なつぞら-奥原なつ(広瀬すず)のモデルは奥山玲子

NHKの朝ドラ「なつぞら」の主人公・奥原なつ(広瀬すず)のモデルのあらすじとネタバレです。

■なつぞら-奥原なつ(広瀬すず)のモデル

奥原なつ(広瀬すず)は東京の日本橋で生まれ育ったが、父が戦死、自宅は東京大空襲で焼失して戦争孤児となった。

しかし、奥原なつ(広瀬すず)は、父の戦友・柴田剛男(藤木直人)に引き取られ、兄弟と離れて、北海道の柴田家で暮らすことになり、柴田家が経営する「しばた牧場」で働いた。

奥原なつ(広瀬すず)は小学校へ通うようになり、馬の絵が得意な山田天陽(吉沢亮)と出会う。

山田天陽(吉沢亮)も東京から来た開拓民の子で、奥原なつ(広瀬すず)は東京出身の子がいることに安心する一方で、絵の得意な父親のことを思い出してしまうのだった。

さて、奥原なつ(広瀬すず)は柴田泰樹(草刈正雄)のバター作りの夢を聞き、バターを作ろうと思うようになる。

そのようななか、学校の上映会で「漫画映画」を観た。さらに、山田天陽(吉沢亮)の絵を見せてもらい、絵に興味を持つようになるが、柴田家に気を使って農業高校へと進み、演劇部に入った。

高校3年生のとき、幼なじみの信哉が尋ねてきて兄・奥原咲太郎(岡田将生)が孤児院を出た後、闇市の芝居小屋で働いていたことが判明する。

それを知った柴田富士子(松嶋菜々子)は、奥原なつ(広瀬すず)を連れて上京し、カフェ「川村屋」などで手がかりを得て、兄・奥原咲太郎(岡田将生)を発見。奥原なつ(広瀬すず)は兄・奥原咲太郎(岡田将生)と再会を果たした。

兄・奥原咲太郎(岡田将生)は、ムーランルージュを購入してようとして、借金したのが、騙されて金を持ち逃げされており、奥原なつ(広瀬すず)らに迷惑をかけてはいけないと思い、逃げていたのだ。

その後、奥原なつ(広瀬すず)は、東京の美大に進学していた山田陽平(犬飼貴丈)と再会する。

そして、山田陽平(犬飼貴丈)が「新東京動画社」のアニメーションに関わっているというので、見学させて貰い、奥原なつ(広瀬すず)はアニメーションの魅力に見せられるのだった。

北海道に戻った奥原なつ(広瀬すず)は、酪農とアニメーションの狭間で心を揺らしながらも、山田天陽(吉沢亮)の言葉に背中を押され、東京へ出てアニメーションの仕事をやりたいと、柴田家に打ち明けたのだった。

ところが、奥原なつ(広瀬すず)は東京へ出て、「東洋動画」の試験を受けたが、不採用だった。理由は兄・奥原咲太郎(岡田将生)の経歴だった。

しかし、東洋動画の仲努(井浦新)の助言と強力により、奥原なつ(広瀬すず)はアニメーターではなく、「仕上げ」として東洋動画に採用された。

線は荒いながらも、仲努(井浦新)らに才能を認められ、3度目の試験でアニメーターに採用されたのだった。

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■奥原なつ(広瀬すず)のモデルは奥山玲子

朝ドラ「なつぞら」の奥原なつ(広瀬すず)のモデルは、アニメーターの奥山玲子です。

奥山玲子は昭和11年(1936年)生まれ。生まれも育ちも宮城県仙台市で、北海道で過ごしたという資料は無かった。子供の頃から、童話を創作して、兄弟で演劇を披露していたので、演劇部の話はその辺がネタ元だろう。

さて、奥山玲子は、中学からはミッションスクールに通い、教師になるために東北大学の教育学部に進学したが、教師というのは父親が決めた進路だったため、教師にはなりたくないと思い、家出同然で上京し、いくつかの仕事に就いた。

そのようななか、叔父の情報で東映動画の採用試験があることを知り、東映動画の採用試験を受けた。

奥山玲子は、「動画」を「童画」と勘違いしており、絵本を作る仕事だと思っていたので、面接で面食らってしまうが、なんとか東宝動画の臨時職員として採用された。

そして、奥山玲子は、日本初の長編カラーアニメ「白蛇伝」に加わって以降、アニメーターとしての頭角を現し、出世していった。

朝ドラ「なつぞら」の中で、奥原なつ(広瀬すず)がお洒落だったのは実話で、モデルの奥山玲子もいつも服装が違っていた。

さて、このころの東宝動画は、共働きを認めて居らず、女性は結婚と同時に退職したり、出世と引き換えに結婚を諦めていた。

しかし、奥山玲子は女性差別と戦うと決めており、同僚の小田部羊一と結婚後も東映動画に残り、出産後も職場に復帰した。

すると、東映動画が奥山玲子に契約社員になるように打診したが、奥山玲子が拒否したため、夫の小田部羊一に飛び火し、小田部羊一が会社から解雇されてしまった。

奥山玲子は労働組合に助けを求めて、小田部羊一の解雇を撤回させることに成功するのだが、このころ、労働組合で活動していたのが、高畑勲や宮崎駿だった。

宮崎駿は先頭に立って戦うような人で、かなり労働問題に入れ込んでいたが、労働組合が強くなり過ぎたせいで、社員は働かなくても給料がもらえるので、働かなくなり、良いアニメが作れなくなった。

このため、大塚康生・宮崎駿・高畑勲・小田部羊一ら優秀な人材が、東映動画を辞めており、奥山玲子も東映動画を辞めたかったのだが、労働組合の中心に居た宮崎駿や高畑勲が辞めた影響で、辞められる雰囲気ではなく、仕方なく東映動画に残った。

その後、収益の悪化した東映動画が指名解雇を初めたため、労働組合と対立して、「東映動画労使紛争ロックアウト事件」が勃発した。

奥山玲子は社員として残っていたが、この労使紛争が解決したのをチャンスと考え、長年勤めてきた東映動画を辞めた。

その後、奥山玲子は、夫・小田部羊一に招かれてズイヨー映像に入社し、「母をたずねて三千里」の制作に加わったが、ズイヨー映像も辞めてフリーになった。

その後、数々のアニメを手がける一方で、絵本作家としても活躍。東京デザイナー学院アニメーション科の講師に就任してアニメーターの育成に励んだ。

昭和63年(1988年)に公開された高畑勲のアニメ映画「火垂るの墓」を最後にアニメーターから引退し、銅版画家に転身したが、岡本忠成の短編アニメ「注文の多い料理店」に参加した事を切っ掛けに、銅板画でアニメを制作したいと考えるようになった。

奥山玲子は銅板画アニメの構想を練っていたが、平成19年(2007年)5月6日に死去した。死因は肺炎だった。

なお、朝ドラ「なつぞら」の各モデルについては「なつぞら-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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