不如帰(ほととぎす)-あらすじと実話とモデルのネタバレ
徳冨蘆花の小説「不如帰(ほととぎす)」のあらすじと実話やモデルをネタバレです。
このページは「三島通庸の妻・三島和歌子の生涯」のスピンオフ企画です。
■小説「不如帰(ホトトギス)」のあらすじとネタバレ
中将・片岡毅の娘・浪子は継母と折り合いが悪かったが、男爵・川島武男と結婚して川島家に入り、幸せな新婚生活を送っていた。
浪子は姑・お慶夫人に献身的に尽くしていたが、気性の激しい姑・お慶夫人は浪子に辛く当たっていた。
それでも、浪子は夫・川島武男と幸せに暮らしていたが、結婚から1年ほどが過ぎたころ、浪子は肺を冒されて吐血したため、逗子海岸で療養することになった。
そのようななか、山木や千々岩が、川島武男と浪子を引き裂こうとして画策し、姑・お慶夫人に、川島武男に病気が感染したら、お家の一大事だと不安を煽った。
こうした画策を受けた姑・お慶夫人は、不安になり、川島武男に離婚を迫るが、川島武男は離婚を拒否して仕事で海軍へ戻った。
そこで、姑・お慶夫人は、川島武男が留守の間に、浪子の実家・片岡家に離縁を申し入れ、片岡家が浪子を引き取った。浪子は片岡家に戻って、事情を知り、悲しみに暮れるのだった。
一方、川島武男は帰宅すると、浪子と離婚させられていたので怒るが、日清戦争が勃発したため、出陣する。
川島武男は戦争で負傷し、佐世保の海軍病院に入院していると、浪子から荷物が届き、川島武男は浪子のことを愛しているこ確信して手紙を送る。
手紙を受け取った浪子は、魂となって川島武男と添い遂げようとして、海に身を投げるが、クリスチャンに助けられたのだった。
その後、戦争が終わって復員した川島武男は、浪子に会いに行くが、浪子は父・片岡毅と関西旅行に出ており会えなかった。
そして、川島武男は再び戦地に向かうことになり、広島県の呉港へ行くため、汽車に乗り、京都で浪子が乗った電車とすれ違い、お互いに名前を呼び交わすが、そのまま電車は遠ざかって行くのだった。
関西旅行から戻った浪子は、吐血して様態が悪化していき、「ああつらい。つらい。もう婦人なんぞに生まれはしませんよ」と言いながら死んでいった。
葬儀の日、多くの花が供えられたが、片岡家は川島家の花は突き返した。
戦争から戻ってきた川島武男は、浪子の墓の前で泣き崩れた。そこへ、浪子の父・片岡毅が現れ、川島武男と手を取り合って泣いたのだった。
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■不如帰(ホトトギス)のモデルのネタバレ
小説「不如帰(ホトトギス)」の登場人物のモデルは次の通りです。
浪子・・・大山信子
父・片岡毅・・・大山巌
浪子の継母・・・大山捨松
夫・川島武男・・・三島弥太郎
姑・お慶夫人・・・三島和歌子
■不如帰(ホトトギス)の実話のネタバレ
三島弥太郎は、高崎五六の娘・高崎よし子と婚約(許嫁)していたが、高崎よし子が三島弥太郎の留学中に他の男性を好きになったため、この婚約は破談となり、新たな結婚相手を決めることになった。
そこで、三島弥太郎と大山信子の間を取り持つことになったのは、西郷従道の妻・西郷清子である。西郷従道は、西郷隆盛の弟で、大山巌の従兄弟にあたる。
以前、大山信子の継母・大山捨松が西郷清子に、大山信子の結婚相手について相談しており、大山信子の結婚相手にと、三島弥太郎との縁談を持ち込んだのである。
その一方で、西郷清子は三島弥太郎の妹・峰子(牧野伸顕の妻)に、大山信子との縁談を持ち込んだ。
妹・峰子は慌てて実家の三島家に帰り、三島通庸の死後、三島家の采配を振るっていた母・三島和歌子に報告した。
