた。

チア・ダンの実話(モデル)の最終回と結末ネタバレ」へ続く。

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