チア・ダンの実話(モデル)の最終回と結末ネタバレ

映画やドラマ「チア☆ダン」の実話(モデル)となる福井商業高校チアリーダー部「JETS(ジェッツ)」のあらすじとネタバレ後編です。

このページは「チアダンの実話(モデル)のあらすじとネタバレ」からの続きです。

■JETS1年目-福井商業高校の夢ノート事件

前田千代の指導が始まった翌月の2009年10月、五十嵐裕子はJETSの部員にノートを配り、「夢ノート」を書くように命じると、JETSの部員は「はい」と気持ちの良い返事をした。

しかし、その日の放課後、部室に残っていた一部の部員たちが、「練習で疲れているのに、夢ノートを書けなんて、あり得ない」などと、五十嵐裕子の悪口を言い合った。

五十嵐裕子は横柄でなんでも1人で決めてしまい、しかも頑固で、部員たちの意見を受け入れなかったのである。以前に勤務していた坂井農業高校でも、五十嵐裕子の生徒からの評価は「クソバアア」「うざい」であった。

このため、JETSの部員は「オールバック(おでこ出し)」「お金の問題」「何でも1人で決めてしまう」という不満を募らせていた。

「お金の問題」というのは、元々バトン部だったのが、リアリーダー部に変更したので、それに伴う道具の買い換えや、劇団四季などと見に行く費用などである。部員は親に負担してもらっているので、これは大きな問題だった。

さて、五十嵐裕子は偶然、部室の前を通りかっており、部室の前で部員たちが不満を言い合っているのを聞いてしまい、激怒して「あなたたちがそんな気持ちなら、もう練習はしない」と、部室に怒鳴り込んだ。

翌日、部室で悪口を言っていた部員は、五十嵐裕子に反省文を提出する。部員は「オールバック(おでこ出し)」「お金の問題」「何でも1人で決めてしまう」という不満を素直に明かしながらも、五十嵐裕子に戻ってきて欲しいと訴えたのである。

五十嵐裕子は、部員たちに返事の手紙を書き、自分の考えが理解されないのは自分が未熟だからだと反省しながらも、自分の意見を述べたのだった。

こうした事件を経ながらも、福井商業高校のチアリーダー部「JETS」は、2006年11月の全日本チアダンス選手権大会の予選に通過し、本戦で12位となった。

さらに、2007年1月のUSAリージョナルス名古屋大会で2位に輝き、2007年3月のUSAナショナルズに初出場して、ソングリーディングボンボン部門で12位という成績を上げるのだった。

また、2007年2月には厚木高校のIMPISHと日帰りながら合同練習を行った。厚木高校のIMPISHは生徒が自主的に練習メニューを決めるており、それを目の当たりにした福井商業高校のJETSは大きな収穫を得るとともに、五十嵐裕子は厚木高校の顧問・伊藤早苗という心のよりどころを得たのだった。

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■JETS2年目

2007年4月に、初代JETSメンバー9人は2年生になり、1年生17人が新入部員として入った。

しかし、「アメリカ大会を目指す」「オールバック(おでこ出し)」「ルール厳守」などの入部条件を告げると、1年生2人が辞めてしまった。

さらに、1年生部員は入部して早々に前田千代の指導が始まるというハードスケジュールなうえ、2年生も先輩が居なかったため、どのように後輩を指導して良いのか分からなかった。

しかも、一斉退部した2年生が最上級の3年生になっており、元部員の3年生が五十嵐裕子やJETSに反感を持っていた。福井商業高校は運動部を主体とした縦社会だったので、JETSの部員は教室でも肩身の狭い思いをしたのだった。

このようななかでも、チアリーダー部は、運動部の応援に駆けつける一方で、チアダンスの大会に出場していき、着実に成績を伸ばしていくのだった。

■JETS3年目-五十嵐裕子40歳

2008年4月、初代JETSの部員が3年生になり、新たに1年生部員が加わった。JETSの部員数は44人となった。

そのようななか、五十嵐裕子は40歳の誕生日を迎えるのだが、JETSの部員が誕生日を祝ってくれた。教師になって初めてのことだった。

さて、2004年に全米優勝を果たした神奈川県立厚木高校ダンインピシシユスドリル部「IMPISH」は進学校だったので、部活は2年で引退していたが、福井商業高校は3年生の最後まで部活に残っていた。

このため、五十嵐裕子は、厚木高校が2年でアメリカへ行けたのだがから、3年の卒業式まで練習できる福井商業高校もアメリカへ行けると確信していた。

全米選手権に出場するためには、11月に開催される全日本チアダンス選手で入賞しなければならない。

福井商業高校の成績は、1年目の2006年大会が12位、2年目の2007年大会が7位。11月の全日本チアダンス選手に向けてJETSの3年目が始まるのだった。

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■JETS3年目-文倉綾香の復帰

文倉綾香は、1年生の時から部長としてチアリーダー部のために尽くす一方で、誰よりも練習を重ねており、膝を故障していた。

そこで、文倉綾香は五十嵐裕子と話し合い、夏の大会を諦めて秋の大会を目指すため、手術を受けた。そして、退院後は後輩の指導を務めた。

一方、チームのムードメーカーだった牧田萌は、ダンス経験の無い素人組だったが、2年生に入ってメキメキと上達しており、3年の夏に初めてセンターに抜擢された。

2008年7月、福井商業高校チアリーディング部「JETS」はスダンスドリルチーム日本大会に出場し、ダンス部門4位、ベストロールプレゼンテーション賞で初入賞という好成績を収めた。