このとき、三島家にはいろいろな縁談が舞い込んでおり、公卿侯爵・四条隆謌の長女・四条加根子、元大名で子爵の保科正益の娘・保科寧子が結婚相手の候補に挙がっていた。
このため、母・三島和歌子が親族を集めて家族会議を開くと、三島弥太郎は母・三島和歌子に結婚相手を一任した。
このころ、結婚は本人だけの問題では無く、家同士の問題だったので、三島弥太郎はそれを心得ていたため、三島家を取り仕切る母・三島和歌子に嫁選びを委ねたのである。
すると、母・三島和歌子は、大山信子を結婚相手に選んだ。理由は分からないが、同じ薩摩出身という点が大きかったのだろう。
さて、大山信子を結婚相手に決めた母・三島和歌子は、大山信子の健康状態を確かめるため、大山家の主治医・橋本綱常に問い合わせると、主治医・橋本綱常は「大山信子は健康だ」と答えた。
このため、縁談は進み、三島弥太郎と大山信子は、明治26年(1893年)4月に結婚したのだった。
さて、大山信子が嫁いできた翌日、大山信子が咳をしていたので、姑・三島和歌子は風邪かと思い、風邪の手当を教えた。
しかし、大山信子はその後も激しい咳をして、発熱して病床に着いたので、三島和歌子は三島家の主治医・高木兼寛に診察させると、主治医・高木兼寛は大山信子の痰を検査した。
(注釈:別説によると、大山信子が嫁いできた直後、姑・三島和歌子と夫・三島弥太郎が風邪を引き、大山信子が看病にあたったが、その看病疲れて、今度は大山信子が風邪で寝込んでしまい、結核になったのだという。)
主治医・高木兼寛は、病名を告知しなかったが、その後も大山信子の病気が進行していたので、姑・三島和歌子に助言して、大磯の別荘で大山信子を静養させた。
その一方で、主治医・高木兼寛は、大山信子が結核だと分かったので、大山家の主治医・橋本綱常の元を訪れて、結核患者を結婚させるのは医師として失格だと批判した。
当時、結核(肺病)に特効薬は無く、感染すると家が絶滅すると恐れられた病気だったのだ。
しかし、大山家の主治医・橋本綱常が結核の発症は結婚後だと言って譲らないので、高木兼寛と橋本綱常は大山信子の発病が結婚前なのか、結婚後なのかで論争になった。
高木兼寛が海軍で、橋本綱常が陸軍だった。海軍と陸軍の対立という背景もあり、どちらも自説を曲げずに譲らなかった。
その結果、怒った大山家の主治医・橋本綱常は、大山家へ行き、三島家から大山信子を連れ戻すように訴えた。
そこで、大山家は、父・大山巌が旅行から帰ってると、家族会議を開いて大山信子を引き取ることを決め、大磯の別荘で療養中の大山信子に使いを出し、国元から叔母が尋ねてきたという口実で、大山信子を呼び戻した。
三島和歌子は、「用事が済んだら直ぐに帰ってきなさい」と言って大山信子を送り出したが、大山信子が一向に帰ってこない。そこで、迎えを送ったが、大山家は「信子は病気なので療養しなければならない」と言い、大山信子を返さない。
三島和歌子は怒って「ひとたび当家に嫁いだからには、大山信子は当家の人間である。大磯の別荘で看護婦を付けて静養させるので返して欲しい」と訴えたが、大山家は大山信子の返還に応じなかった。
こうして、大山信子は結婚から2ヶ月後に大山家に引き取られて別居することになった。
当時は結核に有効な治療法は無く、安静にして自然治癒力に頼るほか無かったので、大山家に引き取られた大山信子は、沼津の別荘で保養していたが、潮風が強いので、横須賀の親戚に預けられた。
大山信子が出す手紙も、三島弥太郎から届いた手紙も、大山家の指示で全て女中が止めており、大山信子は大山家に引き取られた経緯は何も知らず、三島弥太郎に思いをはせていた。
