スカーレット-川原喜美子(戸田恵梨香)のモデルは神山清子
NHKの朝ドラ「スカーレット」のモデルとなる神山清子の生涯をネタバレします。
■スカーレットの川原喜美子(戸田恵梨香)のあらすじ
川原喜美子(戸田恵梨香)は、大阪府に生まれたが、9歳の時に滋賀県の信楽に移り住んだ。三姉妹の長女で、絵の大好きな女の子だった。家が貧乏だったので、川原喜美子(戸田恵梨香)は子供の頃から懸命に働いた。
川原喜美子(戸田恵梨香)は15歳の時に大阪で就職するが、滋賀県信楽に戻って陶芸の道へと進み、ある陶芸家と出会って結婚し、息子を出産するが、離婚。波瀾万丈な人生を送りながらも、陶芸の道を究めようとするのだった。
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■スカーレット-川原喜美子(戸田恵梨香)のモデル
神山清子(こうやま・きよこ)は昭和11年(1936年)8月2日に、長崎県佐世保市で生まれた。
神山は結婚した夫・神山易久の姓で、本名は金場清子と言い、名字に「金」が入っていたため、韓国人扱いをされて虐められており、子供の頃から1人で絵を描いて過ごした。
(注釈:この時代の韓国は、現在の韓国では無く、日韓併合中の「大韓帝国」です。)
父・金場繁は、炭鉱の現場監督のような仕事をしており、情に厚い人だったが、酒と博打に溺れており、博打で負けて神山清子と妻を借金のカタに風俗店へ売り飛ばすような人だった。
母・金場トミは良家のお嬢様だったので、自分では何もせず、神山清子は小学生の時から家事や家計を任されていた。
さて、父・金場繁は、炭鉱で働いている韓国人と親しくしており、韓国人が炭鉱から脱走したときに、その手伝いをした。
このため、父・金場繁は警察に追われる羽目になり、一家は炭鉱町を逃げだし、各地の韓国人に助けられながら、滋賀県日野町にたどり着き、戦後の昭和22年に滋賀県信楽町に移り住んだ。
さて、神山清子は、母親が作る服が韓国人の服に似ていたことから、滋賀県信楽町でも韓国人と呼ばれて虐められた。
しかし、神山清子は負けん気が強く、いじめっ子の両親や校長に被害を訴える一方で、みんなに求めてもらうために勉強に励み、試験はいつも満点だった。
そして、神山清子は中学の時に滋賀県の絵画コンクールで金賞を取ったので、美術教師が美術大学への進学を勧めた。
信楽町が費用を負担してくれ、高校へ進学できることになったのだが、父・金場繁は「人様の世話にはならん」「女に学問は要らん」と言い、進学の話を断固として拒否し、中学校を卒業した神山清子を和裁学校へ入れた。
神山清子は花を売りながら学費を稼ぎ、和裁学校へ通いながら、絵の勉強をしていると、信楽には「絵付け師」という絵を描く仕事がある事を知り、信楽で一番の絵付け師の元に通い詰め、弟子入りを頼んだ。
しかし、絵付け師は、娘が男の弟子と問題を起こしたので、女の弟子は取らないと言い、弟子にはしなかったが、神山清子の絵の実力を認め、別の絵付け師を紹介した。
こうして、神山清子は、紹介してもらった絵付け師の弟子になったが、女中のような仕事ばかりさせられたうえ、ようやく絵付けの仕事ができるようになっても、絵付け師は怒ると直ぐに物を投げつけるので、弟子を辞めた。
その後、ある人の紹介で、神山清子は18歳の時に、火鉢を製造していた信楽の窯業会社「近江化学陶業」に就職してた。
そして、神山清子は1年ほどで頭角を現し、日本初の女性の絵付け師となった。
「女が窯に入ると汚れる」と言われる時代だったので、神山清子は異例中の異例として窯に入る事が許されていたようだ。
さて、神山清子は、21歳の時に会社の同僚・神山易久と結婚して、2人の子供をもうけたが、専業主婦になるゆとりなど無く、子供を負ぶって出勤し、働き続けた。
しかし、電化製品が普及してくると、会社の主力製品だった火鉢の需要が激減し、会社が傾いてきた。
そこで、神山清子は「近江化学陶業」を辞めて独立し、信楽焼のタヌキの型押しの仕事を始めたのだが、全く儲からないので、お金になる仕事を探していたとき、信楽焼には食器が無いことに気づき、信楽焼で食器を作り始めた。
