なつぞら-画家・山田天陽(吉沢亮)のモデルは神田日勝
NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する画家・山田天陽(吉沢亮)の実在のモデルをネタバレします。
■なつぞら-山田天陽(吉沢亮)のあらすじ
山田天陽(吉沢亮)は、農家の次男で、美術の才能があったが、貧乏だったため、進学を諦めて実家の農業を手伝った。そして、農業の傍らで絵を描き続けた。
山田天陽(吉沢亮)は、ベニヤ板に絵を描くという独特な手法で、馬の絵を得意としており、アニメーターを目指す奥原なつ(広瀬すず)に絵を指導し、大きな影響を与える。
山田天陽(吉沢亮)は奥原なつ(広瀬すず)の事が好きだったが、奥原なつ(広瀬すず)がアニメーターという夢をもっていたことを知り、身を引いて奥原なつ(広瀬すず)を東京へと送り出し、自身は北海道に残って農業を続けた。
その後、山田天陽(吉沢亮)は靖枝(大原櫻子)という女性と結婚し、農業を営みながら画家を続けた。
やがて、山田天陽(吉沢亮)の絵が売れるようになったが、農業の方は上手くいかず、農業を続けるために絵を描くという生活を続けていた。
そのようななか、山田天陽(吉沢亮)は風邪をこじらせて入院したが、退院が決まったと嘘をつき、自宅に戻り、アトリエで絵を書いた。
翌日、山田天陽(吉沢亮)はジャガイモ畑に出かけていき、そのまま死んだ。
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■山田天陽(吉沢亮)のモデルは神田日勝
NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する画家・山田天陽(吉沢亮)のモデルは、北海道鹿追町の画家・神田日勝です。
神田日勝は日中戦争中の昭和12年(1937年)12月8日に東京都練馬区で生まれたが、小学生の時に東京大空襲を受け、父親が北海道の開拓に応募し、家族で北海道鹿追町へ移住して農業を始めた。
しかし、父親は農業の経験が無く、鹿追町は寒冷被害の発生が多かったので、非常に貧しく、現金収入を得るために赤い自転車乗って郵便配達の仕事もしていた。
神田日勝は絵が得意だったので、鹿追中学校へ進学すると、美術部に入り、兄・神田一明の指導で、油絵を始め、中学卒業時に美術が特に優れていたと賞を受けた。
神田日勝は、家が貧乏だったので、兄・神田一明を東京芸術大学へ進学させるために、高校進学を断念し、中学を卒業すると、16歳で家業の農業を継いだ。
中学卒業後、神田日勝は地元の青年団に入り、青年団の演劇で舞台背景を描き、自ら舞台にも出演して、コンクールにも出場した。
また、青年団の弁論大会で優勝して十勝大会にも出場。スポーツも得意で、スキー・相撲・釣り・水泳など、多彩な方面で才能を発揮した。
神田日勝は農業をやりながら絵を描き、19歳の時に平原社展に「痩馬」を初出品した。この「痩馬」は制作費を抑えるために、ベニヤ板に描いたもので、朝日奨励賞に選ばれ、以降は平原社展や全道展を中心に出品を続けた。
また、農業の方も、農作物だけでは無く、22歳の時に開拓農協の指導で乳牛を導入した。
そして、25歳の時に青年団で知り合った農家の娘・高野ミサ子と結婚し、27歳の時に長男・神田哲哉が生まれ、31歳の時に長女・神田絵理子が生まれた。
神田日勝の両親は健在で、6人家族になったが、画家はほとんどお金にならないので、農業から収入に頼る生活は非常に苦しかったという。
29歳の時に全道展に出品した「静物」が会友賞を受け、会員推挙となり、全道展の会員になると、画家としての格が上がり、お金になる絵の仕事も舞い込んでくるようになって生活は安定したようだ。
トラクターが普及しても、神田日勝は馬と人力に頼る農業を続けていたが、農地が広くなると馬1頭ではどうにもならず、必要な時だけ、トラクター(耕す機械)やハーベスター(収穫する機械)などの機械を雇っていた。
神田日勝は他人に農業を任せて絵を描いてることに苦悩するが、カレンダーの仕事を受注すると、安定収入になったので、ようやく心を落ち着けるのだった。
神田日勝は画家としての活動が活発になるにつれ、多くの時間を画家活動に割かれるようになっていくが、農作業を休むわけには行かず、無理をしていた。
その無理が祟ったのか、昭和45年(1970年)7月、全道展帯広巡回展の会場設営中に体調が悪化してしまう。
神田日勝は病院嫌いだったので病院には行かなかったが、体調不良が続いたので、病院を受診して入院する。
しかし、原因不明のまま様態は悪化していき、昭和45年(1970年)8月25日に死去した。33歳だった。
「なつぞら-山田天陽(吉沢亮)の馬の絵に隠された実話のネタバレ」へ続く。
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