しかし、女中のミスで、三島弥太郎から来た手紙を大山信子に届けてしまい、大山信子は三島弥太郎と離婚させられそうになっていることを知り、泣き崩れ、様態を悪化させてしまう。
父・大山巌としては、大山信子は無き先妻の忘れ形見で有り、大山信子のことが大切であり、三島家に返しても妻としての勤めは難しく、三島家に置くことは大山信子の病気にも良くないと考え、手元に置いて静養させることが大山信子のためだと考えた。
一方、三島和歌子も、大山家が大山信子の返還を拒んだこともあり、大山信子が結核になった以上は、離婚は致し方の無いことだと考えており、当時の結婚は家の問題だったので、2人の離婚は致し方の無いことだった。
その後、父・大山巌は自宅に離れを作って大山信子を住まわせて静養させた。大山信子の食器には目印が付いており、家族の食器とは別にされ、全て消毒で洗浄された。
これは大山信子が隔離されて差別された分けではなく、継母の大山捨松は看護婦の知識を持っていたので、結核の感染拡大を防ぐためには当然の処置だった。
しかし、当の大山信子は、三島弥太郎のことを想い続けており、大山家を抜け出して、三島家に向かい、大山捨松に連れ戻されるということもあった。
さて、日清戦争が終結して明治28年5月に父・大山巌が帰国すると、三島家から正式に離婚の申し入れたがあった。
三島弥太郎は、お家存続のために三島和歌子や身内から再婚を迫られ、再婚の話が進んでいたのだ。三島弥太郎は離婚に不本意だったが、当時の結婚は家の問題であり、仕方のないことだった。
父・大山巌は、静養のために大山信子を関西旅行に連れて行ったりしたが、大山信子の病気が好転することは無く、両家の話し合いにより、明治28年9月16日に協議離婚が成立した。
こうして正式に離婚が成立した島弥太郎は、明治28年11月に陸軍中将・四条隆謌の娘・四条加根子と再婚した。
その後、大山信子の様態は悪化の一途をたどり、福家安子が大山信子を見舞うと、大山信子は「もう2度と女なんかに生まれてこない」と言って泣き、「死にたくない」と言いながら、離婚から3年後の明治29年5月21日に死んだ。
(注釈:福家安子の夫は陸軍中将で、大山巌の副官だったが、日清戦争の時に病死している。そいう関係で、福家安子は大山家に出入りしていた。)
さて、明治31年の秋、徳冨蘆花は逗子の柳屋を借りて住んでいた時に、福家安子と知り合い、福家安子から大山信子が結核によって離婚させられた話を聞いた。
福家安子が話した内容は「大山信子が肺結核で離縁させられ、三島弥太郎は悲しんだ」「父・大山巌が怒って大山信子を引き取った」「父・大山巌は大山信子のために静養室を建てたり、関西へ旅行した」「葬儀の時に川島家の生花を突き返した」「大山信子が『もう2度と女なんかに生まれてこない』と言って死んだ」というものだった。
そこで、徳冨蘆花は福家安子から聞いた話を脚色して、明治31年11月に小説「不如帰(ホトトギス)」の連載を始めた。小説「不如帰」は大ヒットし、舞台や映画になって世間に広まっていった。
三島和歌子は周囲の人間が止めるのを聞かずに、舞台「不如帰」を見に行き、「私はそんなことは言っていない。徳冨蘆花という人は悪い奴だ」と言って激怒した。
一歩、大山信子の継母・大山捨松は小説「不如帰」の影響で批判を受け、晩年まで小説「不如帰」に悩まされ続けた。
赤十字が慈善事業の一環で、本郷座の芝居「不如帰」を買い取ろうとしたとき、赤十字の幹部だった大山捨松が怒ったため、中止となり、芝居「想夫憐」へと変更になった。