さらに、福井商業高校の野球部が3年連続で甲子園出場という快挙を果たしており、チアリーディング部も応援に向かうことになるが、3年生の部長・文倉綾香と顧問・五十嵐裕子が対立する。

文倉綾香は手術後の療養中で、後輩の指導にあたっていたが、好調な部員たちとは対照的に、思うように練習も出来ず、疎外感を感じており、その不満が態度に表れていた。

このため、3年生部員の中川怜美が文倉綾香の態度に怒り、文倉綾香を突き飛ばすという事件が起きていた。

このようななか、顧問・五十嵐裕子は怒って「明日から練習に来なくていい」と告げたが、文倉綾香は甲子園に野球部の応援に行くことを楽しみにしてので、不満を爆発させ、手に持っていたペットボトルを床にたたきつけた。そのペットボトルが五十嵐裕子の方に飛んでいったのである。

これは、五十嵐裕子にとっても非常にショックなことだった。五十嵐裕子は、もう文倉綾香に部長として重圧のかかる仕事は任せないようにしようと思い、副部長の山田亜梨紗に部長としての役割を任せた。

さて、福島商業高校の野球部は甲子園大会の2回戦で敗退し、野球部の夏は終わると、福井商業高校チアリーダー部は短い夏休みを経て練習を再開した。

療養を続けていた文倉綾香も、秋の大会に向けて本格的に練習に復帰。五十嵐裕子は、復帰した文倉綾香が入れるように振り付けを変更するという約束をしており、文倉綾香は復帰すると第一線で踊るはずだった。

しかし、五十嵐裕子は2008年7月に行われたスダンスドリルチーム日本大会でダンス部門4位という好成績を収めたことから、アメリカ大会に行くには振り付けはそのままの方が有利だと考え、文倉綾香との約束を反故にして振り付けを変えなかったのである。
このため、文倉綾香は最後列の一番端に回されてしまったのだ。

五十嵐裕子は、審判がセンターを重視していないので、誰がセンターを務めるかは気にしていなかったが、センターはチームの花形であり、部員たちにとっては大きな問題だった。

しかも、他のメンバーは振り付けを既にマスターしているのに対し、文倉綾香は1から覚えなければならない。

文倉綾香は、五十嵐裕子から裏切られ、他の部員に対する大きなハンディを背負うことによって悩み苦しむが、五十嵐裕子は文倉綾香の悩みに気づかず、「貴女が部を引っ張っていく時代は終わった」と言い、中間管理職のような仕事を任せたのだった。

■JETS3年目-アメリカ大会への道

五十嵐裕子の復帰した福井商業高校チアリーディング部「JETS」は、2008年9月に開催された全日本チアダンス選手権大会の関西地区予選で、2・3年がチアダンス部門で優勝。1年もポンポン部門で優勝した。

そして、2008年11月、JETSは、アメリカ行きの切符を賭けた全日本チアダンス選手権大会の本選に出場し、過去最高の3位に入賞したが、優勝を逃したため、アメリカ行きの夢は潰えた。

ところが、大会が終わった日の夜、JETSの部員は五十嵐裕子からアメリカ大会へ行けることを教えられる。

五十嵐裕子は「優勝すれば、アメリカへ行ける」と言い続けていたが、実際は3位までに入賞すればアメリカ大会に出場できたのである。

JETSの部員は、寝ぼけていて何のことだか意味が分からなかったが、やがてアメリカ大会に出場できると知り、大喜びするのだった。

その後、五十嵐裕子は校長と保護者を説得してアメリカ大会に出場することが正式に決まるが、参加費40万円のうち部員の負担は30万円であり、3年生9人のうち3人が経済的な理由でアメリカ大会を辞退した。

さらに、部長の文倉綾香までもがJETSを辞めてしまう。文倉綾香は金銭面での問題は無かったが、JETSを辞めてアメリカにも行かないのだという。

五十嵐裕子は文倉綾香の頬を張り、頭を冷やすように告げたが、文倉綾香は決意を変えずにJETSを退部した。

年が明けて2009年1月、福井商業高校チアリーディング部「JETS」はアメリカ大会に向けて練習を開始する。

そして、2009年3月3日に卒業式を迎え、翌日の3月4日に成田空港から飛行機でアメリカに向かい、3月7日の全米チアダンス選手権大会の予選に参加し、大会の花形であるチームパフォーマンス部門に出場した。

JETSの部員は初めてのアメリカということもあり浮き足立っていたが、予選の前夜にようやく落ち着きを取り戻していた。

予選当日、リハーサルで演技に失敗した中川怜美は、控え室でギリギリまで練習をしようと考えていたが、アメリカの大会では全く練習が出来ず、そのまま予選に出場。予選でミスをしてしまうが、なんとか予選は通過することができた。

さて、アメリカの大会では、ジャッジメントシートと呼ばれる採点表が渡され、そこの審判の寸評が書き込まれていた。

審判はJETSに対して細かいアレンジを要求していたので、コーチの前田千代は振り付けの変更を決定。既に夜になっていたが、ホテルの前の芝生を借りて変更点を重点的に練習をした。

そして、翌日の3月8日、JETSはリハーサルを経て本戦に出場。チームパフォーマンス部門の本戦には5チームが出場しており、審査の結果、JETSが優勝を果たしたのだった。

その後も、福井商業高校のチアリーディング部「JETS」は快進撃を続け、2017年3月の時点で、全米チアダンス選手権大会のチームパフォーマンス部門で5連覇を達成している。

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