そして、ある人の助言で、作品を展覧会に出品すると、相次いで作品が入選し、神山清子は信楽の女流陶芸家として注目を集めたが、「女が窯に入ると汚れる」と言われていた時代なので、同業者からの嫌がらせを受けた。
やがて、神山清子は本格的な信楽焼を作るため、夫・神山易久とともに、半地上型の穴窯を作り、「寸越窯(ずんごえがま)」と名付けた。
そして、夫・神山易久に支援者が現れ、これからと言うときに、夫・神山易久が弟子と不倫を始め、泥沼の離婚騒動の末、最終的に夫・神山易久が女性の弟子を連れて出て行った。
そのようななか、長男・賢一が古い信楽焼の破片を発見する。それは釉薬を使わずに色を出す「自然釉」の信楽焼だった。
神山清子は「自然釉」の魅力に取り付かれ、古代の信楽焼を復活させたいと思い、試行錯誤したが、数度の窯焚きに失敗してしまう。
神山清子は弟子からも借金をするほどで、次に失敗したら陶芸を休業して働きに出ようと思い、ヤケクソになり、全財産をはたいて薪を買い、普通なら3日間のところを16日間も炊き続けた。
こうれが功を奏し、ついに釉薬を使わない古代信楽焼の再現に成功し、神山清子は、「信楽自然釉」の第1人者となり、信楽の女流陶芸家として全国に名前を轟かし、国内外で高い評価を受ける陶芸家となった。
やがて、長男・神山賢一は信楽焼の陶芸家としての道を歩み始め、将来を嘱望されていたが、29歳の時に、腰痛を訴えて入院し、慢性骨髄性白血病と診断された。平成2年(1990年)のことである。
兄弟間の適合率は約25%と言われるが、長女とは白血球が適合しなかった。既に公的な「骨髄バンク」を求める運動が起きており、民間の「東海骨髄バンク」に登録したが、ドナー登録者数は少ないため、適合者はいなかった。
そこで、長男・神山賢一の知人が「神山賢一君を救う会」を発足して、ドナー探しを始めた。
神山清子も親子展を開いて、ドナー登録を訴え、数多くの人が検査を受けてくれたが、適合者は見つからなかった。
検査費用には保険が適用されず、1万円が全額自己負担だったため、「神山賢一君を救う会」は莫大な借金を背負って解散した。神山清子は、作品を売りながら借金を返済した。
その後、全国の白血病患者の「救う会」の中核となる「骨髄バンクと患者を結ぶ会」が発足すると、神山賢一は会長に就任して、骨髄バンクの設立を訴えた。
そのようななか、長男・神山賢一は急性白血病に転化し、様態が急変する。
神山清子の妹・金場静子は、HLA(白血球の型)が完全には一致しなかったが、「ニ座不一致」で移植が出来たため、骨髄移植を引き受け、平成3年10月に骨髄移植が行われた。
この骨髄移植が功を奏し、長男・神山賢一の様態は回復に向かった。
神山清子は工房と病院を往復する生活の中でも、骨髄バンク設立を訴える活動を続けており、その骨髄バンク運動が実を結んで、その年(平成3年)の12月に「骨髄移植推進財団(骨髄バンク)」が設立された。
しかし、神山賢一は平成4年(1992年)2月に白血病が再発してしまった。
神山清子は、長男・神山賢一と一緒に献体登録すると、長男・神山賢一が入院前に作った壺を「信楽自然釉」で焼いたが、長男・神山賢一は壺が持てないほど衰えていた。
そして、長男・神山賢一は、神山清子の子守歌を聴きながら、平成4年4月21日に死去した。
長男・神山賢一は自分が死んだら、骨髄バンク運動を辞めて、陶芸に取り組んで欲しいと言い残していたが、全国の白血病患者から相談が来るので、神山清子は陶芸を続けながら、ボランティア団体「滋賀骨髄献血の和を広げる会」の会長を務め、ドナー登録の必要性を訴えている。
ある日、神山清子をモデルにした朝ドラ「スカーレット」の制作が決まったというニュースが流れた。
すると、神山清子の元に、ある女性が尋ねてきた。女性は、長男・神山賢一にプロポーズしたのだが、「余命が短いから無理だ」と断られたのだという。
(注釈:おそらく、この女性は長男・神山賢一の婚約者だと思う。長男・神山賢一は結婚しようと思っていた女性が居たが、当時、白血病は差別される対象だったので、女性に被害が及ぶことを懸念して、婚約を解消していたらしい。)
なお、朝ドラ「スカーレット」のモデルやネタバレは「スカーレットのネタバレ」をご覧ください。
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