その後、作者・徳冨蘆花は、大正8年の雑誌「婦女界」の「不如帰の真相」で、小説「不如帰」は実話ではなく、小説のために姑や継母を悪者に描いたことを明かし、姑・三島和歌子と継母・大山捨松をして、一応の決着をみた。
つまり、小説「不如帰」は、大山信子の実話をモデルにしているが、あくまでも脚色を付け加えた小説なのである。徳冨蘆花は小説「不如帰」の成功で、兄・徳富蘇峰から独立を果たした。
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■小説「不如帰」の実話のネタバレ
上で小説「不如帰」の実話を紹介したとおり、大山信子の離婚の真相は、大山信子の結核の発症が結婚前なのか、結婚後なのかを巡り、三島家の治医・高木兼寛と大山家の主治医・橋本綱常が口論したことが原因である。
小説「不如帰」では、姑・お慶夫人(モデルは三島和歌子)が浪子(モデルは大山信子)を追い出しているが、そのような事実は無い。
三島和歌子は厳しい性格だったことは事実だが、下人や女中はもとより、飼っている犬猫まで自分で面倒をみた。犬や猫がお産するときなど、三島和歌子は大騒ぎして、あまりにも面倒をみすぎるので、怪我をしたこともあったと伝わる。
事実として、三島家に仕えた女中は、みな高齢で、90歳を超える女中もおり、その身が終わるまで三島家に仕えた。女中は主人が嫌なら辞めるので、これは三島和歌子が女中から慕われていた証拠である。
また、大山信子は、大山家に居た頃は継母に遠慮して亡き実母の写真を隠していたのだが、結婚して三島家に入ると、継母に遠慮する必要が無くなったので、隠して置いた亡き実母の写真を机に飾って朝夕に拝むようになった。
それを見た三島和歌子は、心根の優しい子だと感心し、大山信子に厨子(仏像などを安置する小さな仏壇)を買い与えて、亡き実母の写真を入れて祭らせた。
一方、小説「不如帰」の浪子の継母のモデルとなった大山捨松も、小説「不如帰」の影響で酷い批判を受けたが、後妻として大山家に入った大山捨松が、前妻の子・大山信子をイジメていたという話は残っていない。大山捨松は大山信子の離婚は三島家のせいだと言っている。
赤十字が慈善事業の一環で本郷座の催し物として「不如帰」を買い付けようとしたとき、特別協賛員の大山捨松が怒ったので、「想夫憐」に変更された。
大正8年(1919年)に、作者の徳冨蘆花は雑誌「婦女界」で、姑と小説「不如帰」は実話ではなく、小説のために姑や継母を悪者に描いたことを明かし、姑・三島和歌子と継母・大山捨松をして、一応の決着をみた。
■徳冨蘆花のネタバレ
ところで、当ブログは、新島八重(山本八重)をモデルとしたNHKの大河ドラマ「八重の桜」の時に「小田時栄の不倫事件」を紹介した。
「小田時栄の不倫事件」のあらすじは、夫・山本覚馬に見覚えが無いのに、妻・小田時栄の妊娠が発覚。怒った山本覚馬の姉・新島八重(山本八重)は、小田時栄を追い出したというものである。
実は、この「小田時栄の不倫事件」は、徳冨蘆花の自伝的小説「黒い眼と茶色の目」で広まったネタである。今回の「不如帰事件」と一緒に読むと面白い。
なお、山本時栄の不倫については「山本覚馬の妻・山本時栄(小田時栄)の不倫事件」をご覧ください。
ちなみに、徳冨蘆花は嫉妬深く、妻・愛子に暴力を働く最低なDV夫だった。妻・愛子が甥と添い寝をしていただけで、徳冨蘆花は激怒して妻・愛子にDVを働いた。
また、徳冨蘆花は兄・徳富蘇峰と絶縁するのだが、絶縁の本当の理由は徳冨蘆花の嫉妬である。徳冨蘆花は妻・愛子と徳富蘇峰の不倫を疑っていたのだ。
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